他愛ない日常の話

 渋谷区内に引っ越してきてもう一年以上が経過した。経緯はどうであれ見慣れた景色と化してきたこの街を慣れたルーティンで見回って一息吐き出す。あとは適当に飯でも食って、何事もなければ報告して帰宅になるだろうか。
 これからの行動をぼんやりと宙に浮かべ考えていると、それを拒むように背後から声が掛かる。仮にも襲撃部隊の隊員として影に紛れることを得意分野としている自分の背後に立てる人間など、大方決まりきっていた。

「かおり、巡回終わったんか?」
「……骸さん」
「背後不注意、マイナス3点」
「なんのポイントすか、それ」
「そら貯まってからのお楽しみに決まっとるやろ」
「貯まるどころか減ってるんですけど!」

 自分の隊長である骸の口角があがるのが視界に映る。流れるように口から紡ぎ出される嘘か真か判別しづらい言葉は、基本的にただ揶揄われているだけなのだというのはしばらくの付き合いで分かっていた。

「骸さんも巡回ですか?」
「まあ、そんなところや。あと、ついでにお前に連絡」
「連絡?」

 ちょいちょい、と。手で招かれたのを認めればすぐさま彼の真隣へと並んだ。そういえば以前こんなことがあった時に、「カラスというより、まるでイヌみたいですね」と呆れられたことがあったっけ。
そんなことなど知る由もなく、骸さんは慣れた様子で再び歩を進め始めた。

「明日、ボスからの指示で朝イチで集合」
「了解です。アジトですか?」
「おん」

 頭の中にその言葉をメモとして書き留め、そしてそのまま思考を巡らせる。ということは日課になっている朝の巡回はできそうにない。朝飯どうすっかな。そんな考えを遮るように隣から声が掛けられた。

「この後どないするん?」
「え? あー、適当に飯食って家帰ろうかと」
「ああ……今にも壊れそうなあの家……」

 どこか遠い目をするかのような骸さんの声に思わず苦笑が滲み出る。
 当初の目的は潜入とはいえ、烏黒の衆に加入してから住み始めた自宅は風呂トイレ共用のワンルーム。築50年を優に超えた建築は都内とは思えない驚異の格安物件。数年前に女が自殺したなんて噂が流れるぐらいには人気も評判も低かった。
 どうせ家にいることもないだろうと適当に借りてしまった部屋で、現状としてもその通り家には寝泊まり程度にしか利用していないこともあり強い不満を感じているわけでもない。強いて言うならたまに家まで呼びに来る骸さんの顔が渋いぐらいだろうか。

「よお住めるわ、あの家……隣の部屋の音丸聞こえやったで」
「つっても寝る以外使わないんですよね。あ、でも冬は隙間風が困るかなぁ」
「ふーん……」

 何か言いたげな顔で少しの間、彼は口を閉ざした。
 ポーカーフェイス、ではあるのだが、長く付き合っていれば骸さんの考えていることがなんとなく読めるようになってきた。クールな印象とは裏腹に情が厚いし案外感情的な選択をする。たまに何も言わずに一人で行動されるのは部下として心配になるが、それも含めて彼なのだろう。
 なんて分析をしていると、再びその骸さんが口を開く。

「なんやったら、俺ん家くるか? なんて、」
「ッいいんスか!?」

 しん、と。束の間の静寂が空間を支配する。前のめりに覗き込むようにして視線を合わせた骸さんの瞳は呆気にとられたように丸められている。
 数拍の時間が経過して、ようやくじわりじわりと自分の言動に顔が赤くなる感覚がした。やってしまった。頭の中はその言葉に埋め尽くされている。

「……すんません、でかい声出して」
「いや、謝ることなんてあらへんけど。意外やな思っただけで」
「意外、すか」
「自分のパーソナルスペースに入られるん苦手やろ」
「それ、は」

 言葉が詰まった。確かに彼の言う通り、これまでであれば抵抗感があったはずだ。隣室の音が聞こえる今の家に支障を感じていないのは、廊下を歩く人間の足音がうるさいほどに聞こえる状況に不満を感じていないのは、自分を害するような存在がないかすぐに把握できるからだ。
 無意識のうちに、自身の右手首をさする。そこに恐怖の根源は既にない。その代わりに、黒と青が重なったブレスレットが存在を主張していた。

「……だって、骸さんが言ったんですよ。居場所にしてもいいって。…………チョット、何笑ってんすか!」
「いや、フッ……素直で可愛い烏やなぁ思て」

 くつくつと喉を震わせながらまるで子供を相手にするように髪を乱され、頬の紅潮は更に赤味を増した感覚を覚えた。
 自分もとっくに成人済みの歴とした大人なのだが、妙にガキ扱いされているような気がする。常日頃から薄らと感じるそれはしかし、悔しさはあるものの煩わしいと思ったことはない。彼から与えられる手のひらから伝わる熱が、自分は存外気に入って仕方ないのだ。勿論そんなこと、口が裂けても言えはしないが。

「ほな、詳しい話は飯食いながら考えよか」
「え!奢ってくれるんですか?」
「引越し祝いにな」

 路地裏を出れば、街は途端に喧騒に包まれる。暗闇から人ごみの中へと、二人の影は渋谷の街並みへと紛れていくだろう。