小川の桜

文の方とお会いしたら、まず初めに小川に咲く美しい桜並木を見せてもらうつもりだった。渡辺の屋敷には花が咲かない植物ばかりが植えられていて、春を迎えても桜を見る機会はなかった。私が外に出て手折ってくる訳にも行かないし、私の我儘で折られた花が可哀想だ。
だからまだ春が終わらないうちに小川のせせらぎを聞きながら春を象徴する花を見たかった。…上手くいくと思ったんだけどなぁ。

「仮名様。そろそろ休憩してはいかがでしょうか?」
「ありがとう」

時を告げる鈴の音が鳴る度に侍女が部屋の前を横切り言葉をかけ去っていく。あの方に頼まれ渋々様子を見に来たと言わんばかりの逃げ足になにか切なさのようなものを感じた。逃走防止の監視なんて誰が得をするというのか。あの方が何を考えて寛容に私の過ちを許したのかは知らないが、私にとっては大きな迷惑だ。逃避行元い顔も知らぬ御仁と駆け落ち紛いなことをしておきながら眉間に皺を寄せることなく『無事で良かった』の一言で済ませるなんて私に興味無さすぎるでしょ。叱られるか折檻か、いっそ斬首される覚悟までしていたのだが、こうしてまた文を書いてる今が何か試されているのではないか、穏やかな日常が素直に喜べない。

「帰った」
「…お帰りないさいませ」

以前と比べ帰宅を早めるようになった彼は律儀に手土産まで持って帰るようになった。菓子で機嫌とり、か。つくづくこの屋敷は意地悪で人の神経を逆撫でする事に長けた人達ばかりだ。
月が空に高く昇ると今日も綱様は刀を携え物騒な夜の散歩に向かい丑三つ時を過ぎる頃に息を潜め屋敷に帰ってくる。虫の声が涼し気な夜に響く中、猫のような足取りで床を歩く彼は刀を腰に差したままふっと明かりが消えた部屋の前に立ちどまり障子を開ける。

「はやく寝なさい」
「…寝ています」

貴方の足音で起きてしまっただけです。
寝返りを打ち畳に伸びるおっかない影に背を向けると綱様はため息をつくだけでそれ以上は何も言わず障子を閉め去っていく。今のは危なかった。微かに部屋に漂う煙を手で仰ぎながら真名は慌てて布団の中に隠した文を取り出し皺を伸ばす。粗雑に扱ってしまったせいで紙の端は所々破れてしまったが取り上げられるよりかはまだ良い方だ。夕刻に届けられたばかりの文を抱きながら真名は繰り返し返事の言葉を口ずさんだ。朝が恋しい。早くこの溢れんばかりの瑞々しい言の葉を綴りたい。渾渾と頭に言葉が溢れているというのに一つも記さず大人しく瞼を閉じるなどできるはずもなく、火種を取りに部屋を抜け出す。この時間帯だ。綱様も部屋に戻ったことだし足音さえ気をつけていれば私の行動など誰の目にも触れないだろう。そう高を括り無事お目当ての火種を手に入れ踵を返した直後、私の影を踏み背後に経つ般若は手燭を奪うと部屋に連れ戻し暫くの間私の部屋の前に座り込んだ。それで私の寝息が聞こえるまで何度も障子を開けては締めを繰り返すものだからさらに私の苛立ちは積み上がっていった。

