里桜高校で呪霊関連の立て篭り事件が起こったと窓から報告を受け私達は七海さんの指示に背き現場へと急行した。里桜高校は順平君が通っていた高校だった。嫌な予感がしてならなかったがその予感には根拠も確証もなかった。だから全て杞憂で終わって欲しいと、手を合わせ車内でただただ順平君の身の安全だけを願った。誰が降ろしたか分からない帳を潜り虎杖君を先頭に呪霊の気配がする体育館へと走った。この時の私はちょっと厄介な呪霊が高校で暴れているだけだと現実から目を背け自分に都合のいい展開ばかりを考えていた。まさか体育館の床を敷き詰めるように倒れた夥しい負傷者と檀上で繰り広げられる復讐劇の主役が順平君だなんて、扉を開ける前の私は想像もしていなかった。今度会って話す時は映画を見る時だって約束したじゃないか。ステージの上、殺意を滲ませ目を剥いた男子生徒は友達と呼んだ男の子にそっくりだったが佇まいや声音はまるで別人で、何の為に伊地知さんの制止を振り切って帳に入ったか忘れるほどに衝撃的な展開だった。

「みょうじここは頼んだ!」

式神使いとして覚醒した順平くんを正気に戻すため虎杖君は校舎内へと上手く誘導し、彼が時間を稼いでいる隙に倒れた生徒の治療に取り掛かる。周回でも開いていたのだろうか。やけに倒れた生徒数が多いことに違和感を抱きながらも近くで倒れていた生徒に駆け寄り薄く開いた口元に手を当てた。安定した呼吸が甲にかかり脈拍も正常だ。恐らく強い呪力に充てられ気絶したのだろう。念の為にともう2、3人状態を調べ、異常もないだろうと虎杖君の元へ走ろうとしたその時、壁際で腰を抜かしていた中年の男性教師が壇上に死にかけている生徒がいると怯えた声で助けを求めてきた。どこかで見たような顔。誰だっけ。とりあえず言われた通り壇上に上がると、確かに放っておけば数分足らずであの世行きな男子生徒が白目を剥いて倒れていた。この人、さっき順平くんに掴まれていた人だ。腕は黒く斑点状に変色しており左腕を皮切りに肩、首、顔、上半身と猛スピードで細胞を破壊している。残念ながら左腕に施す治療はもうないだろう。切り落として生やすなら話は別だが、他の生徒に危害をくわえず初めからこの人に狙いを定めた犯行に‘恨み’が噛んでいないとは言い難い。残念ながら麻酔薬は一式持ってこなかった。意識もあるようだし、ここは最低限の治療だけしてその後は病院に行くなりリハビリするなりお好きにどうぞが最適解だろう。

「最低限の治療はしたので帳が…空が元通りになっるまでここから動かないでください。他の人達は寝ているだけですから下手に当たらないでください」

腰を抜かしてるようだし暫くここから動きはしないと思うが、一応責任追及を問われた時に備え保険をかけておいた方がいい。腰を抜かした男性に倒れた生徒達を任せ体育館の扉を閉めた。恐らく伊地知さんが七海さんに連絡をとっているだろうから大人しく待っていれば騒動は丸く片付くだろう。それにしても虎杖君達は何処まで移動したのだろう。2人の残穢を追いかけていると突然パリンっと校舎の内側から窓ガラスを突き破り駐輪場の屋根の上で殴り合う友人達を発見した。フィジカルモンスター虎杖君相手に優勢とは順平君もなかなかやるな。
なまえは腰に収納していた回転式拳銃を手に取ると実弾を装填せず呪力だけを流し込む。動く的を狙うのは苦手だけど蠅頭程度の速さなら3発打てば1発くらいは当たるだろう。吉野順平に気配を察知される前になまえは銃口を狙いのやや下に向け3度立て続けにトリガーを引いた。放たれた3本の青い軌道のうち予定通り2本は狙いを掠めることなく壁にぶつかり弾けた。そして期待の残る1本は狙い通り吉野順平が従えた海月の胴に被弾し伸びる触手はピタリと動きを止めた。まさかもう術式が看破された?いや、お遊びのような攻撃を当てられ次の動きに警戒されていると言った方が正しいのかも。第三者の介入に油断し目前の相手から目を逸らした隙に虎杖君は順平君を殴り再び校舎内へと押し戻した。恐らく体育館に順平くんを近づけたくないのだろう。呪力を使って軽やかに建物を使って2人の後を追いかけられたらよかったが私にそんな大層な事はできないので校舎内の入り口を通り2段飛ばしで階段を駆け上がった。耳を劈くような爆音に床を滑りながら校舎内を走る。音が近い。この上だ。どうか順平くんが正気に戻っていますように。ポケットにしまった実弾から手を離し、一呼吸おいて激しい音が鳴り続ける場所に向かって階段を駆け上がったその時だ。

