濡れた猫に傘差してあげるタイプの人


足、痛い。靴も片方無くしちゃった。
また靴買いに行かないと。今持ってる靴の中で両足揃ってるのあと1つしかないんだよなぁ。

「お姉ちゃん大丈夫?」
「大丈夫だよ。それより君こそ怪我はない?」
「うん…まだ足痛いけどお姉ちゃんが治してくれたから傷はもうないよ」
「そっか。それは良かった」

反転術式がなかったら私は今日までに何度死んでいたんだろうか。四肢が吹き飛んでも何も思わない。スペアがある。無くした鍵とおなじ感覚だ。考えることがあるとすれば飛んだ四肢が生えるまでにどう立ち回るかということ、それと衣類の修復費にかかるざっと見積った出費。前に京都校の先輩に大根足に短いスカートは映えないと馬鹿にされたこともあった。私だって下に短パン履いてるんだからこんなヒラヒラいらないと思った。でもこのヒラヒラがあるおかげで『嗚呼、はしたないなぁ』と乙女を捨てずにいられる。五条先生はどこまで見越してカスタマイズしたのだろう。五条デザイナー渾身のスカート丈はまるで私の足がどこでちょん切れるか予想していたかのように、裾は今日も切り裂かれることなく絶妙な丈のまま膝皿と付け根のちょうど半分で揺れている。
背負った小さな体を担ぎ直し、裸の左足とぺったんこ靴を履いた右足でよろよろと体を揺らしながら冷えきった木目の床を歩く。痛い。関節にまだ違和感が残ってる。その上一人担いでいる。痛くないわけが無い。陸に上がった人魚姫もこんな痛みに耐えながら王子に会いに行ったのだろうか。これで王子と恋をして結ばれようなんてよくやるものだ。私ならすぐ海に逆戻りして平凡な生活のありがたみを噛み締めるだろう。
器用に開けた片手でスマホを当たりながら任務が終わったことを告げると『お疲れサマンサ!僕もう次の任務行ってるから後は伊地知に送ってもらってー』と秒で返ってきた返信になまえは喉に詰まる言葉を呑み込んだ。単身の帰宅が許されるなら私の行動制限って無意味なんじゃ…まぁ、別にいいけどさ。
時刻は夜の10時。都内の某廃校。五条先生引率の2級呪霊を対象としたほぼ単独任務は途中命さし迫る番狂わせがあったものの片足と引き換えに無事呪霊を祓い連れ去られていた子供を救出した。学校の七不思議。“普通の人”だった頃、私も1度だけ学校に忍び込んだなぁとしみじみと思い出に浸りながら「もう怖いの祓ったから眠ってていいよ」と疲労困憊な体に呼びかける。帳は上がり肌が粟立つ呪霊の気配も消えた。あとはこの子と一緒に伊地知さんと合流して、家まで送り届けたら高専に帰ってお風呂に...

「お姉ちゃんめちゃくちゃかっこよかったね。壁に沢山穴開けて、ばん、ぐさっ、ばばばんって!」

動きが少ないからてっきり眠ったかとばかり思ってた。壁に沢山穴を開けたという部分はあまり褒められたものじゃないが、その他に関してはちょっと照れくさい。暴れたら落ちるよ。抱えた小さな足を腕で挟み背を丸めて歩くなまえに男の子はベッタリと背中に張り付き「ママもお姉ちゃんみたいによくおんぶしてくれた」と制服をギュッと掴んだ。それから校門に着くまで眠たい私と眠れない男の子はたわいもない会話を繰り返した。好きな給食のメニューや流行りのアニメ。その中でも家族の話になると男の子は妹が生まれ母親の愛情に飢えていると、会話の端々に『ママ』を登場させた。よっぽど『できた』母親なんだろう。それともこれが一般的な親と子の関係なんだろうか。
母親が妹に盗られたらどうしようと悩む男の子の気持ちが親離れが早かったなまえには理解できなかった。ちょっとだけ人生の先輩としていつかは自分の足で歩くのだから悩んでも無駄だと愛想の無いアドバイスで親離れを促した。なまえにはそういうアドバイスしかできなかった。だからだろう。2週間前、ムッとした男の子から返ってきた言葉がこんなにも胸に突き刺さることになるとはこの時のなまえは思ってもみなかった。

