村の外れ、小高い山に続く石の階段を登ってしばらく。隠れるようにして佇むそこへと足を運ぶことにも、非常に不本意ながら慣れてしまった。
石造りの建物を横目に、隣接している木造の屋敷の前に立ち止まる。吐く息が白い。肌を刺すような寒さに身体はすぐにでも室内の暖を求めるが、しかしどうにも気分は前向きにはなれなかった。役目があると育ての母には伝えた。それはつまり、今夜は帰らないということだ。
すっぽかしてしまおうか。一度ぐらいなら怒られないかもしれない。自分を呼びつける柳田孝という男は、何を考えているかは分からないが存外優しい男だ。仕方ないと許してくれるかもしれない。けれど、いま逃げたところで、次は?
とうに何度も繰り返された自問自答に溜息を吐き出せば、ふと屋敷から出てきた人間と目が合う。薄布で顔を隠すのはこの家の人間の特徴だ。
「……ご当主様はお部屋でお待ちです」
そう言われてしまえば、頷く以外はなかった。どうせ逃げるほどの度胸も無いけれど。心の中で目前の相手に、というよりは自分自身に悪態を吐きだし、玄関に足を踏み入れる。ふんわりと暖気に包まれた室内にほっと息を吐けば、ふと前に立つ人物と目が合う。ちょうど入れ違いに外へと出ようとしていたらしい同級生、柳田勝だ。
彼の瞳は一瞬驚きに見開かれた後、波紋が広がるように不機嫌が浮かび上がった。
「…………、」
「あ、ッと」
声をかける暇もなく半ば突き飛ばされるようにして外へと飛び出す彼の背を見送る。自分がこの屋敷の敷居を跨いだ意味。それを考えると、彼の態度も当然のものだった。心底同情する。だが、それ以上のことはできない。この状況をどうにかしてほしいのは自分だって同じなのだから。
目的の部屋までの案内を申し出た使用人に断りを入れ、見知った廊下を歩く。たまにすれ違う人間の視線は、どれひとつ取ったって好意的なものではない。慣れたくはないが、慣れてしまった。向けられる悪意には気付いていない振りをして、目的の部屋の前に立つ。室内に明かりが灯っている。どうやら言葉の通り、今日は室内にいるらしい。
「……伊吹、デス」
「どうぞ」
すぐに言葉が返ってきたのを聞いて、襖を開く。室内を満たす白檀の香りが色濃く全身を浸し、思わず眉を寄せた。室内にいる男のおいでと言わんばかりに緩く広げられた腕を見て、上着を畳へと投げ捨てた。
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ぱちり。瞼が開く。朧気な視界で見渡す室内は薄暗い。どうやらまだ日の出前らしい。どうして朝方に目を覚ましてしまったのか、ぼんやりとする寝起きの頭に浮かぶ感想は"寒い"だった。
ふと視線をやれば、広縁へ続く障子の先にある窓が開いている。情事の最中は気にならなかったのか、もしくは自分が寝入ってから彼が開いたのか。ぼんやりと布団の中から窓の外を見ていれば、まだ薄暗い空にちらほらと白い粒が舞っていることに気が付いた。
「この調子なら、少し積もるかもしれませんね」
耳元で投げかけられた言葉にびくりと肩を揺らす。振り向けば、先ほどまで肌を重ねていた相手が平時と変わらない表情で隣にいた。普段であればすべての支度を終えた彼に起こされるというのが常であるので、こうも無防備な姿というのは物珍しい。
「び、っくりした……起きてたのかよ」
「随分と熱心に見つめていたようなので」
「別に、熱心なわけじゃないし……」
それに言葉は返ってこず、代わりにただ視線だけが寄越された。真意を探るようにじっと見つめられるこの瞳が、すべてを見透かされているようで苦手だった。逃げるようにして背中を向けて、自分の着衣がここに来た時の学生服でない和装だということに気が付いた。いや、事後に着替えたのだったか。どうも記憶が曖昧だ。そういえば、入室した時には顔を顰めるほどに体内を侵した香りもいつの間にか気にならなくなっている。些細なことだが、しかし、身体を作り替えられているような感覚にじわりと言い知れぬ不快感と恐怖が広がっていく。
