Lantern


01


羽古井 凜子は血の繋がらない全くの別個体でありながらも私達の顔や背丈は同じ鋳造で複製されたように瓜二つだった。違うところといえば黒子の数と位置ぐらいだろう。とはいえ見分けるとすれば項が顕にならない限り誰も気づかない。あれは私が7つの頃だ。町外れの茶屋で団子を頬張っていると隣に座っていた身なりの良いおじさんが私の手を、親戚の叔母さんが凜子の手を握って『さぁ帰りましょう』と子供を取り違いしかけた事が出会いのきっかけだった。向かい合い掌を合わせれば水面を覗き込んでいるかのようにそっくりな私達。地主で有名な羽古井家では当主が奥方に目移りして出来た子供ではないかとあらぬ噂話で一波乱あったらしいが、利権が絡んだ大人の世界の騒ぎなど子供の世界にはこれっぽっちも影響はなく、楚々とした作法で団子を咀嚼する綺羅服姿の『私』の美しさに一目惚れした麻の小袖姿の私は甘い香りの花の周りをブンブン飛び回る蜜蜂のようにあの子の名前を聞き出そうと躍起になって話しかけた。
私の一目惚れが霞んで有耶無耶になったのは羽古井凛子と2度目の出会いを果たした時だった。場所は私が居候させてもらっている自称町一番の染物屋。白い麻の服を風呂敷で包んだそれを何個も抱えた侍女を引き連れて凛子は現れた。藤色に菖蒲模様が織り込まれた衣に身を包んだ彼女は店に押しかけるなりいの一番に私を呼び付けた。前回彼女の名前も聞き出せそうと躍起になった末に貼り付けた笑みで淡々とあしらわれた事もあり、私にとって凛子との再会は瓜を引き連れた猪との遭遇にも等しい心境だった。何か恐ろしいことが起こるのではないか。名乗ったところで1度だって呼ばれることがなかった名をわざわざ大声で呼びつけた凛子に私は隠しきれない怯えに指を震わせながら叔父さんの背中からエイヤと覚悟を決めて飛び出した。私に何か用でしょうか。バクバクと破裂寸前の心音に呼吸が浅くなるのを感じながら視線以外は全て凛子に向けた。やつれた侍女の顔を前にきっと私もこの人達みたいになじられるんだと身構える私へ凛子は威圧的に胸の前で組んだ腕を解き、縮こまる私の爪先から頭のてっぺんまで品定めするような視線で舐めるように吟味すると『あたし羽古井凛子。遊びに来てあげたわ』と侍女が抱える風呂敷のひとつから笹で包んだ三色団子をぶっきらぼうに差し出した。

「#name#〜遊びに来てあげたわよ!」

それからというもの羽古井凛子との交友関係は順調に円満に気づけば7年も続いている。彼女が遊びに来たとわざわざ染めやすい服を持参して染物屋を訪れた日は『きっと私の残りの人生はこの子に滅茶苦茶にされるんだろうなぁ』とそのつっけんどんな物言いと彼女の背後に見える『財力』と『権力』に精神は既に半分屈していた。多分叔父さんも叔母さんも守り継いできた染物屋の終わりを悟っていたに違いない。
まさかあれから7年も月日が経ったなんて今思うとかなり感慨深い。天真爛漫で自分の心を素直に言葉にすることが得意な箱入り娘はすっかり染物屋に入り浸っては持参した団子を摘んで大きな独り言を零す事が日常と化している。
客人用の茶葉を急須に振り入れ、お湯を注いで蒸らしたものを団子を頬張る凛子の側へ置く。湯呑みを空っぽにして渡す理由は7年経っても彼女に茶の入れ方が下手だと馬鹿にされそれを受け流すのが面倒になったからだ。
急須を傾ける動作さえ絵になる美しさ。歳を重ねるにつれ凛子の美しさは磨きがかかっていく。そしてそれを引き立てる一点物の髪飾りや小袖は四季が移ろう度に色や柄を変え、少なくとも彼女が1度袖を通した衣服は同月で繰り返し袖を通すことは無い。凛子自身かなりお洒落に敏感で、自分の顔の魅せ方を熟知しているからこそ濃い色の化粧で自信に満ちた顔を飾りつけることが多い。そんな彼女が時折桜色の紅を引いてあっさりとした顔立ちで染物屋に現れると決まって団子をヤケ食いしている。おおよそ例の『許嫁』が関係しているのだろう。

