初めて人を殺した時のことを、よく覚えている。
用は済んだから始末しておいてくれと案内されたのは、殺風景な部屋だった。手足を拘束され猿轡を嚙まされた男は芋虫のように床へと転がされていた。些細な音でも過敏に反応を示し、叫び声にならない音をあげるその男が今まで何をされていたのかなんて、幼い自分でも想像は容易い。目の前の男が何をしている人間なのか、何をしてこんな目に遭わされているのか、何一つ聞かされていないから理由は知らない。知らないということは、知らなくてもいいことなのだろう。
ぬるりと靴が滑る感覚を覚えて視線をおろす。あちこちにぽつぽつと落とされている血だまりは幼い身体を竦めさせるにはじゅうぶんなほど惨たらしい。ちかちかと脳内がはじける。地面に倒れ伏す母と、自分を守ろうと息絶え絶えに地を這う父。元の色すらわからなくなるほどの鮮血が床を染め上げ、己の身体をも汚した。そう遠くはない記憶がフラッシュバックのように蘇り、そして消えていく。
やるべきことは簡単だ。相手は身動きができず、武器も持ち合わせていない。いま握りしめている、自分の体格には不釣り合いな刀の切先を振りおろすのみだ。それだけだ。それだけ、なんだけど。思わず後ずさった背中を、ここへ連れてきた男に押し戻される。逃げることは許さないと。言外にそう伝える手のひらに逆らうことはできなかった。
呼吸が乱れる。一歩、覚悟を決めて歩みを進める。自分が決めたことだ。二歩、足の裏に力を入れてコンクリートを踏みしめる。今更帰る場所なんてない。三歩、握り締め直した鞘から刀身を抜く。自分が殺さなければ。立ち止まる。殺さなければ奪われてしまう。男を見下ろす。
恐怖を孕んだ瞳と目が合った。
「ゥ、ッ……!」
男の瞳からぼろりと大粒の涙が零れ落ちる。目を逸らすことはできなかった。目を逸らしてはいけないと思った。自らが奪う命が終わるその瞬間を、見届けなくてはいけないと思った。
◇
「お疲れ様でした。遺体はこちらで処理しておきます」
自分をここに連れてきた男は、無感情にそう告げると封筒を握らせ部屋から自分を追い出した。
気付いた時には依頼先の建物を後にして、ぽつりとひとりで路地裏に立ち尽くしていた。どうやって歩いてきたのか、妙に記憶が薄い。熱に浮かされたかのように思考はふわふわとしているのに、身体だけは妙に冷え切っていた。
「呆気なかった、な」
ぽつりと呟いてみるが、返ってくる言葉はもちろんない。呆気ない。それだけが頭に滞留する。ふと顔を上げる。汚れた窓ガラスに映るのは銀色の髪を乱雑に結った少年だ。その姿は間違いなく自分自身であるはずなのに、まるで知らない人間を見ているようだった。ぽろり。涙が溢れる。目の前の男はこんな、なんともない顔で人を殺すのだ。人を、殺せてしまうのだ。溢れ出るそれを止める術がわからず、その場に蹲る。
「……ッ、ふ、…ぅ、ッ、」
いっそあの場で無理だと首を横に振り逃げればよかった。奪われる悲しみを知ったばかりの自分が簡単に命を奪ってしまえたことがショックだった。人を殺すことを呆気ないだなんて思ってしまった自分が許せなかった。
地面が落ちる雫で黒く染め上げ始めた頃、不意に脳裏にあの日の光景が蘇った。自分の手を取り、笑いかけ、飲み物を手渡してくれた、名前すら知らない年端の変わらない人物。
「……泣いてちゃだめだ」
自分が鼓舞させるために口にした言葉をもう一度頭の中で反芻し、汚れた袖口で顔を拭う。
探さなきゃ。探してお礼を言わなきゃ。助けてくれてありがとうって伝えなきゃ。
まだこの心は寂しさと苦しみで渦巻いているけれど、あの人のことを考えればもう少し立っていられる気がする。あの人ともう一度会えた時、今度は俺があの人を守れるぐらい強くならないと。
引きずっていた刀を抱えなおし、立ち上がる。ガラスに反射する自分はまだひどい顔をしているけど、さっきよりは幾分マシな気がした。