Lantern


03


凛子が家出してもう2月が経とうとしていた。2月も凛子に成り代わっていると自然と羽古井家の間取りに詳しくなって『梅子』の私と『凛子』のアタシがぐちゃぐちゃに混ざり、本当の自分はどっちだったのか、たまに分からなくなる。
染色を溶かした冷水に手を浸け一日中手を汚して働く『私』と上等な服に身を包み風流を嗜んで一日が過ぎていく『あたし』。私には家族がいる。叔父と叔母。血の繋がりはないけれど本当の娘のように育ててくれた温かい人たち。あたしには期待の眼差しを向ける大人がいたが気を抜く暇なんてない。けれど…一緒にいて気が楽だと思える人がいてくれる。烏滸がましいとわかっていたが、顔を合わせる度に思い出が1つずつ積み上がって、芽生えた特別な感情に蓋をすることができない。
そんな身分不相応な恋心を抱く私の心中を察してか、ご当主様は私を呼びつける度に『羽古井家の許嫁』『凛子の夫』と強調し暗に下手なことは口走るなと釘を刺し、侍女達も『凛子様の許嫁』『梅子さん、もう少しの辛抱ですよ』と小平太さんとの逢瀬を影から監視しては時折大きな音を立て近づきすぎた距離を指摘する。
なんて嫌な役を引き受けてしまったのだろう。夜更けにひっそり寝床を離れ涙で濡れた顔を洗う女の心中など誰も知らない。知られたところで、全部自業自得だと懐にしまった銭を指さされ白い目で見られるのが目に見えている。
あと何度、小平太さんの隣に並ぶことができるのだろう。あと何度、彼の視界に映ることができるのだろう。

「凛子、団子が今にも落ちそうだぞ」
「え、あ」

右手で摘んだ団子の串が断固の重みで傾いていることに気づき慌てて指に力を込める。それでも地面に向かって傾いていく団子の串を小平太さんがすかさず受け止めて、握り直させてくれた。今少しだけ指が触れた。私の指より一節も長くてゴツゴツしていて、お天道様みたいに温かい。
せっかく小平太さんが連れ来てくれた評判の良い団子屋なのに心配事が多くてちっとも食が進まない。大切な休日を使って凛子に逢いに来てくれたというのに梅子が邪魔して目の前の現実に集中できず、せっかくの団子も1口咀嚼したまま2口目に進めない。そんな私を心配して小平太さんが「口に合わなかったか?」と顔を覗き込んでくる。小平太さんを毛嫌いしているあの子なら、きっと顔を赤らめもせず鬱陶しいと吐き捨てるのだろう。「鬱陶しいわ」と近づいてきた顔を手のひらでお仕返し団子を食べる。こんな失礼でいかにもあなたが嫌いだとわかりやすい態度で接しても、飽きられることも捨てられることもない二人の関係性が口から手が出るほどに羨ましく、襟元を掴みあげたくなるほどに妬ましい。

「来春、私は学校を卒業する。そして約束通り卒業後すぐお前を嫁に娶る」
「んぐっ…!?」

小平太さんの口からポンっと飛び出した威力のある言葉に咀嚼し損ねた団子が丸いまま喉の奥へ滑り気道を塞ぐ。真っ赤な顔で胸を叩く私に小平太さんはナハハ!と笑いながら並々注がれた湯呑みを差し出す。
一気にお茶を流し込んで、狭い気道を広げるように落ちていく苦しさでむせていると火傷しそうな温もりが背中をさする。「大丈夫か?」なんて笑いながら心配されても、全く嬉しくない。貴方のせいで窒息死するところでしたと下から睨んでも彼はニコニコと笑ってるだけ。暖簾に腕押しとはまさにこの事か。

「きゅ、急に何よ!」
「急ではないだろ。お互いうんざりするほど言い聞かされてきたことだろうが。だが最近のお前は物忘れが酷いからな。約束を忘れてないかちょっと確認してみただけだ」
「そ、そう…だわね」
「だわね?」