「あら、今日はいつも以上にお洒落さんだね。そっか、今日は「あっ、駄目よ!言わないで!!絶対に!!!」」

ギャンっと吠えて私の言葉を遮ると団子に移って落ちた桜紅を手荒く手の甲で拭った。袖から取りだした真っ赤な紅で形の良い唇をボテっと誇張するように塗ると聞いてるこっちがげんなりするようなため息をついた。

「あたしってなんでこうも不幸なんだろ。朝から晩までアレやれコレやれって指図されて、何度も嫌だっていうのに初対面のオジサンと半刻も商売話を付き合わされるなんて地獄だわ。その上好きでもない青臭い野生児が事前予告もなしに顔見に来るとかホンット…あたしの人生誰のためにあるんだろって感じ」
「まぁまぁ。良家に生まれた定めってやつだよ。受け入れるしかない」
「む〜」

口をすぼめた彼女は膝に肘をついて可愛らしく唸っている。何がそんなに不満なのか私には分からない。羽古井家の権力が計り知れる豪勢な屋敷に数多の小間使い。働かずとも食にありつけ、綺麗な服と装飾は全て彼女の所有物。理不尽な文句にヘコヘコと頭を下げる必要すらない。とはいえ私と凛子住む世界が違う。領主の1人娘というのは何かと大人ののっぴきならない事情に巻き込まれて大変なのだろう。特に彼女は空想に思いを馳せる夢見がちな女の子だ。現実から目を背けたい気持ちも理解はできる。が、彼女の延々と垂れ流される愚痴を聞いているとまるで凛子に成り代わったような気分で、生きることが少し窮屈に感じる。お嬢さまも楽じゃないようだ。

「いいなぁ〜#name#は。優しい叔父さんと叔母さんの家で仲良く暮らしてる。自分が好きな染物の仕事をしながら好きな時間にお昼寝もできるし、周りに指図されることもなければ気乗りしない人付き合いもしなくていいんでしょ?最高じゃない!」

嗚呼、始まった。凛子のないものねだり。
また表面だけ見て羨んでる凛子に私は肩を竦めてお退けた振りをして、心の中では深いため息をつく。その頭に刺さった簪を売ってお金にすれば1年は遊んで暮らせることを恵まれた環境しか知らない彼女はきっと知る由もない。

「確かに叔父さんと叔母さんの家に引き取られたのは幸運だったけど、いくら自由に暮らせても毎日綺麗な服を着て美味しいご飯を食べられる生活には叶わないよ」
「そんなわけないじゃない!自由以上に羨むものはないわ!だってどんなに綺麗に着飾ったところで薄っぺらい褒め言葉ばかりで虚しいだけよ。それに食事だって毎日あんな量出されたら丸々肥えて〆られる前の鶏よ!」
「でも毎日おなかいっぱい食べられるなんて羨ましい」
「そう?あたしからしてみれば無駄に小鉢が並んでる上に胃の上限関係なく量を出されてうんざりしてるけど。ふふっ、#name#って変わってるわね」

これだからお嬢様は。
串だけが残った皿を下げるついでに空になった急須もお盆にのせた。ご丁寧に蓋を開けて空ですよとお知らせするところがまた何ともお嬢様らしいと苦笑せざるを得ない。
日の傾き具合をわざとらしく確認し、手持ち無沙汰になりつつある凛子に視線を向ける。

「そろそろお家に帰ったら?あまり遅くなるとご当主様が心配するよ」
「いやよ!だって家にまだ小平太がいるんだもの!!あぁっ!?…最っ悪。思い出したくもない名前口に出しちゃった!!」

