手遅れ

笑い声から1番遠い客間で夕餉を済ませ畳の目を数えながらあの人の支度を待っていると大層真っ赤な顔をした御仁が襖を外す勢いで部屋になだれ込んできた。気を抜いてうつらうつらとしていた私は戸を引く音ともに眠気が吹き飛び、慌てて服の袖で顔を隠し部屋の隅へと体を寄せる。一体誰だ。何事か。体臭をかき消す酒臭さに真名は眉間に皺を寄せ鼻をつまむ。呂律が回らず獣の唸り声のようなうわ言を宣う酔っ払いは畳に涎を垂らし夢現に曲げた片足を上下に揺らしている。この痴態、頼光様がご覧になったら首が落ちるのではないだろうか。これが頼光四天王が一人。なんて無様な。

「おっ、真名様!真名様ではありませんか!!久方ぶりですなぁ〜!!最後にお会いしたのは貴殿の裳着の儀以来でしたかな?」
「は、はぁ…久方ぶりです。卜部様」

比較的無害な人かと思っていたがそうでも無かったらしい。酔った勢いで部屋に飛び込み、挙句ほぼ接点もない相手に嫌な絡み方をしてくる人だとは思わなかった。酔っぱらいが言うようにこうして向かい合うのは私の裳着の儀以来だ。初対面の頃からこの人はやけに距離感が近くついムッとしてしまうような発言が目立つ人だ。よく言えば気さくで明朗な人とでも評価するのだろうか。私には軽率で礼儀知らずで武士の風上にもおけない堕落人にしか思えないが。血縁者に蜘蛛でもいるのかと呆れ返るような四肢捌きで畳を這いジリジリと距離を詰めてくる卜部に真名はスっと立ち上がり部屋の隅から隅へと移動する。体を触れられたら叫ぼう。癪だがあの人に何とかしてもらわなければこの酔っぱらいを斥ける術がない。袖の奥に嫌悪を隠す真名に卜部は意味もなく手を伸ばす。そして一向に捕まらない足を回らない頭で理解すると、今度はドッと心臓が跳ねるような大声で畳を叩いた。

「それで、どうです真名様。綱との生活は。あれは堅物ゆえ退屈することも多いことかと存じます。アイツからしばしば話は聞いておりますが、いやはや、まさか若い娘を前にして手を出していないとは。私、驚いて盃をひっくり返してしまいましたぞ。真名様もさぞ辛い思いをしておりましょう。お可哀想に」
「はぁ…お気遣い痛み入ります」

全く、この酔っぱらいめ。
鼻が曲がりそうな匂いだ。

「さしずめあれは未だ過去に縋りついているのでしょう。なんせあの御方は目を見張るほどにとても美しい女性だったゆえ」
「…あの御方とは?」
「それは勿論綱の想い人ですよ」

初めて知った堅物の裏に隠れた女性の影に浮かせた片足が元の位置へと戻る。宙をさまよっていた手がやっと真名の片足を掴む。それに気を良くした卜部はふふふと悪い笑顔を浮かべここだけの秘密ですよ?と秘密を語るにはあまりにも大きすぎる声量でベラベラと。酒で軽くなった口から紡がれる言の葉程信じられるものは何も無い。他人の秘密をさも自身の武勇伝を語るかの如く卜部は上機嫌に語った。恐らく真名がもういいと制止したところで彼は知り得る全ての秘密を暴露するまで止まらなかっただろう。

「私自身あったことはありませんがね、噂によると黄金の御髪が目を惹く御仁だったそうで、酒が進む美しさだったとか」
「そうですか」
「嗚呼、私は別に真名様と比べている訳ではありませんよ!!ただ綱の想い人はそういう容姿をされた方だったと事実を伝えているだけで」
「卜部」

