とめどなくポツポツと

またすぐに伸びますよ。不揃いな髪を撫でるように櫛で梳かし肩の高さで切り揃えた女人はお似合いですと心にも思ってない言葉で機嫌をとった。女は髪の命。その命が肩の高さで揺れている。元気に田畑を耕す女人とそう変わらない長さと云うのに、ちょっと感情が破裂して自暴自棄に髪を切っただけで屋敷中に心無い噂が蔓延している。私の耳に届く声量で『童子のよう』『醜女』『見苦しい』と心を抉る言葉の数々が飛び交う中を私は朝の支度をすませ真っ直ぐ前を見据え廊下を歩いていく。掌はまだ燃えるように痛み、足は鉛をのように重い。それでも最低限の役目は果たさなければと目を擦り平静を装うが、前方からやって来る表情筋が死んだ顔を前にすると不満の一つや二つ吐きかけずにはいられない。唇を噛み、軽く頭を下げ彼の傍を通り抜けようとした。けれどすれ違う間際に私の名を呼び引き留めた彼は渡したい物があるから部屋で待っていなさいと言った。渡したいものか、なんだろう。引導とか、そういうやつだろうか。どうせろくでもない。期待せず大人しく部屋で背を伸ばし待っていると彼は律儀に頭を下げ廊下と部屋の境を跨いだ。珍しく腰に刀を刺さず軽装で現れた彼は狩衣の袖を整えながら足を畳むと脇に挟んでいた文を境界線の如く私の前に置いた。

「私になんの御用でしょうか」
「大した用じゃない。これを貴女に渡しておきたかった。それだけだ」

そう言って彼は差し出した文を受け取るよう勧めた。ただの文かと思っていたが、それは丁寧に折り目がつけられ、表には当てつけのように『清少納言』の文字が記されていた。嗚呼気持ち悪い。目に見えた機嫌取りもこれが欲しかったんだろ?と私のことを分かったようなその態度に嘔吐しそうだ。

「どういうつもりですか?」

清少納言様はお忙しい方だと聞いていた。貴重な時間、貴重な紙を費やして私のために書いて下さったのか。どうしてそんなことをするのか。なぜ周りを巻き込んでまで余計なことを。

「貴方が詩を好むと以前文で読み、つてを頼り貰ったものだ。昨夜渡しそびれていたことを思い出したから忘れないうちに渡しておこうと思ってだな」

何も分かっていない。この人は何も分かっていない。良かれと思ってやっていること全てが私の琴線に触れていることを。

「そうですか…これも仕事のうちですか?」

彼は黙っていた。膝の上に行儀よく両手をのせて、真っ直ぐに私を見ていた。呆れた。

「否定しないのですね」

本当にこの人は人の心がない。

「あまり優しくすると情が湧いて私を斬りづらくなりますよ。嗚呼、それとも悔いを残さず死んで欲しいと貴方なりの気遣いのつもりですか?」

ドロッとした液体が心から流れ落ちる。心の底にこびりついていた泥だと思う。言われずともわかっている。私は生まれた時から失敗作だった。陰陽師がこぞって羨む底なしの魔力を持ちながら陰陽術が使えない出来損ない。魔性や鬼に喰われたら日ノ本が滅びかねないと臆病者が吠え、彼女には使い道があると晴明様の鶴の一声で生かされて、年頃まで育てば嫁入りを理由に洛内へ。玉の輿だのなんだのと妬まれたが結局は手元に置いて監視をしたいだけ。万が一に備えて立派な処刑人までつけてくれて。本当に勘弁してよ。こんな、こんなものまで寄越して!

「お節介なんですよ。何もかも」

話はこれで終わり。用事が終わったなら出ていってください。憤りに震える唇を歯で噛み締め退席を促す。畳の目に指を揃え深々と頭を下げながらも頭の中は怒りと恨みで満ちていた。頬にかかる髪の短さすら波打つ苛立ちを煽る風だった。もはや自分の手に負えないほど感情は爆発寸前だった。
頭を下げる真名を前に綱は顔色ひとつ変えず差し出した文を自身の横に起き直すと、腰を上げ真名に手が届く距離へ座り直した。顔を見られまいと真名は顔を隠すように深く深く頭を下げた。しかし自分の意思とは関係なく消化しようのなかった感情の欠片がボロボロと両目から落ち、畳を濡らす様を指摘しない彼ではなかった。幸せと言うならなぜ貴女は泣いている。まるで幼子のような人の心の裏を読めない質問に堰き止めた感情が溢れ出し泥のような感情が心を黒く塗りつぶした。
嗚呼、もう…なんなんだ。この男は。
頭を上げ濡れた顔を袖で拭う私が彼の目には泣きじゃくる幼子にでも見えたのだろうか。困った子だと呆れた顔で涙を拭おうと伸びてきた狩衣の袖を私は手で払いのけ、その勢いで唇を切った。口の中は少しだけ鉄の味がしたがそんな事に考えを割いていられるほど私は冷静じゃなかった。