ほら、見て鳥肌!と袖をめくり絹のような真っ白な肌を見せつけられてもなんと返答したらよいか。凛子がうっかり口にした『小平太』とは彼女が12歳の時に両親が連れてきた許嫁の人の名だ。ご覧の通り凛子の小平太さんに対する毛嫌いは酷く、『小平太』『許嫁』の単語を口に出す度に大袈裟な反応を取るのだ。
私の記憶が正しければ、許嫁が現れた直後の彼女はそれはもう用もなく染物屋に長時間居座っては私や叔父さん、叔母さんを巻き込んで許嫁を自慢し、延々と喋り続ける口に叔母さんが饅頭を突っ込んで毎日追い払っていた。それから半年ちょっとは許嫁自慢の勢いは衰えず、徐々に納まってきたかと思えば、小平太さんに弟さんが生まれると凛子が私の許嫁となるよう取り計らってあげる、と訳の分からないことを言い出すことが増え、その度に懐に隠した饅頭を彼女の口に突っ込んだ。
凛子が『小平太』ではなく『アイツ』と呼び出したのは最近のことだ。顔を合わせる度に許嫁への当たりが強くなってきていることは薄々気づいてはいたが、何があってここまで険悪な顔して不平不満をこぼし出したのか。見ての通り天真爛漫で思ったことはすぐに口に出す素直すぎる女の子なので、なにか彼女の気に触る出来事が起こったのだろうが…熱しやすく冷めやすい子でもあるので一過性の喧嘩だと特に気に留めることなく適当に相槌を打っていた。

「実はかくかくしかじかで、凛子が家出したんだよ!!!」

羽古井家ご当主様から速達の文が届いたのは凛子と最後に別れて3日後の事だった。染め終えた衣を店の裏で干していた私の元に顔を青く染めた叔母が手紙を握らせ直ぐに羽古井家へ向かうように背中を押した。
私一人呼び付けるということは大方凛子絡みの頼みとは予想していたがまさか家出するとは予想外だった。それにしても凛子が家出した理由が『かくかくしかじか』とは…頭が良い人の間では通じる暗号か何かだろうか。

「あの、ご当主様。私はなぜ呼び出されたんでしょうか」
「だから!!かくかくしかじかで!!」
「かくかく、しかじか…」

分からないかなぁ〜!!と娘が家でした大事件に苛立ちを隠す余裕もないようで、かくかくしかじかが何を意味しているのかピンと来ない頓馬に懐から角行と鹿のぬいぐるみを取りだしまた『かくかくしかじか』と言った。
学のある方はさぞかし短い言葉で多くの情報をやり取りしているのだろうなぁ。ご当主様が何を伝えたいか汲み取ることも出来ない無能なので荷物を纏めて家に帰ろうとした私にご当主様は漸く『かくかくしかじか』で省略した詳細をご丁寧に時系列を明確にして説明した。最初からそうすれば良かったのに、と思ったが自分の身が可愛いので下手に口を開くことは控えた。

「つまり、許嫁が卒業してすぐに祝言を上げる予定だったことを凛子が知ってしまい、それがもう半月もない事実に発狂して家出しちゃったと。何処に逃げたか検討もつかないので、凛子の行方が判明し連れ戻すまでの間だけ私が彼女のフリをして許嫁の方に見破られないよう上手く場と関係を繋いで欲しい、ってことですか?」
「そうなんだよ!!できるかい!?」
「えーっと…まぁ」

できなくは無い。私達は瓜二つの赤の他人。まだ大人を敬うことを覚えてない頃に何度も互いの振りをして周囲の人間を酷く困らせたことだってある。凛子の人間関係の情報は彼女が零した数々の愚痴で把握してきるし、身なりさえ整えれば性格を寄せるなんて簡単だ。なんせ彼女は特徴がありすぎる。私じゃなくても口調や性格だけなら誰だって真似できる。
ただ凛子の家出を知らず、学生の貴重な時間を潰してまで彼女に会いに来る許嫁さんを騙す様な真似は些か気分が重い。凛子は酷く毛嫌いしているようだが、月に最低一度は顔を見せに来るということは許嫁さんは少なからず凛子に気があるのだろう。もし替え玉がバレて凛子が貴方との結婚が嫌で逃げだしたなんて本人が知ったらどんな気持ちになるだろうか。少なくとも騙す側以上に気落ちするに違いない。

