ユダの教示

 ミタマ地方のアッティカシティの大神殿はにわかにざわめき立ち、神官たちが右往左往としていた。礼拝に来る人の波が途絶えない中、その中央に立つべき、神子の姿が見当たらないのだ。赤い髪、青と緑の瞳の――――ミタマ地方の英雄である神子がいなくなったのは早朝のことであった。彼女は朝の支度は全て自分で行うので、神殿に仕える女官たちは朝の禊の手伝いが仕事である。禊のため、すでに起きているであろうアスナの部屋に向かったところ、いつもならばすでに忠犬の如く控えているウィリアムというアスナが異国から連れてきた騎士の姿がなかった。なんだろう、珍しいこともあるものだな、と最初は思ったのだが、ノックを二度して、声をかけてみた。
「アスナ様?」
 もう一度、ノックをしてみる。女官たちは顔を見合わせて、ドアノブを回してみる。鍵がかかっている様子はなく、ドアノブを回せばドアはこれまたあっさりと開いてみせた。ぎい、と少し古めかしい音を立てたドアの向こう側は本棚とベッド、机が置かれているだけの簡素な部屋だったが、そこにはいるはずのアスナの姿はなく、女官たちが現れれば、ニコリと笑って「おはよう」という人もなかった。彼女と共に暮らしているはずの神使、ブラッキーとエーフィの姿もないとくれば、女官たちは大慌てだ。慌ててまだ寝ていた神官たちを叩き起こし、アスナの不在を告げた。


「よろしかったのですか? あんな、夜逃げ同然に」
 船の中のレストランでウィリアムが苦笑しながらアスナに聞いた。アスナといえば、どこ吹く風でレストランで出されるモーニングのマフィンを美味しそうに口にした。アスナの足元ではルーンとサーニャがポケモンフーズを頬張っており、その近くにはウィリアムのギルガルドであるシャルルも同様に朝食を食べていた。
「いいのよ、いいのよ。最近は神事らしい、神事もないのだから。折角、ご招待を頂いたわけだし、行かないわけにはいかないでしょう?」
 アスナの手荷物はヴィンテージのトラベルバッグ一つきりだ。たいてい、アスナが長期で旅行、と言う名の旅に出かける時は此れしか持ち歩かない。そのバッグからアスナは手紙を一つだけ取り出した。多くの地方を旅してきたアスナだがまだ、亜熱帯に属するサクハ地方には行ったことがなかった。
「神官たちがまた怒るのでは?」
「神官たちの顔色をうかがうのが神子の仕事じゃないわ。それにね、ウィリアム、サクハ地方の北側ではエーディアが現れると言われているのよ」
「エーディア様が?」
 ミタマ地方の地方教はエーディア教である。始まりは、エーディアと始まりの神子であるアレイスティルという少女に依る、全てのものの平等という教義であり、自然と人とポケモンは共存すべきであるという教えである。ミタマ地方では古くからこの教えに則り、自然と一体の生活を送ってきた。
「そうねぇ……この場合は、ミタマ地方のエーディアとは同一ではないというべきかしら。エーディアも他のポケモンたち同様に其れが種であるのよ。私達が崇めるエーディア様と、北サクハという土地にいるエーディアは同種類の別個体という感じね」
「……なるほど?」
 ウィリアムは少し納得のいったような、納得の行かないような表情をしてみせた。まあ、私のルーンと他のブラッキーは別物というのと同じよね、とアスナはいいながらソーセージにフォークを刺してみせた。ぱくり、と口に運び、噛み切るとたっぷりと肉汁が広がる。
「それに私一応、考古学者だから」
「……その肩書捨ててなかったんですね?」
 にこりと、アスナが笑ってみせた。
 アスナはミタマ地方のチャンピオンであり、エーディア教のトップである神子であり、そして――――本人は此処を一番重要視しているようだが、考古学者、らしい。元々はミタマ地方の古い伝承をまとめ直すだけのことで、三つ子の弟、妹と始めたことだったらしいが次第と其れ等のことに興味を持ち、図書館・博物館の開設や、ミタマ地方の古い遺跡の発掘、遺物の発見など一応、その筋では有名らしい。ウィリアムはそこらに造詣が深いわけではないので詳しいことは知らないが。
「サクハ地方も古い伝承の残る地方で、クオン遺跡という遺跡もあるらしいから。楽しみじゃない? 伝承に残るアフカスに会えるかもしれないし」
「ああ……」
 そう言えば、この人はトラオムでもムスビ様と呼ばれるギラティナに呼ばれていたな、と思う。恐らくその身に流れる神聖なるエーディアの血によって彼女は導かれているのかもしれない。結婚し、すでに子供もいる身だが大人しくしていることが難しい。決して落ち着きがないとかそんなわけではなく、何かに駆り立てられるようにして彼女は歩みだす。彼の夫と息子にウィリアムは同情を禁じ得ないが、しかし、アスナのこういう姿を見られることに安堵する自分もいた。



