大学院生のお願い。








俺が沖矢として生活することに、
優と過ごす時間が含まれるようになった。



自然だった。



優と一緒に居る事、優の髪に触れること、
不思議なくらいに違和感がなく、自然にそれを受け入れていた。



以前は、俺の後ろ髪を引くものがあった。

しかしそれも、
あの時優に伝えようと言葉にしたことで、今はスッキリしていた。


俺の中でずっと燻っていたものが昇華した。そんな感覚だ。





今日とて、優が来るのを楽しみに待っている自分がいた。
優はテストの結果が良かったことが嬉しかったようで、玄関先で丸がちりばめられた解答用紙を見せられた。



大人しく礼儀正しい彼女が挨拶もそこそこにして、いつもよりも砕けた言葉で駆け寄るのには少し驚いたが、


笑顔で俺の様子を窺って褒め言葉を待つ様子が小動物にしか見えなかった。
いつものように俺は彼女の頭に手を伸ばし、撫でる。

さらに嬉しそうに緩んだ優の頬が愛らしく、見ている俺も和やかな気分になった。



立ち話もなんだからと部屋に連れて、いつものように優を椅子に座らせコーヒーを入れにいく。

コーヒーを二人分用意することも、彼女のコーヒーには砂糖を二杯分いれることも、もう慣れたもの。




一息いれて、

「テストお疲れ様でした、」


と優に言うと感謝の言葉と笑顔を返された。

はしゃいでる優が少し新鮮で、くすくすと笑いが零れる。




沖矢さんのおかげで、という優の真っ直ぐな言葉にくすぐったさがあった。


俺の勉強の教え方は決して優しくは無いというのに、優は弱音は言っても文句も言わずに頑張っていた。
今回のテストの成績が良かったのは己自身の力だというのに。



「大したことはしていませんが、優さんのお力になれて良かったです」



驕らないのはいいことだが、もっと自己評価を上げても良いと思うんだがな。
そんな事を思っていると、優が口を開いた。



「それで、あの・・・お願いがあるんですが」


「おや、ご褒美のおねだりですか」


自分から何かを言い出すのが苦手な優のお願いに少々驚いたが、
俺にそうしたことが出来るほどに距離を縮めているのだと漠然と感じた。


緩みそうな顔を引き締めて、彼女にちょっと意地悪な言葉を返す。
おねだり、という言葉に反応するかと思ったら、



「だめですか・・・?」






と、優に返された。

予想外の言葉とそーっと覗くような上目遣いに、





「っ、・・・いえ、僕に出来ることなら」


こちらが動揺させられた。







「せっかくの優さんの可愛いおねだりですから、」



やられっぱなしはガラじゃないからな。
俺は苦し紛れのようだが言葉を続けた。


みるみると赤くなっていく顔に、俺の言葉が効いたようだ。
してやられて悔しい、という表情も伝わってきた。

優の表情の変化一つ一つが、俺には面白くて仕方ない。



「ちょっと仕返しです、」

と言っても、優にはきっと分からないだろう。

俺がお前の仕草や言動に心動かされていることを。


案の定優は心当たりが無い、という表情をしていて苦笑いが零れた。


話を戻して用件を聞くと、文化祭に来てほしいということだった。
だが人が集まる賑やかな場所はあまり好まず、気乗りしなかった。


それでも、

「私のクラスは喫茶店をやる事になって、お店のメニューに私の考えたケーキが採用されて・・・、」



優の精一杯のお願いを無碍にすることも憚られた。
食べてほしい、という言葉まで言えずにいる優の様子から、

お願いを俺にすることが図々しく感じられたからだろう。


食べてみたいですね、と気づけば口にしていた。
優の眉を下げた表情で俯かれることに俺は、どうも弱いようだ。




「約束です!」


「はい、約束です」


そうして指切りまでして約束を交わした。
子どもだましのような指きりでも、優の喜ぶ表情を見ていると

まぁいいか、という気さえしてくる。


俺は彼女のはにかむ笑顔にすら弱いのかもしれない。



それと、と口を開いた優は


「あ、あの、沖矢さんにお礼をしたいのですが・・・」


そう言ってきた。



礼が欲しくて勉強を教えたわけではないが、一ついい事を思いついた。



「・・・・では僕も、優さんにお願いがあります。」


「わ、私に出来ることなら!」



拳を作って意気込む彼女が少し可愛らしいと思うと共に、俺の中にある悪戯心が刺激される。


向かい合わせに座っていた席を立ち、優の隣に座って距離を詰める。



「はい、優さんにしか出来ないことです」






不思議そうにする優に安心させるよう笑いかけてゆっくりと口を開いた。

「名前で呼んでいただけませんか」

僕のこと、



俺は彼女を下の名で呼ぶが、優は俺を苗字で呼ぶ。
そこに引っ掛かりを覚えたのは随分前だった。



「えっ?」


しかし、馴染んでしまうと改めることが難しくキッカケも無いままこれまで過ごしていた。



「嫌だったらいいんです、」


驚く優に、すかさず俺はそう言って身を引こうとする。




「い、いえ!!嫌だなんてっ。ただ、ちょっと・・・急だなって、」


すると彼女はそれを首を振って否定する。
そう答えることを分かっていて俺が逃げ道を潰していることに優は気づかない。


ちょっとずつ、彼女が俺の名前を呼ぶ流れへと引き込んでゆく。




「言い出したのは急かもしれませんが、ずっと思っていたんです。僕だけ優さんのこと名前で呼んでますし。」

ちょっと不公平かと。



あと、

「僕が呼んでほしい、っていうのも理由の一つです」


困惑して揺れる不安げな表情が一転、俺の言葉を聞いて赤く染まる。
嘘の無い真っ直ぐな想いを伝えることは、優と出会って俺が学んだこと。

今のところそれは優にのみだが。



俺の視線を逃れるように、赤く染まった顔が俯いてしまった。


「・・・優さん、」

俺の声に反応するようにピクリと肩が揺れて、
彼女の手が履いていたスカートをぎゅっと握っているのが目に入った。


しかし、言葉を返してはくれない。





やはり急だったか、と少々反省する。

くすぐられた加虐心と、芽生えた悪戯心によってついつい己のペースで進めてしまったわけだが、
優には優のペースがあるのだから。


純粋な彼女にはことさら性急な催促に感じてしまったことだろう。


追々呼んでくれ、と口を開こうとしたとき、





「す、昴さんっ、」


依然俯いたままだったが、いつの間にか体を隣に座る俺のほうへと少し向き直っており、
優が俺の名を、沖矢の名を呼んだ。



「すばっ、昴さんっ!」


覚えたての言葉を繰り返す子どものような優だが、
そこには恥ずかしさを耐えて呼んでいることがありありと伝わってくる。


そうまでしても、俺のお願いという名の戯言を叶えようとしている優がたまらなくいじらしかった。





「優さん、」



優が今どのような顔をしているのか、見逃すのは惜しいと感じて、もう一度声をかけ、彼女の顔に手を伸ばす。
そっと頬を包むように触れて、顔を上げるように促す。


目が合って、優の顔にさらに赤く染まる。
恥ずかしさから潤んだ瞳は、部屋に差す光が反射して輝いて見えた。


絡んだ視線をそのままに、俺は優に求めた。




「もう一度、呼んでください」





「昴さん、」



優が名前を呼ぶたびにじんわりとした何かが胸に広がる感覚。
偽名であるというのに、しびれるような甘さが体を支配する。


もう、逃れられそうにないだろうな。
俺は、浸るようにそっと目を閉じた。
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