「凛子に成りすますことはできなくは無いです」
「ホントかい!?」
「でも私が凛子じゃないと気づ来て事情を知られたら、許嫁の方はきっとかなり落ち込むでしょうし羽古井家の面子も丸潰れなのではないでしょうか。ここは素直に許嫁の方に事情を説明して帰ってもらっ「そんなこと出来るわけないだろ!!!」

鋭い怒鳴り声が鼓膜を貫いた。普段のそよ風のような優しく消え入りそうな声からは想像もつかない殴り掛かるような声に肩も心臓も飛び跳ねて頭が一瞬にして真っ白になった。
震える両手を握りしめてご当主様から距離をとる。突然怒鳴られ萎縮した私をご当主様は慌てて表情を取り繕った。

「すまない。実は我が家の存亡がかかる事で、私も少し気がたっていてな。だが#name#ちゃんに当たっても仕方がない」

せかせかと屋敷中を移動する使用人を1人引き留めお茶と茶請けを持ってくるようにご当主様が命令する。引き留められたその人は一瞬顔を強ばらせたが、直ぐさま頬を緩め承知いたしましたと足早に厨房へ向かう。屋敷中どこもかしこも騒々しくて忙しそうに見える。私とご当主様を除いた屋敷の人間皆が与えられたそれぞれの仕事を片付けようと慌ただしく手や足を動かして来客のもてなしに尽力している。
廊下の慌ただしい光景に気を取られている私をご当主様がゴホンと主張が激しい咳払いで話を戻した。

「今回はいつもの顔合わせとは訳が違うんだ。七松家のご当主様が遠方よりわざわざ我が家へ見舞う手前、娘が家出したから悪いが今日は帰ってくれ、なんてふざけた理由で追い返せるわけが無いんだよ」

確かに。前々から取り付けていた約束を約束した側の事情で白紙に戻すのは失礼だ。それも娘が家出をした。理由はお宅の息子と結婚したくないからだ、なんて口が裂けても言えない。
服の皺と背筋を伸ばし、まるで取引先相手にかしこまるようなご当主様の顔つきに倣い、私も背筋を伸ばす。ここまで話を聞いてしまった以上私も腹を括らなければ。

「頼む#name#ちゃん。この通りだ!!お礼ならそれはもうたっぷりと。そうだ!君が上手く凛子を演じきってくれたあかつきには我が家が所有する土地一棟譲ってあげよう」
「管理が大変そうなので要りません…その代わりに」

親指と人差し指の先をくっつけそれを天井へと向け上下に小さく揺らす。
最近家の雨漏りが酷いと叔母が器片手に家の中をうろついては頭を抱えていた事、仕事道具にカビが生えそろそろ買い替えなければと帳簿と睨めっこしてはため息ばかり着いていた叔父の事。人を騙して稼いだ銭だと知ったら2人はきっと顔を顰めるだろうが、家の改築費用も道具の買い替え費も真面目に衣服を染めて稼いだところで日々の生活に充てるだけで手一杯だ。とても贅沢なんてしてられない。
バイトの中身を少し誤魔化して羽古井家で不定期の短期アルバイトをする事にしよう。そうすれば報酬の金額の桁数の多さに驚かれることは無いだろうし下手に怪しまれずほんのちょっと贅沢ができる。

用意された契約書に拇印すると凛子専属の女中達にあれよこれよと身なりを整えられあっという間に私は『凛子』になった。糸くず1つ見当たらない重みのある衣、人の手で整えられた乱れのない髪型、薄く肌に張り付けた白粉が日に焼けてシミが転々と散らばった肌を陶器のような白さに変え、血色の悪い唇を滑る紅が面白みの無い唇を艶のあるぼってりとした唇に変身させた。
着替えと並行し許嫁に関する基礎情報を四方八方から念仏を唱えるように与えられ少し頭は混乱しているが、誰に対してもつっけんどんで他人以上に自分への興味が強い凛子なので、まぁ素っ気ない態度で構えていればどんな状況でも上手くかわせるだろう。
通された部屋でお行儀よく座り来る待ち人に爆発寸前の心臓に落ち着けと宥める。部屋の隅には季節の花が飾られ、名のある巨匠が書いたミミズが貼った文字が掛け軸として吊るされている。きっとこの日のために貼り替えたのであろう真っ白な障子と職人技光る畳はどこもかしこも黄ばんで古臭い庶民育ちにはなんとも居心地の悪い空間だ。カッチリとした衣服に腹を締められた窮屈さに何度も足を組みかえてはモジモジと足の指先を動かしていると、全く気配を感じさせない黒い影が薄い障子紙一枚隔てた先に立ち、言葉よりも先にスパンっと戸を開け放ちまるで我が家のように威風堂々と部屋の仕切りを跨いだ。

