破れた夢の先


 その日は雨だった。普段なら美しいくらいの晴天に包まれているはずのミタマ地方に雨が降っていた。夜の船着き場には人がいなく、ただ、一人の少女が目深にフードの付いたマントを被っているのみであった。少女の足元には、二匹のイーブイが佇んでいる。片方は色の違う、銀灰色の毛並みを持っていた。二匹が少し心配そうにフードを被った少女を見上げている。彼女は周囲を警戒しつつ、ゆっくりと船着き場の先へと足を進めた。そこには船など、漁船ぐらいしか無い。このミタマ地方は既に何百年に渡り、周囲の地方との交流を絶っている。時折、使節団のように他の地方の人達がやってきたかと思うと彼らはこの地方の改革を求めては、保守的な神官たちに突っぱねられてすごすごと帰っていく。
 この地方は何も変わっていない。何も変わらない。
 少女はこの地方が嫌いだった。この国が嫌いだった。信仰といえば、聞こえがいいがただの思考の放棄だと少女は思ってやまない。神を信じることをアスナは疑わない。何故ならば、神と呼ばれるポケモンは確かに存在しており、ただの伝説などではなく我々の前に献身的に姿を見せてくれる。それを疑うことなどしない。彼女が嫌いなのは、その信仰の裏で、人と人の間に存在する確かに「エーディア教による平等」と「人と違うものを拒絶する」という絶対的に相反する気持ちが両立していることだ。
 この地方はとうの昔に歪だ。長らく、外の空気を取り込んでいないがゆえにその事に気づけず、エーディア教の中で誰かの犠牲が生じていることに誰も気づいていない。いや、気づいていないのではなく自分の生活や、古くからの慣習を護るために見てみないふりをしているのだ。

 だから、少女は出ていく。
 長らく外の世界を拒んだこの世界から。
 誰にも見守られることなく、家族すら誰もいない夜の海へ旅立つ。小さく、指を構えた。ぴぃ、とか細い指笛の音が鳴り響くと海がいなないた。白い波が沢山立ち上がり、暗い海の底から影が一つ浮かび出てくる。巨大なその影はホエルオーだ。ホエルオーは少女に向かってその顔を近づける。少女はそれまでの緊張した面持ちとは違う柔らかな表情を浮かべて、ホエルオーへ手を伸ばしてやる。
「行こう、ルーン、サーニャ」
 少女は振り返って、二匹のイーブイへ話しかける。二匹が頷いたのがわかる。少しだけ飛び上がって、桟橋の端からホエルオーの背に飛び乗る。ホエルオーが一鳴きする。星も見えない、寒い雨の夜――――。暗い潮風に吹かれながら少女は旅立った。



 ふと、目を開けた。
 嗚呼なんて、懐かしい夢なのだろうとアスナは目を開けた。あの頃に較べ自らの背は伸び、髪も伸びた。赤い髪が草原の風に吹かれて流れていく。ゆったりとした緩慢な動きで心地の善かった日光のあたった暖かな草のベッドから起き上がる。少し視線をずらしてみれば、自分と同じように眠っていたらしい二匹のイーブイと少し色の違うヒトカゲの姿が見えた。彼らは暖かな日差しを浴びて心地よさそうに眠っている。それに穏やかに微笑みながら、アスナは髪の毛を手で整えた。
 あの雨の日から、何年が経ったか。あのとき、逃げ出した少女は今も逃げ切れていない。
 どこへ行こうとも、自分が他の誰とも違うということを思い知らされるだけ。悲しい現実を突きつけられるだけでどこにも自分の居場所がないように感じてしまうのだ。生まれついての異能は、いつでも人との軋轢を生んでしまうばかり。斜に構えている自分にも問題があるのはわかっているのだが。
「どうして、人は言葉と心が裏腹なのかしら」
 アスナは再びごろりと横になった。人は言葉で人やポケモンを騙す。心では汚いことをいっぱい考えているというのに。そのせいで捨てられるポケモンもいっぱい見てきた。そのせいで、傷ついた者たちをいっぱい見てきた。自分だってその被害者だ。人なんて、信じられない。アスナはそっとイーブイへ手を伸ばす。柔らかな毛並み。暖かな体温。抱きすくめようと思って腕を伸ばしてみれば、イーブイが瞳を開いた。銀灰色の瞳と目が合う。
「おはよう、ルーン」
 アスナがそう言って笑うと彼――――ルーンはそっと身を伸ばした。ふるふると、体を振ったかと思えばアスナの懐へと歩み寄ってきて懐へうずくまる。色違いのイーブイであるルーンはアスナが一番最初に連れてきた友達である。対である、もう一匹のイーブイであるサーニャと共に、アスナとあの地方から出てきた。沢山の街を一緒に歩いて、沢山の街でアスナの悲しみに寄り添ってくれた二匹だ。サーニャも隣からルーンのぬくもりが消えたことに気づいたのか、きょろきょろと見回して寄ってくる。
 少し離れたところで眠っているヒトカゲ――アスナがジェミニと名付けた――は片目をぱちりと開いて、こちらを伺い見てくる。来る? とアスナが視線を送ってみれば、彼はふいと顔をそらしてしまった。ふふ、とアスナは微笑みながらも、あまり他者と馴れ合うことを好まないことを判っているので敢えて何も言わずに寝転がったままだ。
 きっともうしばらくしたらジェミニだって自然と寄ってきて、寝転がっているアスナの背中あたりに寄りかかってまた午睡を楽しむのだ。誰もいない自然の中、四人で寝転がっているのが本当に心地良くて、アスナは目を細めた。
「次は、どこへ行こうか」
 アスナが小さくつぶやいた。
 根のない、自分たちはどこへ行くのがいいのだろうか。誰もいない、そんな土地がいいのだろうか。そんなのどこにもない。判っている。この世界では自分が異質なのだ。自分たちのような、そんなハグレモノたちはこうやって身を寄せ合って生きていくしか無い。
 ルーンがゆるゆると瞳を向けてくる。
『君の好きな場所へ。僕たちも行くよ』
「好きな場所かぁ」
 アスナにしか聞こえない声。

『エーディアの子』
『神の子よ』
『自然に、世界に愛された子よ』

 風の中に紛れて、沢山の声が聞こえる。アスナにしか聞こえない声。草や、土や、木や、水や、岩……沢山のものが声を持っている。今を確かに生きているのだ。アスナはその言葉を聞き取る力を持っている。それは転じて、目の前にいる人間が今、考えている心まで読み取ってしまう。
 自然に身を委ねてみる。力を隅々まで染み渡らせるようにして、そっと大地に対して全てを委ねた。
 嗚呼、沢山の声が聞こえてくる。生きている吐息。生命の息吹。

 ――――ふと。
 誰かが自分を呼ぶ声が聞こえて、アスナは起き上がった。それまでの声とは違う、明らかに異質な存在。呼ぶ声は現実から聞こえてきているのではないとわかる。どこからだろう。誰だろう。アスナは静かに立ち上がった。ざわざわと風が揺らめいて、アスナを導いていく。
 この広い、草原の果て。
 アスナはだれに言われるわけでもなく、一歩踏み出した。