「みょうじ待って!!」

反射行動だった。視線がぶつかった時には既に引金にかけた人差し指が力一杯後退していた。無我夢中だった。冷静ではなかった。何故虎杖君が呪霊を祓わずに押さえていたのかも、順平君の姿が何処にも見当たらなかったことも、切羽詰まった声が示す意図も分からないまま、銃口から香る焦げ臭い香りに嫌な汗が背中を伝っていく。何か失敗した。友達を守りたい一心で放った銃弾は見事呪霊を撃ち抜いた。呪術師としてやるべき事をした。それなのに海月を撃ち抜いた時とは比べ物にならない、掌に残るこの生々しい感触は一体なんなんだ。

「な…んで?」

呪霊は祓ったら消滅するんじゃなかったのか。脳天を撃ち抜かれ虎杖君へ縋るように倒れた呪霊を虎杖君はいつまでも呆然と抱いている。虎杖君の瞳が揺れている。その瞳の奥に映る私の瞳も揺れていた。私は取り返しのつかない大きな間違いを犯したのかもしれない。掌を焦がす覚えのない罪の熱。カタカタと握っていた拳銃が震え額から嫌な汗が流れ落ちる。今になって思い出した映画館での騒動の後七海さんから伝えられた特殊な呪霊のこと。生きた人間から生み出された呪霊は祓った後も肉体は消滅しないまま生きた人間の魂を道連れにこの世から消滅するんだとか。

「はー、面白かった。ちょっと乱暴に形変えたから長くはもたないと思ってたけど、まさかお仲間にとどめ刺されちゃうなんて傑作だよ!」

何が面白いのか。何故笑っているのか。腹をよじり目尻に浮かぶ涙を指で拭き取る継ぎ接ぎの男は最高だったと手を叩いた。
彼が何に対して楽しんでいるのか分からない。だが曖昧で不確かな事象に対して女の勘は鋭く働くもので、冷静に一段ずつ階段を登っていれば引き金を引く前に呪霊の正体を察せたのかもしれないと考えれば考えるにつれ後悔ばかりが募っていく。どうして銃口を向ける相手を見誤ってしまったのだろう。一つ上の階から悠然と降りてきた子供のような青年に向けトリガーを引く。しかし容易く軌道を読み避けた継ぎ接ぎの男は「Round3に行こうか!」と目にも止まらぬ速さで私の背後を奪った。

あ、死んだ。

青白い手がゾクリと粟田つ肌に触れる寸前、弾かれたように虎杖くんが青年へと飛びかかり命を軽んずる傲慢な顔に拳を振るった。虎杖くんに殴られると思った。彼がそんな人じゃないと分かっているはずなのに私の中で育っていく罪の意識が善人に殴られる事を欲しているのかもしれない。身の毛がよだつ鬼迫、足が竦むような殺意。笑顔を捨て感情につき動かされるがまま絶対悪へと向かって走る虎杖くんを私は止めることなどできなかった。
虎杖くんに死んで欲しくない。だから身の危険を犯してまでここにいる。なのに私の行動が人の命を奪い、結果虎杖くんを死の方向へと駆り立ててしまった。どうしよう。どうしたらいいの。
答えを求めるようになまえは置いていかれた体を抱き上げる。冷えていく体に残る銃痕の後。人肉で構築されていながら呪霊の性質が混ざった体は反転術式を拒み肉体を焦がす。何が貴重な人材だ。反転術式なんて大層な名前をつけておきながら何の役に立たないじゃないか。