「凛子っ!!」

溌剌とした声が凛子と名を呼ぶ。その声は元気の塊というべきか、ドンッと鼓膜どころか心臓をドンッと叩くような迫力で一瞬だけ凛子の画面が剥がれそうになった。
なんて豪快な、いや躾のなってない獣なんだろう。邂逅したことの無い種類の人間に困惑を顔に出さないよう表情管理に神経をすり減らす。
開け放った扉はそのままに、許嫁はズカズカと、しかし畳の隙間を踏まぬよう器用に歩き私の対面に準備された座布団へと腰を下ろした。
この人が凛子の許嫁で彼女が苦虫を噛み潰したような顔で『小平太』と呼んでいた方。
卵みたいな丸い目と海苔を張りつけたような太眉。歳は私より2つ上だと聞いていたがどう見ても私の方が歳上に見える幼さを帯びている。1度見たら忘れられない特徴的な顔立ちをひきたてる子供のまま成長したみたいに素直で礼儀知らずな性格は、おべっか大好き凛子が苦手なタイプだと思った。
胡座をかいて座りそう、なんて思ってたらピンッと背を伸ばした正座にこれまでの無頼男の印象が音を立てて崩れていく。ニカッと音が鳴るような笑顔を浮かべた彼は片方の手をわざとらしく背に隠し『よ!』と挨拶するようにもう片方の手を挙げた。

「3日ぶりの再会だな!!元気だったか?ちゃんとご飯は食べているのか?」
「げ、元気よ。ご飯だってちゃんと食べているわ」

私の第一声は震えていなかっただろうか。完全初対面相手に凛子節のツンケンした態度で気心知れた関係性を取り繕う。私が凛子じゃないとバレたらどうしよう。最悪な想像をする度に心臓がキュッと縮んで腰に汗がたまる。
どうか私の口からボロが出ないためにも小平太さんがおしゃべりな方であってくれ。そう心の中で手を組み祈る私の願いを他所に正面の人物は心の内を透視するように丸い目でじとーっと私を見つめる。

「な、何よ。人の顔ジロジロみて。不躾よ」

『もしもの時はこれをお使い下さい』と侍女から受けとっていた扇子で1番表情が崩れやすい口周りを隠す。
まだ対面して数秒というのに机から身を乗り出して距離を詰めてこられるなんて想定外で背筋から冷や汗が流れる。

「なあ」

ビクッと肩が跳ねる。この人が何を言い出すのか、次の一声が怖すぎて凛子の皮を全て剥いで家に帰りたい。

「な、なに?」

扇子を持った指が震え、その指を隠すために空いた指で抑えるも、両手ともども震えているため意味をなさない。どうかくだらない事を質問しますようにと願ったがその願いも虚しく、小平太さんは訝しげに眉根を寄せた。

「お前、本当に凛子か?」
(ギクっ)

寝耳に水とはまさにこのこと。
り、凛子の馬鹿!!何が『ほんっとヤになるわ。小平太ってホント節穴野郎よ。アタシが髪を少し整えても気づかないし、アタシが話を振ったらやっと『おう、似合ってるぞ!』って。ホント大雑把なんだから』だ。この人全っ然目が節穴じゃないし、それどころか周囲の大人でも見分けがつかない私達の双子芸を一発で見抜いてくる繊細な人なんだが。
「うーむ」と顎に手を添えて拳2つ分の距離まで顔を近づける小平太さんは真偽を見極めようと真剣だ。この調子では扇子で顔を隠して誤魔化すのも時間の問題だろう。
さぁ私はどうしたらいいだろうか。侍女が待機する戸へ視線で助けを求めるも戸の奥から動きはない。自分で切り抜けなければならない事は分かっているけどもどうすれば…凛子ならこんな時なんて言うだろう。自分中心に世界を回す我儘お嬢様なら…ご機嫌ななめで家に帰る、これだ。