頼光様も晴明様も彼に想い人がいた事実を一言も教えてくれなかった。それは貴方が2人に黙っていて欲しいと頼んだから?
真名の困った視線が卜部の背後に佇む人物をじっと凝視する。卜部に秘密を晒された張本人は重たい前髪越しから酔っぱらいを静かに見下ろしている。皺のない顔からは喜怒哀楽が読めない。だが怪異も化物もいない空間で片手が柄頭に添えられている当たり相応ご立腹らしい。初めに綱の存在に気づいた真名は卜部が語る秘密を聴きながら真実を探るように綱をじっと見つめていた。一方卜部はと言うと声をかけられるまで延々と人の秘密を暴露した挙句当の本人が背後に佇んでいたことに気づき酔いが一瞬にして冷めた。みるみる青白く染まる顔でしまったと口を抑えるが当然ながら時既に遅し。掴んだ足を解放し口の端から垂れた涎を服の袖で拭うと彼は自身の命惜しさに真名がききたそうだったから話しただけだと説明をした。だが一瞬にして綱に嘘を見破られると、空いた前襟をただし垂纓冠も被っていない頭部を真名へ深々と下げた。

「真名様!どうか、どうかこの事は頼光様には内密に!!!お頼み申し上げます!!!」
「残念だが卜部、頼光様がお呼びだ。酔いを覚まして来い」

ただの呼び出しのように聞こえるが彼らの立場と呼び出した人物、言伝を賜った人物とその表情を見れば卜部様が冷や汗をかいているのも頷ける。今の一言でだいぶ酔いが覚めたのではないだろうか。悲壮感溢れる背中が去っていき、疲れたと肩を下ろした真名に綱は目を伏せ顔を見られたくないと言わんばかりに困惑する真名へと背中を向ける。

「酔っぱらいの戯言だ。気にするな」
「…」
「帰るぞ。ここは些か騒がしかっただろう」
「…はい」

顔を見せられないのは卜部様の言葉に嘘偽りがないということか。帰りたがっているのは過去を暴かれることを恐れる貴方の方ではないのか。
彼の影を追いかけるように夜道を歩く。逃げ出さないよう綱は真名に外套を握らせ、真名は置いていかれぬよう強く握りしめる。今日もまた二人の間に会話はなかった。ただ綱がどこまでも仕事人間で、それでいて人としての欲を持った人物だったという事実に真名が苛立ちと申し訳なさに心をかき混ぜヒタヒタと涙を流すだけだった。

「眠らないのか?」

その晩は大きな月が塀の上で輝いていた。だから柱に寄りかかって見上げていると部屋の前を通り掛かった彼が相変わらず読めない表情を浮かべ足を止めた。

「…そういう貴方は今晩も町の夜廻ですか?」
「今日は暇を貰った。たまには刀を置いてゆっくり菓子でも食べろと頼光様に言われたからな。腹は減っているか?頼光様から餅を頂いている」
「…麦湯、持ってきます」

美味そうだぞ?と綱が包みを開き、夜風に吹かれ香った甘い匂いに真名は小腹を空かせパタパタと静かな屋敷を走り2人分の麦湯を運んだ。蒼い月の下、肩を並べ座る。餅を間に挟んでいるとはいえ手が届く距離に相手が座り、互いに沈黙を保ちつつも同じ包みに向かい手を伸ばす行動が少しだけむず痒く気が重い。

「…おいしい」
「そうか」

まだ柔らかく口と指の間で長い橋を架ける餅に頬を緩めた真名へ綱は軽く相槌を打つ。塀を見つめては向こう側に広がる路や人々の生活を想像する真名に対し綱の視線はじーっと塀の上で輝く月に向けられている。月を見て感傷に浸るような人には見えないが、彼は何を想っているのだろうか。向けられた横顔の口元が緩んでいた。嗚呼、なるほどなぁ。酔っぱらいの戯言はやはり信用に値するものだったか。

「卜部様が仰っていたことは本当ですか。貴方に慕う女性がいるというのは」

彼は一度口元へ近づけた杯を盆に置き静かに目を伏せた。

「…どうだろうな。俺にはそういう類のものはよく分からん。自分のことは自分のことが一番わかっていると言うが、もしかすると卜部の方が俺の事を分かっているのかもしれないな」

とても美しい所作だった。まるで離れた恋人へ想いを寄せる静謐の愛を体現したかのような。本人は惚けた事を口にしているが、見るものに焦れったさを感じさせる奥手な思慕は透き通った瞳にはっきりと滲んでいた。