「ごめんね、全部終わったらちゃんと謝るから。だから少しだけ私に時間をください」

教室の扉を蹴り破り集めた机の上に21g軽くなった体を丁寧に下ろした。君に何が起こってこんな事になったか途中参加の私には何も分からないけど絶対に謝りに戻るから。力の抜けた小指を絡め教室の扉を閉めた。
罪悪感の裏で芽ばえる明確な殺意が淡々と拳銃に弾丸を装填させる。使うことがないようにと願ってたくせに今は持ってきてよかったと安堵してる。窓ガラスを割り校庭に向かって身を乗り出すとちょうど真下に虎杖くんとアイツがいた。相手の体だけでなく自身の体も自在に変形できるのか。激しい乱闘を繰り広げ頭部から血を流す虎杖くんの背後から今にも殴り掛かる男の頭部目掛け銃口を向け引き金を引いた。前頭葉を狙って放った弾丸が青年の左胸を撃ち抜いたその瞬間、被弾などしなかったとばかりに青年は虎杖くんの背後を取り棍棒に変形した腕を振り下ろす。危ないっ!声よりも先に腕が前に伸ばすも虎杖くんを救う一手にはならなかったが、ふらつく虎杖くんを庇うように現れた人物によって私達は命拾いした。
七海さんが来た。相手の力量がどれ程なのか検討もつかないが一先ず戦闘に安定感は生まれるだろう。真人に視認される前になまえは身をかがめ校内を走った。人でもない。低級呪霊の特徴も見当たらない。あれ相手に戦闘は無理だと自らの力量を見定めなまえは順平のいる教室から遠ざかるように走った。
走りながら実弾を抜き、体に流れる呪力の流れをお得意の反転術式へと切り替える。やはりさっきの攻撃で居場所がバレていたのか、壁を薙ぎ払うように校舎を破壊する腕の鞭が逃げる足首を掴み校庭へと引きずり降ろした。これはマズイかも。歯を食いしばり両腕で頭を覆う。振り回され、障害物に体をぶつけ、開けた場所へ放り出された瞬間を狙いなまえは背に隠した鉈を取り出し鞭を斬った。猫もビビる高さからの落下。ひと月前の私なら地面に向かって華麗な顔面着地を決めていたところだが、パンダ先輩たちにしつこく投げられ覚えた受け身が初めて役に立った。

「大丈夫ですか」
「銃どっかに落としました。それ以外は問題ないです」

棘つきの鞭なんて服のセンス含めて悪趣味な上にタチが悪い。3度足首を回し体に開いた穴を塞ぐ。それから平気だと自己申告した虎杖君の傷も塞ぎ、七海さんの後ろに下がった。

「みょうじさんは後方支援を。私達がいくら叩いても奴には通じませんので前に出すぎないこと」
「分かりました」

とは言ったものの短いリーチでどう援護したらいいだろう。走り出した2人の後ろで邪魔にならぬよう構えて待機していると呼吸の合った見事な打撃をするりと躱した青年が標的を変えひ弱な人間へと腕を伸ばした。触れられたら終わり。ヤバいと思ったら切り落としていくしかないだろう。人の形をしてるってことはそれなりに弱点も一緒なんだろうか。骨に皮が巻き付いたような腕をじっと見つめて指が触れる直前、腕の付け根を叩きおる勢いで呪具を振ると青年は依然として笑顔を崩すことは無いがガックリと力が入らない腕を見て無邪気に笑っていた。なるほど七海さんが言ってたことはこういうことか。一時的な身体機能の障害は受けるが自己再生能力は異様に速くダメージは0に等しい。玩具同然の呪具とはいえど反転術式で増幅した刃が腕を切り落とすどころか逆に亀裂が入るとは想定外だった。

「きーめた!次はアンタにしよう」

後方支援に回るならやはり銃を見つけてきた方が得策だ。この場から早く離脱して校舎に戻らないと。数メートル先で相手の動きを探る七海さん達の元へ少しずつ足を滑らせこっそりと合流を図る。しかし青年は気味の悪い笑顔を浮かべたまま口から細長い塊を吐き出すとそれに呪力を与え虎杖くん目掛けて襲わせた。質感的にあれもただの呪霊じゃない。まさか虎杖くんの優しさを利用し時間を稼いでる間にさっさと私たちから始末する魂胆か。なんて卑怯な。

「七海さん!」
「虎杖くんの援護を」
「させないよ」

襲いかかる剣山のような腕が私の体を貫く前に七海さんが間に滑り込み先端を切り落とした。しかし七海さんの援護が来ることを最初から知っての攻撃だったと、青年は変形させた腕を風呂敷のように広げ両腕で容易く2人分を拘束した。どうにかして逃げられないか。無駄とわかりながらも足をばたつかせていると全身が燃えるように熱く耐え難い痛みが体を貫いた。鉄の処女に詰められたうら若き少女達の痛みが今ならよくわかる。これはギロチンにも匹敵する史上最低の拷問器具だ。特に施行された後も意識がはっきり残っている点が悪質すぎる。