「……どうしました?」
「帰る」
「おや……稽古の時間には、まだ早いと思いますが」
「適当に時間潰す」
怠さを訴える身体を起こし、いつの間にか几帳面に畳まれた学生服に手を伸ばす。やれやれと言わんばかりに同様に身を起こした彼に背を向けて手早く支度を済ませれば、壁に凭れ掛かるように置かれた学生鞄を手に取った。
「朝餉も要りませんか?」
「いらない。じゃ」
背中を向けたまま片手をあげて、足早に廊下へと足を伸ばす。「お気をつけて」と掛けられた言葉には返さず、未だ人が活動している気配の薄い屋敷を足早に後にする。どうせ近いうちに来ることになる。未練も感慨もなく、代わりにほんの少しの恨みを込めて、雪の降る道を視界に捉え少し濡れた土を踏みしめた。
こんな日に限って、今日の朝練の稽古は休みだった。お役目があると言った手前、家には帰りにくい。かといって休みの日に道場にお邪魔するわけにもいかない。数年前に村にやってきた鳴海先生よりは受け入れられている自負があるとはいえ、所詮余所者の自分が居座れる場所なんてたかが知れている。村のみんなの真意は測りかねるが、居心地の悪さが全くないとは、どうしても言えなかった。
ようやく太陽が昇り始める時間になっても、空はどんよりと薄暗い。柳田孝が言っていた通り、日陰には雪が積もるかもしれない。
行く当てもなく少しばかり彷徨って、辿り着いたのは村長の家だった。毎日のルーティン。稽古がある日でも無い日でも、学校がある日には婚約者の家まで迎えに行くというのはいつの間にか習慣付けられていた。とは言ってもあまりに早すぎる。屋敷からは使用人だろう、人が活動する気配はあるものの、なんとなく互いの中で定まりつつある待ち合わせ時間まではまだまだ先だ。
門の前、塀に背をつけて、ずるずるとその場に座り込む。どうにも、つかれた。夜が遅かったゆえの身体的な疲労もあるだろう。だが、そんなことよりもずっしりと胸の内に疲弊を感じていた。神子としての役目なのだから仕方ない。ここ数年ずっと宥め続けていた言葉を自分に投げかけ、どうにかやり過ごす。別に暴力を受けているわけでも、暴言を吐かれているわけでもない。ただ、どうしても事情を知る人間の奇異の視線や悪意には慣れることがなかった。頭を下げて、蹲る。冷たい空気が体内を行ったり来たりして、寒さや痛みはとうに通り越していた。
「結さん!?」
頭上から聞こえた声に顔をあげる。そこには白い息を吐きながら、驚きに目を開く一宮紗和の姿があった。その後ろには同様に驚いた表情をしている鳴海儚無の姿がある。
「紗和ちゃん……」
「ど、どうなさったのですか!? ああ、こんなにも頭に雪が……!」
わたわたと大きな身振りで、しかし丁寧に頭の上の雪を払い落とす彼女の姿を捉える。その瞬間、どうしてか安堵が全身へと広まった。緊張していた身体の筋肉が緩み、視界が開ける。
「紗和ちゃん」
「はい!」
「抱き締めてもいい?」
「はい!?」
幾度か口を開閉する彼女の赤みを帯びた顔は寒さだけが理由ではないだろう。逡巡した瞳は躊躇うように、しかしゆっくりと上下に動いた。それにまた少し安堵を覚え、丸まっていた身体を起こし立ち上がり。
「お二人とも……本当に心苦しいのですが、遅刻してしまいます……」
「ハッ……!」
「あ。もうそんな時間?」
極限まで気配を消していた儚無が搾り出すように声を発する。その声に弾かれるようにして顔をあげた紗和は驚いたように数歩後ずさった。思わず笑いが漏れる。先ほどまでの陰鬱な気持ちは、今はどこにも無かった。
「残念。また後でさせてね」
「あっ、は……ハイッ……!」
「右手と右足同時に出てるよ。大丈夫?」
「ええっ!あの、いえ!大丈夫ですっ!」
不自然に歩みを進めていく紗和の後ろで、申し訳なさそうにこちらへ頭を下げた儚無に気にしていないと手を振る。
大丈夫。役目が終わるまで、あと少し。それが自分にとって良いことなのかは分からないが、彼女がいれば耐えられる。未だ火照った彼女の横顔を盗み見て、もう一度、堪えきれずに笑いを溢した。