* * *




 サクハ地方の出入り口リンドウシティに船が到着したのは昼頃のことだった。長い船旅だがアスナは疲れた様子もなく荷物をウィリアムに預けてルーンやサーニャとともに駆け出していた。二十もそこそこの年齢だが、新しい土地を踏む感覚というのは特別らしい。
「んん、やっぱり、ミタマ地方とは空気が違うわ。こう、なんだろう、少し水を含んだ感じ」
「ミタマ地方はもう少し涼しい感じですからね」
 ウィリアムも降りてきてシャルルをボールの中へと戻した。ミタマ地方では出していることも余り違和感がないが流石にサクハ地方では目立つだろう。行き交うトレーナーたちは皆ポケモンを出している様子もないので、ウィリアムの行動は別に可笑しいことでもない。だが、アスナのルーンとサーニャは戻る気がからっきしであるので、そのままだ。アスナも彼らをボールに入れようという発想がない。
「さて、先にチャンピオンにご挨拶しましょう。私の趣味のために来たわけではないのだし」
「流石です、アスナ様」
 ウィリアムはアスナに恭しく一礼し、歩き出したアスナの後ろをついていく。


「この度はご招待頂き誠に光栄です、チャンピオン」
 アスナが自分よりも幾ばくか年嵩の女性に正しく礼をしてみせた。チャンピオンに就任したばかりだという彼女の前はこのサクハ地方も色々な問題を抱えていたようで、彼女は今、そのリーグの再編成とジムリーダーの選定などで忙しい最中であろう。アスナがこうして呼ばれたのは、経緯や道程はさておき、封鎖傾向にあった地方を変え、リーグを編成したという共通点のある地方同士のリーグの宣伝や交流が主な目的というわけだ。決して、アスナの趣味嗜好が関係しているわけではない。
「いえ、此方こそ来ていただけるとは。お忙しいと聞いていたので」
「ご招待を頂いてこないという選択肢は私にはないのです。――――旅は良いものです」
 アスナはラドナにニコリと笑ってみせた。サクハ地方に来たいと思っていた気持ちは嘘ではない。船の中でウィリアムに述べたとおり、アスナはこの地方の歴史に興味がある。此処には沢山の民族が存在しており、一つの地方に内包され、今はアフカスの民がマジョリティであるが、ミタマ地方にもこの地方のマイノリティである「砂の民」という民族がいることをアスナは知っている。古い伝承に覚えのある彼らから話を聞くのが好きだったアスナはサクハ地方に前々から興味があったのだ。
「私に出来ることであれば、尽力させて頂きたいと思っています」
 アスナはラドナからサクハ地方の説明を受けながら、言った。
「……ぜひ、宜しく頼む」
 二人の間でかわされた握手を眺めながら、ウィリアムはこうやって、地方と地方、人と人が結びついていくのだなといつものことながら思う。


「ジェミニ、ごー!」
 チャンピオンとの謁見を終えるとアスナはラドナにクオン遺跡の見学を申し出ていた。歴史的遺物に興味があるのだと熱弁した姿は若干ラドナから引かれているように見えたがラドナは許可を出してくれた。歓迎のパーティーがと言われていたが、アスナは飛び出していた。ウィリアムはそんなアスナの代わりに平謝りをしてから飛び出してきた次第だ。リザードンの背に飛び乗り、砂漠の向こう側にあるクオン遺跡へと向かう。はしゃいでいるように見えるのは気の所為だ。気の所為。
「砂漠はあんまり見た事ないなぁ」
「カロスにも荒野はありますがね。砂漠は余り見ませんね」
 リザードンがゆっくりと下降を始めた。砂が舞い上がり、アスナとウィリアムは遺跡の前でおろしてもらえた。相変わらず賢いとジェミニを褒め称えるアスナを横目にアスナの体にローブをかぶせた。
「お召し物が砂で汚れてしまいます、どうかお使いください」
「ありがとう。……それにしても、すごい、古い力の気配を感じる」
 アスナが遺跡を前にして、うっとりと目を閉じた。
「……でも、此処にはいないみたい。眠っているのね」
「わかるのですか?」
 ウィリアムはアスナを見て言った。自分にはそういった気配を感じ取る力はない。
「もしかしたら元々、此処が住処というわけではないのかもね。ただ、力の残滓はある。――――最近、一度目覚めたみたいだけど」
 アスナがそういいながら、手を降って歩みだそうとしたところでジェミニが何かの気配を感じてアスナの前に立ちはだかると勢いのついた巨大なものを受け止めた。
「ジェミニ! そのまま、投げ飛ばしなさい!」
 あまりの巨体と質量を見て判断したアスナはジェミニに指示を出した。そのアスナをかばうようにしてウィリアムが前へと飛び出している。どうやら、投げ飛ばしたものはドンファンだったらしい。成程、大した勢いだ、と砂地の戦いに慣れていないとは言え、アスナのエースであるジェミニが受け止めきれず動かされたことにアスナは目を見開いていた。
「何者だ」
 低い声だった。獰猛な獣のような気配がした。アスナと目があったのは一人の青年だった。
「何者だ」
 再度、彼が問うた。アスナはエーディア教で一般的に行われる敬意を込めた礼を彼に向けて行う。
「わたしの名はアスナ。ミタマ地方、エーディア様にお使えする神子である。このクオンの遺跡には勉強のためにやってきたのだが……君は、砂の民か?」
 彼の肩が動く。

「そうだ、俺は砂の民、デイジだ」

 吹き荒れる砂の嵐にアスナは自身のローブを強く引き寄せた。