結婚、か。
もし凛子が帰ってこなかったら、この人は誰と結婚するんだろう。今と同じ状況のまま梅の花が散って桜の花が芽吹いたら、その時も私は…いや、そんな都合のいい話は夢の中だけで成立する。この話題はあんまり好きじゃないかな。

「ねぇ、小平太は学校で何を学んでいるの?それって将来必要なことなの?」
「ああ、将来社会に出て必要な事を色々学んでいる。作法だろ、炊事だろ、あと算術に、委員会活動…」

あれもこれもと指を折って数える姿に私は目を丸くする。失礼だけどどれもこれも彼には似合わない単語ばかりが口から飛び出して思考が追いつかないのだ。

「ちょっとまって、作法?小平太が??」
「なんだ。何か言いたげな顔だな」
「べ、別に〜」

作法のさの字も知らなさそうな豪快かつ大雑把な小平太さんが細かい振る舞いに気を遣う姿が全く、これっぽっちも想像つかない。しかもその学校を6年間も通って、もうすぐ卒業だというのが『え、本当に?』と言いたくなる。
彼の師範はさぞかし手を焼いたんだろうなぁとこっちは容易に想像ついてしまい、ふふっと思わず笑い声が零れた。けれどすぐさま『あ、これは凛子っぽくないな』と口元を抑えて慌てて険しい顔を作っていると不意に視界の右側が明るくなり、髪を撫でる指の感触にビクッと肩が跳ねた。

「な、なによ!?びっくりするじゃない!!」
「髪が落ちていたから耳にかけただけだが。そんなに驚くことか?」

何その真顔。私の反応がおかしいのだろうか。普通急に触れられたらどの部位でもびっくりすると思うのだけど、小平太さんと比べれば異性との関わりが薄い私の方がズレているような気もしてくる。

「そ、そう…いや、それならそうと一声かけてくれないかしら!?女性の扱い方くらい作法で学んでるはずでしょ!?」
「なはは!細かいことは気にするな!」
「細かくないわよ!!」

顔が熱い。まるで触れられた箇所が燃えてるみたい。いたずらっ子みたいな笑みを浮かべて顔を覗き込んでくる小平太さんに私は恥ずかしさを隠したくて体ごと体を背けた。何だか今日はいつも以上に小平太さんに振り回されている気がして、ふとした瞬間にボロが出そうで何だか怖い。さっさとお団子を食べてしまって、もう今日は早く切り上げてしまおう。食べ終えた串を皿の上に置いて湯のみに手をかけた時小平太さんが凛子と名前を呼んだ。

「なに?」
「いや、なんだ。変わったな、お前」
「そ、そうかしら!?」
「ああ。上手く言葉では言えないが前より素直で落ち着いた気がする」
「ま、まあ?私もお年頃ですから?」

ドキッとした。まさか今になって私が凛子じゃないことに勘づいたのではないかと内心焦った。『別人』と言われて、まさかバレたんじゃないのか、と。けれど彼の様子を見るにただ思ったことを口に出しただけのようで、カマをかけて確かめているわけではなさそうだ。心臓に悪い会話だ。何とか話を逸らしたいけれど会話の主導権が戻らない。嗚呼、逃げ出したい。

「以前のような自由奔放で我儘お嬢様なお前も元気が良くて好ましかったが、今のお前は以前とはまた違った魅力があって愛らしいな」
「な、何よ急に!褒めても何も出ないわよ」
「なはは!!それは残念だ」

この気恥しい空気に居心地の悪さを感じている中で急に肩に手を回して物理的な距離を縮めてくる小平太さんに息が止まる。
こういう時はどこに両手を置くのが正しいのだろうかといつの間にか雰囲気に流されかけている自分にハッとして、徐々に近づいてくる丸い瞳を押し返そうと両手で胸を押す。

「ちょっ、ちょっと待った!!嫁入り前の娘に口吸いは先走りすぎなんじゃないかしら!?」
「何を今更。口吸いなど今まで数え切れないほどしてきただろ?」
「(そうなの凛子!?)」