「い、」

今だけ私は羽古井凛子。凛子は自分中心に世界を回す女だ。人の顔色ばかり伺う弱虫な女じゃない。
スっと息を吸い込んで叩いて扇子をたたむ。ボロの表情を隠すものを取っ払うと不思議と不安や緊張よりも、完璧に凛子にならなくちゃという使命感が自然と背筋が伸び口元に力が入る。次に来る嵐は耐え忍べないであろう長屋に身を寄せあい痩せた体を抱き合う叔父さんと叔母さんの姿が小平太さん越しにぼんやりと浮かぶ。
これは親孝行。弱気になってる場合じゃない。
扇子を握ったまま拳を強く机に叩き付ける。ガンっという音に湯のみが僅かに跳ね、小平太さんが何事か!?と驚いた顔して乗り出した身を引っこめる。それを好機と捉えた私は更に言葉でまくし立てることで下がった自分の立場を引き上げる。

「許嫁の顔を忘れるなんて最悪だわ!!もう我慢の限界よ!小平太なんてもう知らないっ!お父様の話が終わるまで勝手に過ごしてちょうだい。あたし自分の部屋にもどるから!!!」
「あ、おい。待ってくれ!!」

ぷいっと顔を背け腰をあげる。もう貴方の顔なんて見たくありませんと態度で示しつつも、もちろんあたしを引き止めるのよねと自信たっぷりに緩慢な動作で立ち上がる。自己肯定感が小山級じゃなければできない博打だ。まだ捨てきれない弱虫の私が『ちょっとやりすぎたかも!?』と心の中で指を咥えてあわあわしているうちに小平太さんは焦り顔で現実世界の私の腕を掴んでいる。賭けは凛子の勝ち。小心者の私は彼女の圧倒的自己肯定感の高さから成し遂げられる人心掌握を崇めひれ伏すのみ。
掴む手を睨みつけ振り払う。きっと凛子はこうする。小平太さんも私の行動が凛子の生体に一致したようで、怪しむような態度から相手のご機嫌を伺う仕立てから出る態度で逆だった感情を宥めに来る。

「疑って悪かったよ。なんせいつもと雰囲気が違ったもんで、てっきり他人の空似かとつい疑ってしまった」
「ふんっ。まぁいいわ」

鋭いなこの人。これは言動にかなり気をつけないと私が羽古井凛子ではないと見破られてしまうかもしれない。
凛子を演じるのも容易くない。早くお帰りになってくれないだろうか。イライラなのかバレた時の恐怖心なのか、胸の前で組んだ腕の、振袖に隠れた指の震えが止まらない。緊張感に押しつぶされそうで無意識のうちに寄った眉間の皺。とても口には出せない裏事情に胃を痛めているだけの表情が、許嫁の戯言に相当ご機嫌ななめだと受け取った小平太さんはずっと背中の後ろに隠したそれを私に差し出した。

「り、凛子!これをお前にやる。来る途中で詰んで来た!!」
「何よ。花?」
「お前が言ったんだろ。花も持たずに会いに来るなんて男として論外だって」
「そ、そうだったわね。小平太にしては気が効いているのね」

我儘お嬢様ここに極まれり。
流石に論外は言いすぎだと思うけど、まあ花を詰んで贈られて悪い気はしない。
どこかで詰まれた水仙は汚れひとつない白い花弁がとても綺麗で、ただ小平太さんが少し強く握りすぎたのか首を垂らしてしなびている。

「どうした?嬉しくなかったか?」
「いや、別に嬉しくない訳じゃないけど。まぁ、受け取っておくわ。あ…」

待った。凛子って他人の好意へ素直にありがとうと言葉を返す子だっけ。

「あ?」
「あ、ありがとうございます…?」

幾ら恩知らずのお嬢様でも口にする頻度が少ないだけで感謝の言葉くらいは伝えているだろうと思ったのだが、私の『ありがとう』の言葉に小平太さんはご立派な眉を持ち上げ大袈裟に口をポカーンっと開けた。