「なぜその女性の元へ通わないのですか。好いているのでしょう?」

世の中そういうものなんでしょう?こてんっと首をかしげ問いかける真名に綱は悩ましげに腕を組む。何を思い悩む必要があるのだろう。自分に自信が無いのですか?と問う真名に綱は何も答えなかった。しかし会いたくないのか?の質問については分かりやすく動揺し、この人が自他共に人の気持ちが分からない残念な御人であることはよく分かった。彼は言った。「俺のような無骨な男が逢いに行ってもあの御方は喜ばれないだろう」と。続けざまにこうとも言った「頼光様からは貴女を守るよう仰せつかっている。他に優先するものはない」と。それを聞いて何を思うかなど皆同じでは無いだろうか。可哀想に。この人は自ら行動や思考を『使命』で縛り、人としての感情や欲求を削ぎ落とそうとしている。忠犬への願望でもあるのか。狂ってる。つまらないことを淡々と語る彼と向き合っているだけで吐き気が込み上げてくる。

「…では貴方は頼光様がいますぐ私の首を落とせと仰れば指示に従うのですか」
「納得する理由であれば斬る他あるまい。…人を斬るのは些か気が乗らないがな」
「交合えと命令されても、ですか?」
「…必要であれば」

憐れな人。望めば手に入るものばかりであるのに彼はわざと目を伏せ欲を断ち、箸にも棒にもかからない忠誠心を理由に自分の幸せを蔑ろにするなんて。馬鹿なのか…馬鹿なんだろうなぁ。それでいて喉から手が出るほどに恵まれた人生を必要最低限の幸運をつまみ歩く彼が私の目には豪勢な料理を前に一口二口摘んで席を立つような愚か者にしか見えなかった。もし私が彼ならば慕う人に拒絶されようとも1度は和歌を送るだろうし、仕事の一貫だとしても扱いづらい人間と夫婦ごっこなんて。いくら上司の命とはいえ婚姻関係に他の意見など介入させないし、そもそも運に恵まれた人生であれば全ての運をかいつまみながら平穏でありふれた生活を送るはずだ。でも彼は違う。何故?多くの選択肢を与えられていながら何故辛い選択ばかりを選ぶのだろう。修行?それとも武人だから?だとしたら渾身の笑みで言ってやる。

喧嘩なら買うぞ糞野郎

なーんて。ははっ…飼われている側がどの面下げて吠えてるんだって話ですよね…
はーあぁ。苦しい。苦しいなぁ…苦しい。けど、仕方ない。だって私の命も人生も何一つ私のものでは無いのだから、あたかも自分のもののように不平不満を垂れる事自体間違えている。そうですよね晴明様。
つっかえていたものが切り落とされた途端にストンっと与えられた型に嵌ったような安心感に真名は腕を広げ寝転がった。喉から手が出るほど羨ましい人生を皮肉するうちに私にとって命の次に大切な物を捨ててしまった気がする。でもこの先の私の人生には多分必要のないものだから探す必要は無いだろう。見つけたところでどうせ役に立たない。

「…勝手にしてください。私も勝手にしますから。ご存知だと思いますが私と関わるとろくでもないことしか起きませんよ。まず平凡や幸せは望めません。それに知っての通り私は天邪鬼で我儘です。逃げ出すなら今のうちですよ」

流れの速い川の中で両足に力を込め踏ん張るよりも両足を離して浮いていた方がずっと楽。流れるように流される人生を。どうせ着地点はおなじ。ならば迷うことなく楽な道を選ぼう。抗ったところで得るものは何も無かったことはこれまでの私の無駄な奮闘がそれを嫌と言うほど教えてくれた。妥協しよう。受け入れよう。今のうちに徳を積んで来世に期待しよう。
宣戦布告とも取れる言葉を受け彼は涼し気な顔を保ったまま小さく肩を竦めた。それは正しく受けて立つと言葉を返したに等しい態度であった。

「貴女の反抗など弟分の破天荒具合に比べれば可愛いものだ」
「…そっ。なら、これからは遠慮なく。お腹空いたので綱様の分も食べますけど、いいですよね?」
「…ふっ、ああ。好きなだけ食べるといい」

何が面白いのか。ふっと鼻で笑った彼に私は睨みをきかせながら大して腹も減ってないのに彼の分まで卑しく手を出した。美味しいと言いつつも最初に口にした餅と比べれば甘みも柔らかさも美味しいとは感じなかった。まるで布を咀嚼しているような気分だった。