森は今日も、静謐な空気をまとっている。
クモはいつものように森の中へ一歩踏み入ると、大きく深呼吸をしてみせた。何の変わり映えもしない、当たり前の日々だ。きっと、ペンタシティやヘキサシティの大都会に生きる人には、こんな毎日は退屈なのだろうか、などと想像してみてクモはくすりと笑ってみせた。自分には大都会の生活など想像もつかない。そして、きっと彼ら大都会の人間にも自分の生活は想像し難いのだろうと思う。もしかしたら、自分のようなスローライフを好む人もいれば、都会の喧騒を好む人もいる。都会の喧騒を好む人からすれば、こんな虫に囲まれた生活ゴメンだ、と騒ぎ立てるかもしれない。
木の根に躓くこともないクモの歩調は緩やかながらも、相変わらずシャキシャキとしていて後ろをついてくるアディのほうがいつも遅くなるのだ。スタスタと歩いていってしまうクモを追いかけながら、アディが肩を上下させ叫んだ。
「爺さん、待てよ!」
「アディ、静かに」
人差し指を一本だけ、そうと唇の前に持ってきて、しーと言う。森の中では叫ばない、これはジタウンの人間ならば常識のことだ。ここはエーディア様のお膝元。今日はその気配を感じないが、人間が森のポケモンたちを荒らしていい理由にはならない。アディの大きな声に反応してか、小さなポケモンたちが草の中からガサガサと逃げ出していくのをクモは感じ取っていた。
「ほら……いつも言っているだろう。森に入れば、森に従いなさい。ここは彼らの家なんだから」
嗜めるようにそう言って、クモはため息を付いた。アディはいい子ではあるが、短慮でもある。面倒見のいい性格はしているものの、どうしてもまだまだ森の守り人を務めるには不十分なところがいっぱいある。あくまでも、自分たちは森と人間とポケモンが共存できるように手を尽くす者でなくてはならないのに、その声でポケモンたちを驚かせてどうするのか。一歩間違えば、以前の自分のようにアリアドスの毒液を浴びて、目が見えなくなってしまうことだってあり得るのに。
「森の声を聞きなさい」
クモがそう言うと、アディは出たよ、と低くつぶやいた。クモはアディに対して良く、そう言っていた。森の声を聴く、というのは森と一体となること。森のことをよく観察することを意味する。ポケモンだけではなく、森の木々や草花の状態、霧の濃さや冷たさ――感じ取れることはたくさんある。クモは目が見えなくても、そういったことを感じ取って守り人の勤めを果たしてきた。
「ここは生きているのだから、ちゃんと声を発している。今は聞き取れなくても、その訓練をしなくては――」
ならないよ、という言葉は紡がれなかった。クモははっと気づいたように顔を非ぬ方向へ向ける。そこは、いつもの見回りの場所からは遠く離れた場所だ。アディは何事か、とクモを凝視した。彼はしばし思案した後、アディにとくと静かにするように言い聞かせて、足を忍ばせて森の奥へと進んでいった。
迷うことなく、クモがたどり着いたのは森の奥。日差しの入り込む一風変わった泉だった。そこにはたくさんのコフーライや、トランセル、マユルガが糸を引いて垂れ下がっているのが見える。アディは光が差し込み、それらの糸がキラキラと輝いているのを見てはっと息を呑んだ。クモが何に反応したのか、理解したのである。とある草陰に二人で隠れて、それを見守った。
「もう、そんな時期だったんだねぇ」
クモが感慨深げに呟いた。
森の奥のこの泉は、多くの蝶たちが芽吹きを迎えるのだ。蛹が美しい進化を遂げて、蝶となり羽ばたいていく……そんな特別な場所である。一匹のトランセルの進化を皮切りにして、次々と蛹たちが神々しい光りに包まれていく。薄暗い森の奥がたくさんの光で、目も開けていられないくらい明るくなったとき、美しい鱗粉を輝かせて、バタフリーやアゲハント、ビビヨンが羽根を羽ばたかせていた。
「……うわぁ……」
アディの口から、感嘆のため息が溢れる。隣で同じようにしてかがんでいたクモが静かに、そっと美しいかい? とアディへ問いかけた。なんと返事を返してよいか、アディにはわからず、ただこくこくと頷くばかりだ。美しい。言葉にできないくらい、ただただ美しくて、アディは答えに窮してしまったのだ。クモはうんうん、と嬉しそうに頷いている。
「僕も幼い頃に何度かみたよ。祖父に連れられてね」
「なんで、進化の時だとわかったんだ?」
羽ばたいていく蝶たちを眺めながら、アディはクモへ問いかけた。何の兆候もなかったかのように、アディには感じられた。森はいつもどおりの静謐さで、無数の小型のポケモンたちががさがさと草の音を立てて歩いていたくらいのものだろう。アディの疑問に、クモは優しく微笑んで答えた。
「森が囁いたのさ」
「――ささやく?」
「そう。わずかにね、本当に僅かな音だ。もっとアディが声を出していたら、僕も気づかなかった」
木々が不自然の揺れる音。何らかの形で、複数のポケモンが糸を張る時に葉が揺れる音。クモはそれを聞き分けたのだ。だから、森が囁いた。長年の勘、経験によって養われるクモの感覚に、アディはあんぐりと口を開けて、ただただ言葉も出なかった。――なんだ、そりゃ。率直に言って、人間じゃないぞ、それ、と言いたくなる。目が見えないから耳が良いのかとも思ったが、どうやらそれも少し違うような気がする。
「いいものだ。何度見ても」
「――……見えてないだろう?」
「見る、とは決して視力のことだけじゃないさ」
クモはそう言って、最後のバタフリーが飛び立っていく時に草の中から体を出した。まだまだ上空ではためきを続けている蝶たちへ、帽子をとって一礼した。アディも慌てて、草の中から出てくると、同じようにして礼をしてみせる。――見る、というのは目で見ること以外に何があるというのだろう。クモの話は十代もようやく後半に入ってきたアディにはまだまだ難しいことも多い。どれだけ大人ぶって、子供たちの前ではお兄さんぶっていても子供なのだ。
「さぁて、日課を果たしてこないとね」
バタフリーを指に止め、優しく微笑んだクモがゆっくりとアディへ振り返る。クモの手から、高く、高く空へと飛び立っていく。