「凛子お前…『ありがとう』なんて言葉知っていたんだな。初耳だ!」
「ば、馬鹿にしてるのっ!!?」

やっぱりそうだったかぁ〜と額を抑えたい気持ちを抑え噛み付くように反論できた事を誰か褒めてくれないだろうか。
凛子を演じるのも楽じゃない。花を握り一時精神的休憩を求め席を立つ私を小平太さんが言葉で引き留める。

「なぜ席を立つ?まだ会ったばかりじゃないか」
「なぜって、花瓶探しに行くのよ。このままじゃ花が萎れて枯れるでしょ」
「お前が探しに行くのか?」
「…そっ、そんなわけないでしょ!?誰か!花瓶持ってきてちょうだい」

また怪しむような視線を向けられ、慌てて席に戻り手を叩き声を出し、部屋の外で待機していた侍女を呼びつけた。部屋に入ってきた侍女はいつも凛子が私の家に遊びに来る時に付き添っていた旧知の仲の女性で、私が花を渡すと彼女は『お嬢様、失礼します』と髪の乱れをなおす合間にコソッと私の耳に口を寄せる。

『#name#さんしっかり。もっと我儘に振舞ってください。お嬢様は#name#さんが思う3倍以上は我儘です』
「え、これ以上!?」

健闘を祈るとばかりに肩を叩いて侍女がはけていく。これ以上どう我儘になればいいというのか。お願いだから私をひとりにしないでと助けを求めるように去る背中を視線で追いかける様子が凛子らしくなかったのかもしれない。「どうかしたのか?」と小首をかしげる小平太さんに私は勢い余って「な、なんでもないわよ!!」と誤魔化す。早く平凡な私に戻りたい。ツーっと首筋から流れる冷や汗を手で仰ぎ「なんだかムシムシするわね」と気まずい間を適当な会話で埋めていると小平太さんは急に『閃いたぞ!』とばかりに手を打ち勢いよく立ち上がった。何だか嫌な予感がする。幼子のような眩い眼とやけに張りきった立ち姿に生唾を飲む。

「よしっ、凛子。夕陽を見に行こう!!今から出立すればちょうど裏裏山の頂上から落ちる夕陽を眺められるだろう」
「は?山??」
「よし、そうと決まれば、いけいけどんどん!!!!」
「は!?ちょっ、え!?」

一体この方は何を言い出すのやら。ここから裏裏山の裾まで軽く一刻はかかる。馬に乗って移動したところで今の時間帯の太陽の傾き具合から見るに裏裏山の頂上に着く頃には夕陽どころか空に星が出ているに違いない。
けれども小平太さんは今から裏裏山に登り傾く夕陽の美しさを共に見に行きたいようで、流れるように私を抱き上げると「いけいけどんどん」と謎の掛け声とともに屋敷の庭から塀を飛び越え風をきって走り出した。
なぜ馬に乗らないのか。ヒト一人抱えて塀をても使わず飛び越えるなんてどんな身体能力しているんだ。そもそも人力で裏裏山まで登るなんて正気なのか。気になる事、言いたい事は沢山あった。大木のような体格の良さに反比例したピョンピョンと岩場を飛び登る身軽さと全く速度が落ちない健脚。人間離れした身のこなしに唖然とし、ヒュンッと下半身の浮遊感が襲う度に死の匂いに怯え小平太さんにしがみついて悲鳴をあげているうちに気づけば私は裏裏山の頂上に立ち傾く夕陽を眺めながら薄く開きっぱなしの口から魂がはみ出ていた。

「どうだ?たまには外に出て夕陽を見るのも悪くないだろ?」
「…そうね」

わぁ…夕陽が綺麗。確かにたまには山に昇って夕陽を眺めるのも風情があっていいかもしれない。ただその場の気分や思いつきで強制的に体ごと振り回されるのは勘弁して欲しいかも。

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