バレンタイン

 街へと出向けば甘い匂いが鼻腔を操る今日この頃。
 赤いリボンとチョコレートのイラストは嫌気がさすほど見飽きてしまった。

「折角のバレンタインなのに仕事、か......」

 恋人同士の逢瀬など自分には縁のないイベントだと分かっていても、楽しそうな周囲の人間を見るとなんだか羨ましくなってしまうものだ。唯一幸いなことといえば、仕事とはいえ密かに想いを寄せているセンパイと一緒に過ごせることだろうか。
 ちらり、と隣の人物を盗み見る。慣れた様子で煙草に火をつける彼は、きっと私の視線にも気付いているだろうに振り向いてはくれない。
 ターゲットの現れる時間まで待機を命じられて彼此30分。隣のセンパイ、律兎さんの煙草の本数もそろそろ二桁に突入しようとしていた。

 響律兎さん。私がサイレン清掃株式会社に入社した頃には既に教育係として新人を教える立場にあった。
 凄腕の狙撃手ではあるものの、口数は少ないわ足りないわで、どう考えても人選ミスじゃない?なんて思ったこともあるのだが、リーダーに信頼されている実力はやはり流石のもので、彼の行動や言葉に異を唱える者はいなかった。
 事務所にいる時には大抵喫煙所談話室のベッドに寝転がっている彼のどこを好きになったんだろうかと何度も考えてはみたが、結局恋なんて言うのは落ちるものなのだと自分を納得させていた。

 ふう、と小さく漏れた息と共に吐き出される煙を眺めていると、不意に律兎さんの瞳がきょろりと動く。
 どうやらインカムに連絡が入ったらしい。しばらくすると彼は手に持っていた携帯灰皿に煙草を押し付ける。

「ターゲットが動いた。 行くぞ」
「ハイ!」

 端的な言葉に大きく返事をして、人を殺すための武器を詰め込んだ鞄を抱え直す。
 一歩、二歩、三歩と歩いた律兎さんがおもむろに足を止め振り返ったものだから、思わずぶつかりそうになり慌てて両足に力を入れる。

「そういえば、アンタ、これ」

 そう言って差し出された手のひらの上には個包装されたチョコのお菓子が置いてあった。

「えっと、これは………」
「さっき煙草買いに行った時にくじが当たった」

 それだけ言うとおずおずと差し出した私の手のひらに無造作に投げ捨てる。

「折角のバレンタインとやらに悪いが、さっさと終わらせるぞ」

 目を細めて小さく笑った彼の珍しいその表情に、思わず身を固まらせる。 表情筋しんじゃったのかな?なんて失礼極まりないことを普段から思っていたが、 なんというか、笑うと幾分か、幼く見えるらしい。初めての発見だ。
 ぼーっと少しずつ遠くなる背中を見つめて彼の言葉を反芻する。バレンタイン……折角のバレンタイン?
 数分前まで自分がそのイベントに思考を巡らせていたことをなぜ彼が知っているのか。
 じわりじわりと明確に形作る何かに声にならない悲鳴が喉から漏れる。

「り、律兎さん、聞いてたんですか!?」
「聞いてない。アンタが勝手に喋っていたんだ」

 なんでもないように返した彼の足は止まることなく前へと進んでいく。
 独り言を喋る変な女だと思われた!羞恥心と、 多少なりとも気に掛けてくれたその心遣いへの嬉しさと、複雑な感情を悶々と胸の内へと抱え込み、慌ててその背中を追い掛けた。