「…っ、触るな!私に触るな!!…嫌い。貴方なんか嫌いだ。貴方も、貴方の関係者も、私を人として扱ってくれない陰陽師達も。嫌いだ!みんな大嫌いだ!!!!」
「そうか…悪かったな。何も気づいてやれなくて。碓井や卜部であれば貴方が泣くこともなかっただろうな」

違う。恨み言を吐いていい相手じゃない。そんなこと頭では分かっていた。けれど抑圧された感情が爆発し、ちょうど目の前には恨みを募らせた集団の1人が何を考えているかも分からない顔で態度だけは申し訳なさそうに頭を下げていた。謝るな、頭なんて下げるな、一生悪かったと罪悪感を抱えて生きろ。呪うように胸を叩き涙を流し続ける私を彼は叱るどころか泣きたい分だけ泣けばいいと黙って叩かれ続けた。だからだろう。その優しすぎる態度がまた癪に触り、叩いて、喚いて、嫌がらせのように落ちる涙で彼の狩衣を濡らし、意識が落ちるまで喚き続けた。

「…」

目が覚めると起床した頃よりも部屋は暖かく、畳の上で転がっていた体に見覚えしかない外套が掛けられていた。汗が涙で頬に張り付いた髪を払いながら体を起こすとあの人の姿は何処にもなかった。荷葉の匂いがする外套、それと清少納言様が書いた文が一通取り残されていただけだった。鼻をすすりながら部屋の前を歩く女人に声をかけ、持ってこさせた水を飲みながらあの方は何処に行ったかと尋ねると源頼光様に呼ばれ屋敷へ出掛けたと行った。頼光様の元へ、そっか。ならば晴明様の耳に私の痴態が届くのも時間の問題だろう。手習に集中したいから暫く部屋の前を通らないでくれないかと女人に伝え障子で部屋を塞ぐと何重にも重ね着した単を脱ぎ1番地味な衣を纏った。何処でもいい。ここじゃないどこかへ私は行くんだ。人払いを済ませた部屋の前には立派な松が一本庭に埋まっていた。私はそれを掌の痛みを堪えながら登り、怪我を覚悟で塀へ飛び移った。草履を履き忘れたことに気づいたのは飛び降りたあとのこと。けれど『童子が』と毒を吐かれただけあってか、塀を降り昼間の洛内を歩き回っても誰も私を孤児としか認識せず裸足で歩くことに疑問も指摘もされることは無かった。心地よかった。生まれて初めて社会に馴染んだような気がした。
それから私はずっと歩き続けた。前方を走る荷物を詰んだ牛車の影を地面へ縫い止めるように歩き続けた。途中でよく手に馴染む木の棒を見つけたから童子らしくそれを拾って、昼間の人通りの多さに感嘆しながらいつか渡り終えることが出来なかった橋の上を歩いていると…橋の袂に怖い顔した鬼が立っていた。重たい前髪に目元が隠れそこにまた影を作っていたから睨んでいるのか目を伏せているのか分からないが怒っていることは足の開き具合を見れば分かる。どうやってまた私を見つけたのだろう。見えない紐でも首に括り付けられているのだろうか。それとも塀を飛び降りた直後からつけられていたのか。でも…まぁいいか。ちょうど足の裏から血が出ていたし、頃合だと言われたらその通りかもしれない。お勤めご苦労様です。頼光様との用事は終わったのですか?屋敷の中で交わす上辺だけの言葉を掛ける私に彼は一言も言葉を返さず人攫いのように私の体を担いだ。五条橋を戻り、大宮大路を通り、恐ろしい速さで変わっていく景色に嫌悪しながらふと近づいてくる規則的な野太い声に私はこの男の考えを全て察して足をばたつかせたが、頼光四天王筆頭相手に普段筆しか握らない腕力が適うはずもなく、抵抗虚しく頼光様が住まう屋敷へと連れ込まれた。