今になって知らされた衝撃的な事実に胸を押す手が緩んだ。あんなに毛嫌いしていた癖に凛子は小平太さんと口吸いしていたなんて。
ねぇ、凛子ホントなの!?とイマジナリー凛子に問いかけ、イマジナリー凛子が『さ?覚えてないわ??』と雑に返答する。まぁ凛子はこんな感じで返すだろうなぁと納得している間にも小平太さんの硬い指の腹が頬をなぞるように添える。物陰から団子屋目掛けて飛んでくる小石がゴンッ!と音を立てても小平太さんの勢いは止まらない。ここで下手に騒いで抵抗すると凛子じゃないと勘づかれるかもしれないと、自分に都合の良い理由をつけて潔く目を瞑る。凛子は何度もこういう経験をしているのだと小平太さんが言った。ごめんね凛子。この過ちはこれっきりだから。どうか許してください。
顔面が緊張で力が入った今からどこに触れられても強く感じてしまいそうだ。さぁこいと覚悟を決めた数秒後、鼻に抜けるような笑い声が聞こえたあとに熱を持った肉厚な感触を感じた。唇ではなく右頬に。
目を見開いて右頬を押さえる。何をされたのか頭が真っ白になった私を小平太さんは腹を抱えて笑った。

「冗談だ。これまで散々お前に振り回されてきた分の仕返しだ」

緊張しすぎだ。そう言ってまた顔にかかった髪を耳にかけ、耳たぶを押したり揉んだりと遊び出す小平太さんの悪質なイタズラに遅延した感情が急に怒りへと振り切った。

「…小平太なんて嫌い」
「なんで!?」

口吸いひとつで容易く心を乱してくるなんてたちが悪い。あれほど甘い雰囲気を漂わせておきながら口ではなく頬に着地するなんて…本来はホッとすべき結果なのになんで私はこんなに怒っているんだろう。勘違いも甚だしい。小平太さんは私越しに凛子を想い気持ちを確かめあっているだけで、凛子の奥にいる『梅子』の事なんて何も想ってないのに。私、『ズルい』なんて不相応な感情を凛子に向けてしまった。お金を貰って雇われているだけの分際で、醜い感情に狂わされかけてるなんて、馬鹿みたい。

「凛子。りーんこ。怒ったか?」
「怒ってない。呆れてるの」
「そうか!なら良かった」
「何も良くない!…はぁ」

ずるい。
凛子は何故こんなに愛と優しさに満ちた素敵な人を捨てて家出してしまったのだろう。
私なら。私が凛子ならなぁ。
これ以上凛子を羨んでいたら悔しさで涙が出そうで、もう家に帰りたくなって席を立った。急に逢瀬を終わらせようとする私の心情など知る由もなく、自分の態度で怒らせたのかと焦る小平太さんはこんな時もあろうかと思って、みたいな準備の良さで衣の胸元から花を取り出し彼の体温で少し萎びたそれを差し出した。
前に私が好きだとこぼした花だ。なんで胸元から?と笑いそうになったけど、とても真剣な顔をした彼が小さな1輪の花を両手で握り差し出すものだから何も言えなくなった。

「…は、花で機嫌が取れるほど私はチョロい女じゃ」
「知ってる。だが機嫌を取るなら花の100本や200本持ち歩けと言ったのは」
「はいはい、あたしです。あたしでございます〜」

こういう問答が最近苦手になった。小平太さんへの思慕が強くなるにつれてこういう過去のやり取りが小平太さんと凛子の仲の深さを再認識させられて、私ってなんだろうって代役のくせ に傲慢にも主役になりたい気持ちが膨らんで苦くなる。

「凛子」
「もう、なによ?」

花一輪に浮かれている顔を知られないようにと口元に力を込めている私の肩をちょんちょんっとつつく小平太さんに私は仕方なしに振り向く。また子供じみた悪戯かと呆れて振り返ると、彼は何処か真剣な眼差しで私の両手を取って薄べったい何かを握らせた。

「受け取ってくれ。先に言っておくがこれは機嫌取りのためじゃない」

急にどうしたのだろう。目をパチクリさせて恐る恐る両手に押し付けられたものに視線を落とす。わぁと心の声が漏れた。眺めるだけで一生買うどころか目に入ることもない高価で美しい簪が私の掌に収まっている。