『じゃあお姉ちゃんが困った時は誰が助けてくれるの!!』
『…それは』

誰なんだろうね。
すぐに頭に浮かんだのは七海さんだった。それから虎杖くんに、野薔薇ちゃんに、伏黒くんに、2年の先輩の顔、ついでに五条先生の顔も次々浮かんで、忙しそうな雰囲気にすぐ頭の中は白に返った。死ぬ時は1人。初めて腕が飛んだ時、五条先生がそんなことを言ってた。死ぬ時は1人、私の場合は死ぬ間際も1人なんだろう。周りに期待なんてしてないし自分にも期待していない。忙しい人に仕事を押し付ける行為が申し訳なく浅ましいと考えてしまう。人に助けを求めることが苦手だ。どういう表情で、声で、『助けて』と言えばいいのか分からない。この歳になって小さい子でもできるようなことが出来ないのだから1人で死んでいくのは当然の結果だ。

…はぁ。まーじでそろそろ五条先生を殴ってもいい頃合だろう。なーにが『3級呪霊相当がたった複数体だから軽く祓ってきな』だ。これ絶対に3級呪霊じゃない。七海さんが引率時に祓う3級呪霊とは質も強さも全然違う。それが複数で襲いかかってきたら足や腕の一本や二本吹き飛ぶのも当然だ。生きてるだけで御の字。
派手に壊した瓦礫の下、なまえは四肢を投げ出し寝転んでいる。呪霊は祓い終わったがもし残りが出てきたらもう喰われるしかない。拳銃は瓦礫の下に埋もれ掘り返しても直ぐには使えないだろうし、かろうじて鉈を握っているものの振り下ろす力はもうない。銃弾も底を尽きてしまった。呪力を使いすぎた為に止血が上手くいかないまま既に1分半が経過しようとしてる。生理中じゃなくて良かった。もし被ってたら貧血で今頃意識が飛んでたいところだ。
ポケットから取り出した割れたスマホの液晶を指で叩き耳に当てる。別件で忙しいとは聞いていたがたぶんこの時間なら迎えに来てくれるだろう。

「もしもし伊地知さんですか?今終わりました。はい、ちょっと動けそうにないので今から1時間後に拾ってくれませんか?大丈夫です。休めばなんとかなります。はい、五条先生がいないのは知ってます。はい。はい。呪霊は祓ってるので問題ないです。途中でおにぎりと飲み物買って貰えると嬉しいです。味はなんでもいいです。はい、お願いします」

これなら40分くらい仮眠して、それからゆっくり車が回せそうな場所へ移動したらいい時間に伊地知さんと合流できるだろう。…替えの服、送迎車に置いてくればよかったなぁ。黒い制服の上着ごと中の白シャツがワインレッドに染まり、派手に破れたスカートからは短パンが剥き出し状態だ。高専関係者以外に見られたらスパイか暗殺者の死体だと勘違いされそう。目が覚めて棺桶に詰められてたらどうしよう。生き返ってもいいのだろうか。最悪OPP案件になるのだろうか。物質の境界線が歪みポツポツと雨のように滴る血になまえは瞼を閉じる。スマホのアラームを40分に設定し、カクンッと首が枯れた向日葵のように落ちる。それから程なくして視界が一点へと狭まっていき、プツンっと記憶が途切れたと認知した直後。

「…っ!!」

勢いよく飛び起きた途端に全身へのしかかった倦怠感になまえは柔らかい背もたれに体を預けた。エンジン音と、それに被さるラジオの声。良い匂いがする。珈琲の匂いだ。鼻の奥に溜まっていた工事現場のような匂いが少しもしなくなった。運転席に座る伊地知さんの後頭部を眺めながら、膝にかかっていた袖付きの黒い膝掛けを整える。現場から車内まで運んでくれたのだろうか。寝ている間に止血できたのだろうかと鈍痛がする額に手を当てた時、ザラザラとした質感と軽い締め付け感になまえは目を丸くし、呪具の有無を確認するため自身の背に手を伸ばした。しかし隣に座る珍しい存在になまえは手を止め混乱する頭を強く叩き瞬きを繰り返す。