「宝の持ち腐れってアンタのような人間の事を言うんだろうね。一時の感情に流され与えられた才能を棒に振るなんてほーんと、馬鹿」
「あっ…ぐぅっあ…」

止血が追いつかない。視界が白く霞む。痛覚がどんどん鈍っているせいで気を抜いた途端意識が持っていかれそうだ。幸い呪具はまだ右手で握ったまま指先は死んでいないし力も入る。だがこの締め付け具合ではとても動けそうにないかも。相手は殺害に手間をかけるタイプじゃない。わざと心臓を外し体に無数の穴を開けたということは、順平くんと同じ手法で私も手駒として利用する気か。

「順平だけじゃ足りないみたいだから今度はアンタと闘わせようと思うんだ。聞いたよ。宿儺の器とはそこの七三術師よりも長い付き合いなんだろ?楽しみだなあ、変わり果てた仲間の姿を見て今度は泣いちゃうかな」

口の中が血腥い。一日でこんなに口の中を汚したのは過去を振り返ったところで今日を除いて他にない。体内を高速で循環する反転術式を食い尽くす勢いで押し寄せる傲慢な術式が不快で吐き気が込み上げてくる。…不味いな、指の感覚がなくなってきた。

「アンタが強ければもう少し遊んでやっても良かったけど」

死にたくない。命を弄んだ気狂いに殺されたくない。友達に迷惑をかけて死ぬのは嫌だ。誰かの目の前で死ぬのはもっと嫌だ。約束を破った挙句師匠に穴だらけの悲惨な体を解剖させるなんて真っ平御免だし、やり残したことだって数え切れないほど沢山ある。まだ順平くんにちゃんと謝ってない。彼が勧めてきた映画を1本もまだ見てない。

「飽きたからもういいや」

私が風船だとしたら流し込まれる術式は空気だ。はち切れんばかりに空気を詰められ既に体は限界量に達している。それでもイタズラに空気を送り、次は口を縛って無理に体を捻り変形しようとしている。もう悲鳴をあげる力もない。限界だ。七海さんの声も耳に届いていない。視覚情報は既にシャットダウンし、まるで首を吊っているかのように両足がフラフラと揺れている。ハーバリウムのオイル漬けにされた花みたいだ。術式が皮膚から肉まで染み込み臓器の位置も骨の厚さも内側から皮膚を押す圧迫感全てが情報として頭に押し寄せる。だから無意識にも知覚せざるを得ないのだ。術式が心臓を喰らう寸前、心臓の奥深く。解体新書に記されなかった拍動する己の魂の輪郭を。

「…ん?縛り??へぇ〜アンタ意外に面白いことしてんじゃっ!!?」

«触れるな»

身の程を弁えず境界に触れる痴れ者を凛とした魂の声が叩き落とす。鎖が揺れる音がする。外からじゃない。体の奥深く、自分も知らない暗闇の奥底で。眼球の奥で神経が焼き切れるような痛みが走り、徐々に戻ってくる痛覚がぽっくりと折れたような頭を殴打し消えかけた炎へ油を注いだ。まさか身に覚えのない縛りに命拾いするとは、左胸のポケットにたまたま鉄板を入れて被弾したような奇跡に救われたようなものだ。
拘束が解け自信で作った血の水溜まりへと両足を浸し蹲る。出血しすぎた。頭は回らないし焦点も上手く定まらない。口に溜まった血溜まりを唾液ごと吐き出し震える唇を袖で拭う。
触れられることを拒絶した魂を前に飽くなき好奇心が掻き立てられのか、再度魂へと手を伸ばす真人をなまえは朦朧とした意識の中で七海の声と自身の勘を頼りに握りっぱなしだった呪具を振り下ろした。
頭と足がふらついて上手く立てない。こんなに肉体が追い詰められたの生まれて初めてだ。体はどこもかしこも穴だらけ、自発呼吸しているだけで奇跡のような状態だというのに生きてることに誰も褒めてはくれない。毒でも盛られていたのだろうか。拘束から抜け出してもなお体の中に残るアイツの術式が体内を巡る反転術式を食い漁り思うように止血できていない。この状況、一体どうやって打破したらよいのだろう。七海さんは未だ拘束されたまま下手に動けない状況だし、虎杖君が帰ってくる気配もない。となると唯一自由に動ける私が少しでも展開を明るい方向へと導かなければならないが生憎今も出血は続いてる。動きたくない。でも今私が動かなければ最悪皆全滅だ。
あー、目が痛い。腹も痛い。腕も、足も、背中も、口の中も。