「いつも花じゃ物足りないだろ?この前町に出た時に良くできた髪飾りを見つけてな。お前に似合うと思って買ったんだ」

銀杏型の光り輝く黒に赤い花が小さく細やかに咲いている。冬になると庭に咲く花にそっくりだと指の腹で撫でると「美しい梅の花だろ?お前にピッタリの花だと思ってな!」と渡したばかりのそれを握り小平太さんが髪に挿してくれた。よく似合ってると小平太さんが褒めてくれた。どれほど似合っているか自分からは分からないけれど、きっと私の名前の由来になった花は気高く静謐にほころんでいるに違いない。

「小平太」
「なんだ?」

貴方が飾り立てている女は貴方の本物の許嫁じゃないのよと真実を告げたら、貴方は挿したばかりの梅を引き抜いてしまうのだろうか。銭を受け取り貴方を騙した私を辱めるだろうか。もうすぐ草木を覆う白い化粧が溶け始め春の匂いを纏った風が髪を揺らす季節が巡ってくる。約束された別れの刻が訪れるまでに、もう少しだけ、せめて梅の花がほころぶまで、

「ありがとう。大切にするわ」

どうか偽りの許嫁として貴方を騙すことを許してください。

学園にもどる小平太さんを見送って、その背中が見えなくなるまで手を振った後は私も羽古井家に戻り『梅子』に戻った。上等な衣を取り去り化粧を落とした素朴な顔が毛羽立った小袖の襟元を整え前髪を右へ流す。今日もお勤めご苦労様でしたと麻袋に詰められた大金を受け取る代わりに、私は小平太様の様子や彼から受け取ったものを全て羽古井家に渡す。花1本、彼から頂いた言葉1つ全て羽古井家の凛子に送られたものは全て凛子の為に明け渡した。けれど一つだけ、彼から贈られた梅の花の簪の所在について侍女から尋ねられ、私は咄嗟に凛子なら気に入らないって言うと思ってと小平太さんに例の簪は返したと嘘をついてしまった。
友達の一族を欺いても私はあの簪が欲しくて堪らなかった。彼が私の名前の由来となった花に目を留め、私を思い贈ってくれたそれを凛子に譲りたくなかった。私が守った許嫁との契りも私が作った親密な関係性もどうせ全て凛子の物になる。でもせめて、貴方が少しでも思慕した女は私だったのよと、形に残る物が欲しかった。
袖に隠して持ち帰った簪を誰の目に触れない場所へ隠し、家族が寝静まった頃に簪を眺めては小平太さんへの恋心を募らせた。
どうかもう少しだけ『凛子』のままで居させて。ただの代役だったはずなのに気づけば主役になりたいと願い、雨のように降り注ぐ真っ直ぐな恋を滲ませる言葉や視線が自分に向けられていると信じるがあまり、自分にそっくりな女の子の存在を押し退けて私だけを見てほしいと傲慢な想いが芽生えてしまった。
そうして泡のように膨らんだそれが耳元で『全てを打ち明けてしまえ。きっと彼はお前を選ぶと』悪魔のように囁きだし、決してぐらついてはいけない選択にどうしたらいいの?と簪を握りしめては3度も小平太さんと手を握った。
私は凛子じゃないの。羽古井家の庭園を散歩している中で小平太さんが美しいと褒め讃えた恋紅色の梅の花に、私を見てと彼の袖を引こうとした時だった。
遠くに控えていた侍女が慌てた様子で私から小平太さんを引き剥がし、なんの説明もなしに客間へと案内された。嫌な予感がした。引き戸の向こうで甲高い鳴き声が聞こえるから私の予感はきっと的中だ。
漸く我々の苦労が報われた。大変だったことでしょう。お疲れ様でしたと存在しない苦労を労われながら合わされた引き戸がゆっくりと開いた。
嗚呼、私にそっくりな顔がいる。久しぶりに再開した羽古井凛子は彼女の父親の胸に顔を埋めてワンワンと幼子のように泣いていた。

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