「起きたか」
「…伏黒くんの幻が見える。夢か。おやすみ」
「幻じゃねぇよ。起きれるなら起きろ」

どういう人選?なんでここに?
朝も夜も見事なウニ頭だなぁと瞼を擦りながらなまえは「おはよう」と軽く手を挙げ凝り固まった首を回した。破損したスマホの電源をつけると時刻は入眠してから20分程度しか経っていなかった。1時間後に拾ってもらうつもりだったが、伊地知さんか伏黒くんのどちらかが気を利かせてくれたのだろう。この膝の服もそういうことか。納得した。外はすっかり暗くなり窓の外ではスーツ姿の群れが駅に向かって走っていく。ちょうど車が信号に捕まり、ドアを開けた先には10歩程で来店できるファストフード店が眩しい明かりを放っている。お腹減ったなぁと腹を摩る。すると隣からカサカサとビニールを漁る音になまえは痛みも忘れてクイッと首を回した。

「食べるか?」
「うん。ありがとう」

鮭におかか、それとたかな…狗巻先輩の声が聞こえてきそうだな。希望通りのおにぎりをお茶と共に受け取りペットボトルの蓋を開ける。伏黒君って姑みたいな性格含めて無自覚で周りの人に好かれそうな人だ。3つとも予め海苔が巻かれたおにぎりから伏黒の気遣いを読み解きながらなまえは1つ包装を開けて大きな口でかぶりつく。美味しい、しゃけしゃけ。
黙々と食事を始める私の隣で優雅に足を組み読者を始める昼下がり気分の伏黒君。ところで彼はなんで同じ車に乗り合わせているんだろう。制服を着てるということは彼も何かしら任務で外に出ていたのだろうが、私と違ってちっとも服に破れた跡が見つからない。さぞかしスマートな戦い方をするんだろう。同級生とは名ばかりのほぼ先輩のような存在だ。

「伊地知さんの別件って伏黒君の事だったんだ。単独任務?虎杖くん達は?」
「アイツらは2年の先輩達と任務。俺は単独任務だった」

2人は先輩たちと任務で、伏黒君だけ単独任務…それって実質私と同じはぶら…いや、この言葉は使わない方がいいか。プライド高そうだし。

「…ドンマイ」
「うっせぇ。お前もだろうが」

私の場合は経験値集めで低呪霊任務に駆り出されているだけだと正当な理由を盾に反論してみたが「みょうじに限ってそんなことあるのか?」と含みのある回答に私は何も言葉を返せなかった。言われてみれば貴重な人材を命張らせてまで任務に駆りだす理由って…

「まぁあの人は何考えてるかわかんねぇし、考えるだけ無駄だ」
「ですよね」

予定された授業を変更し急に大喜利大会始め出す教師の考えなど予測不可能で誰も理解できまい。…運転席から共感のオーラが漂っているのは気のせいか。見なかったことにしよう。話しかけたらなんか大人の愚痴が始まりそうな雰囲気だ。

「ところで伏黒くんはなんでシャツ1枚なの。クールビズ?夜だよ。風邪ひくよ?」
「煽んならその膝の上着返せ」
「え、やだ。無理、寒い…ありがとう」
「……おう」

寝て起きたら服が元通り…なんてことはなく、眠る前と同じ悲惨な有様だった。後方支援に特化した人間の格好じゃない。
また家入先生から制服を借りて、その間に新しい制服を注文しないと。短パンは洗えばまた穿けそうだが上着も白シャツも片腕破れてるし、スカートは手の施しようがなく、靴もまた片足消えている。かろうじて履いていた靴を脱ぎ、寒い寒いと呟きながらなまえは両足を椅子に持ち上げ伏黒の上着で体を覆った。まだ夏とはいえ車内でもさすがに夜は冷えるな。反転術式があれど風邪をひいたらどうしようも…反転術式と言えば、

「伏黒くん。私、反転術式があるから包帯巻かなくてもいいよ」
「…巻いとけ。一応」

それでたまには周りに心配かけておけとそっぽ向いた伏黒くんに私は一瞬何を言ってるのか分からず肩を竦めた。けれどフロントミラーに映る伊地知さんの生温い笑顔にふと、数日前助けた男の子の言葉を思い出して。きっと私は私が思ってる以上に助けてくれる人が沢山いたんだなぁと借りた上着の袖を通し2つ目のおにぎりを頬張った。



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