※本編後 グレイとノラの話
※急に始まって急に終わる
※グレイ生存if
肌を刺すような風が吹き荒ぶ季節。いつの間にか通い慣れてしまった病院を後にして、ノラ・バグショットは市街の公園を歩いていた。ここ最近は自身の通院と大きな事件の後始末に追われるばかりで、ろくに休暇らしい休暇も取れずにいたのだが、直属の上司であるアナトリオに半ば押し付けられる形で本日の非番を手に入れることになったのだ。とはいえ急に訪れた休みに何か特別なことも思い付かず、ノラは入院している恋人へ顔を見せた後、特に当てもなくひとり道行く人々を眺めながらゆっくりとした足取りで遊歩道を歩いていた。ついひと月前にあんなことがあったというのに、この街はまるで普段と変わりない。その様子に安堵を浮かべるのは、このアメリカ合衆国を守りたいと願うFBI捜査官だからこその感情なのかもしれない。遠くから聞こえる子供たちの楽しそうな声に思わず口もを緩めた、その時だった。
「やあ、ノラ。元気そうで何よりだ」
おどけた口調と共に背後から無遠慮に肩を抱き寄せられ、体は反射的にその身を強張らせた。脳が不快だと判断したその声に、ノラは確かに聞き覚えがある。
「ランディ・グレイ……?」
恐る恐る顔を見上げたその先、人当たりの良い笑顔とレンズの奥にある愉悦の滲んだ瞳と目が合った。彼は———ランディ・グレイは———確かに先日一人の魔術師の手によって息を引き取ったはずだ。自分は確かにその姿を目にした。目にした、はずなのだが。
ぐらりと脳が揺れる。唐突に非現実を突き付けられ、それでも慌てて思考を巡らせ、そして、次の瞬間にはノラの利き手はコートの中へと伸ばされた。非番時であっても携帯を義務付けられているそれは、しっかりと右脇に取り付けられたホルスターにその身を収めている。あと少しで固いグリップに指先が届こうとしたとき、ぐいと、その行為を咎めるようにグレイは歩みを進め始めた。以前は気付かなかったが細身の割に力が強い。いや、強いなんてものではない。恋人、もしくは気心の知れた親友にするように左肩を抱くそれは、自分には容易には振りほどけないであろうことがすぐに察せられた。ノラ自身、特別力が強いわけではないが、反対に貧弱なわけでもないと自負している。そうでなければそもそもFBIの試験には合格できない。しかし、一縷の希望もなく、確実に振りほどけないと確信に至るほどには人間離れしているように感じとれてしまう。そんな状態で彼が一歩踏み出せば、もちろん自分も半ば引きずるように歩みを強制されられる。反抗の意を込めて憎たらしい横顔を睨みつけてやるが、更に愉し気に瞳を細められてしまうだけだった。
「それは、デートには無粋だろ?」
「デート?誘拐の間違いじゃないのかい?」
「まさか。君は自分の意志で歩いている、そうだろう?」
これのどこを見ればそうなるんだ。しかし今の彼に何を言ったとて無駄だろう。どうして彼がこの場にいるのか、目的が何なのかわかるまではおとなしく従った方がいい。この男の危険性は誰よりもノラが理解しているつもりだった。今この場で暴れ出し、一般人を巻き込んでしまう方がノラには大問題だ。
渋々グレイの歩幅に合わせ自らの意思で歩みを進める。その様子を見たグレイは満足そうに軽く息を吐き出した。
「いい子だ」
耳元へ寄せられた唇から小さく呟く声が耳に入る。流石、役者というべきか。ノラからすれば不愉快極まりない状況ではあるが、場の空気を作るのが上手い。これも彼自身が以前話していた開花された才能の賜物だろうか。場違いな感想を脳内で浮かべていれば、グレイはノラの左肩に回した腕をわざとらしくゆっくりとおろしていく。二の腕を掠り、腰を撫で、背中を通り過ぎて、右の掌を指でなぞり、そして、感触を確かめるように手首に触れる。ぞわりと肌が粟立つ感覚に反射的にその手を振り払おうとして、遮るように強く右手首を握られた。
「ッ、痛……!」
「……ハハ。悪い、もしかしてまだ治りきってなかったか?」
「ッ、おかげさまで?」
「そう。中々悪くない気分だ」
先日すっぱりと目の前の男のせいで切断され、そしてなんとか接合したばかりの右手首は再び同じ男にその命を委ねられていた。遠慮なく握りこまれた傷口は燃えているのではないかと錯覚するほどに熱を持ち、持ち主に痛覚を訴えていた。一瞬にしてぶわりと脂汗が吹き出し、食いしばった歯がぎり、と音を鳴らす。
「……悪趣味野郎」
「おいおい、口説き文句はもっと色気のあるものにしてくれよ」
愉し気な声音は最初から変わらない。しばらく痛みに顔を歪める姿を見て満足したのか、グレイは少しすれば呆気なく力を抜き、そのままするりと今度は右の掌を掬った。ノラへ見せつけるように指を絡ませ、そしてよく見れば恐ろしいほどに整った顔でまっすぐにノラを見つめる。
「口説き文句の手本でも見せてやろうか?」
まるで映画のワンシーンのような。しかしこの状況と宿敵である男相手では心を弾ませるなんて以ての外である。そんなノラの心情を読み取ったのか、グレイは何度目かになる笑い声を心の底から楽しそうにあげたのだった。