窮屈な生活を強いられはや5日目の早朝。そろそろ文の方から返事が返って来てもいい頃だろうと朝餉を箸でつついていたところ、出立準備を整えた綱様が珍しく顔を合わせに来た。最近の監視体制といい菓子といい一体何を企んでいるのだろうか。『おはようございます』と挨拶をすると彼は手短に挨拶を済ませ一言表情を動かす事無く『遠出する。支度をしろ』と言った。急な誘いにまだ頭が働いてないこともあってすぐには言葉の意味を理解することができなかった。しかし朝餉を食べ終えるや否や人の手に揉みくちゃにされ、押し込められるように牛車に乗せられて漸く事態を理解した。
数える程度しか経験がない独特な乗り心地に肩を強ばらせ視線をさ迷わせる私とは真逆に右隣に座る彼は乗り慣れたように首をふらふらと揺らしていた。この激しい揺れの中でうたた寝とは。遠出すると言っておきながら何処に行くとまでは教えられてない為にこの車が何処へ向かっているのか検討もつかない。進んでは止まり、また進んでは止まりの繰り返し。意地も口も悪い侍女達からひと時でも離れられた事は喜ばしいが、その代わりに最も息が詰まる人物が隣にいては一時も気を抜くことなどできない。こうして屋形の中で空虚に時間を費やす間にも返事の文が部屋に届けられているかもしれないと思うと焦れったくて、今すぐ御簾から飛び出してしまおうかと痺れた足を擦りながら考えていた。しかし悪巧みした途端に彼がうたた寝から目覚めたものだから、大人しく姿勢を整え外の賑やかな声に耳を澄ませるしか何もすることが無かった。
人の声が消え風の音だけが鼓膜を震わせる頃、物見を覗いた綱様がここで止まれと命令し、市女笠を私に被せた。長く車に揺られ平衡感覚が狂ってしまったのか足は酒に酔ったみたいにふらつき体を支えられながら地に足をつけた。屋根の下を歩いたのは逃避行以来だった。青白い肌を焦がす陽の光に眩しさを覚えつつ、真名は無言で坂を登る綱の後を追いかけた。一体どこに連れていこうというのか。都から離れ人の声が絶えた草原を履きなれない草履でトットッと歩く。あの夜と同じように綱は頻繁に振り返っては真名が追いつくのを待った。しかし自慢の長い足が踏み出す歩幅の大きさまで気が利かない事に真名は大いに腹を立てながらも無言で憎たらしい背中を追いかけた。どうせ回れ右して逃げたところでどうせすぐに捕まるだろうし、無一文で逃避行は流石に無謀だ。
緩やかな坂を登り詰めた真名は先に頂上へと至り「ここだ」と綱が自信満々に案内した景色に真名は目を丸くした。

「…!」

視覚に飛び込んでくるもの全てが春の色に染まった筆舌に尽くし難い眺望に心が震えた。空を遮るように咲き誇る桜は風に吹かれる度にヒラヒラと花弁を散らし、花びらで飾られた黄土色の道すら本来の役目を忘れ趣きの1つとして昇華してしまっている。足跡1つ許さない繊細さは前にまるで絵巻の中に飛び込んでしまったようだ。並木道の傍には涼し気な小川が緩やかに流れ、せせらぎに混ざる小鳥達の声は雀とはまた違った不思議な鳴き声で鳴いている。

「…桜、ですか」
「ああ。今が見頃らしい」

桜の並木道、傍には小川。文の方が仰り、私の逃避行が成功したら真っ先に見に行きたかった場所。願いがひとつ叶った。嬉しいはずなのに。連れてきてくれてありがとうございますと言いたいのに。まるでこれも仕事の一貫だと、そんな横顔を見ていると数百本で飾られた桜の並木道も一本の桜を眺めている時とそう大差ないように感じてしまった。

「もしや桜を見せるために私をここへ連れてきたのですか。休暇を取ってまで?」
「そうだ。花は嫌いじゃないだろう?」

ええ、貴方が仰った通り花は嫌いじゃない。むしろ好きだ。でも、

「貴方は私の事などちっとも興味が無いのですね」
「…?それはどういう意味だ??」

私の為に忙しい時間を割きここへ連れてきてくれた、それについては感謝している。けれど朝一で急に遠出すると伝えたわりに行き先を教えてくれなかったことしかり、歩幅も考えずさっさと坂を登ってしまうことしかり、帰宅する度に無理に菓子を買い与えてくる事だってそうだ。何もかもが押し付けがましく私の気持ちなどちっとも考えてくれない。わかりやすい機嫌取り。幾ら私が欠陥品の女といえ、黙って微笑むだけの女だと思ったら大間違いだ。
私が貴方の思考を読めず眉間に皺を寄せると同時に貴方も私が何を考え何故怒っているのか知りも知らずに首を傾げるのでしょうね。
近くで見るとより綺麗なんだと差し伸べられた手を真名は首を横に振り拒絶した。

「疲れました。屋敷に帰りましょう」

痛くもない足を草履で痛めたと嘘をついた真名を綱はやはり咎めることなく『そうか』の一言で惜しむことなく登ったばかりの坂を下った。行きも帰りも綱は振り返るだけで歩幅は相変わらず真名の感情を逆撫で、牛車に乗り込んでからも屋敷に帰った後も無表情と険しい顔は1度たりとも視線を交わすことなく一方が吐く溜息ばかりが空間に充満していた。