「ハハッ、いいね。いいねぇ!他に縛られることで不完全さを美へと昇華するとは面白い魂だ。 今僕はアンタに触れたくて触れたくて仕方がないよ。ここで改造するのも惜しいな。そうだ!先に七三術師を差し向けよう。その後はアンタだ」

何笑ってんだコイツ。こっちは出血多量で身動きとるのもやっとだというのに上半身裸の上呑気に舌を出してかわいこぶりやがって。

「殺すぞ」
「殺すじゃなくて祓うだろ?」

お前相手には殺すであってるんだよ。

「みょうじさん止まりなさい。それ以上動くと死にますよ」
「…こっちはもう片足あの世に突っ込んでるんで、どうせ死ぬなら爪痕ぐらいしっかりのこしておかないと」

死ぬ前の空元気。最高にハイとはこの事か。
人は死が近いと急に元気になる。歩くのもやっとだった人が外を元気に走り回ったり、長年点滴生活だった人が脂身の多い肉を食べたいと言い出しぺろりと平らげたり、ホント寄りのウソだなと心の底で肩を竦めて呆れていた話が実は本当だったことを飛んでくる巨大化した腕を切断し実感する。空前の灯火。体が妙に軽く感じていても落ちた蜥蜴の尻尾のような体であることには変わりない。謎の力が働いて武器が強化されたわけでも、勝敗をひっくり返す力に目覚めたわけでもない。今のわたしにできることはせいぜい地面を抉りながら飛んでくる棘だらけの腕を鉈で切り落とすくらいだ。瞬きする暇もなく次々と襲いかかる攻撃を退け少しずつ七海さんとの距離を詰める。私が先に事切れても七海さんさえ助け出せればこちらに勝算があるかもしれない。振って、振って、力の限り呪具を振り続けた。しかし振った直後に生まれた隙を狙った卑劣な攻撃にここまでかと開きっぱなしだった瞼を閉じかけたその時、

「みょうじ!!」

空から降った希望の声に私は顔を上げる。攻撃が当たる寸前で虎杖君の拳が継ぎ接ぎ男に当たり命拾いした。殴られた衝撃で七海さんも拘束から抜け出し、それからは2人の見事なコンビネーションで反撃の隙を潰すように攻撃を畳み掛けた。どうかこのまま死んでくれないだろうか。体中の穴を塞ぎながら厚かましく体内に蔓延る呪力を自分の呪力で塗り替えていると不意に狭まった視界の端で笑う継ぎ接ぎ男になまえは鉈を手に走った。
嫌な予感しかしない。
滑り込むように二人の攻撃の隙間へ入り攻撃を仕掛けた。しかし気味の悪い笑顔に気づくのがほんの少し遅かった。パックリと顎を外す勢いで開かれた大きな口の中で赤ん坊よりも小さな手が複雑な印を結んでいる。
口の中へ広がる底なし沼に意識ごと引きずり込まれる寸前、七海さんが私を突き飛ばし庇うように前へ立ち塞がり結界の中へと呑み込まれた。すぐさま立ち上がり七海さんが飲み込まれた黒い結界を叩いた。質感は硝子に似ている。でも今の私のじゃ叩き破ることもできないだろう。

「くそっ、ナナミンが閉じ込められた!」

拳を打ち付け侵入を図る虎杖くんだが、彼の力を持ってさえも傷一つ入っていないとなると単純に力だけでの侵入は難しいのかもしれない。殴ってダメならどうすべきか…あっ、

「ねぇ虎杖くん。私の呪具折ってくれない?」
「いいけど…どうする気?」
「ガラスは殴るよりも先の尖った物で殴り付けた方が確実に割れるでしょ…殴ってダメなら別の方法を試してみよう。迷ってる暇ないよ」

あれと二人っきりなんて幾ら七海さんが強くても心配で仕方がない。早く助けないと手遅れになる。思いっきりやってくれ。膝を使わずパキンっと割れた鉈が一瞬だけ板チョコに見えたのは気の所為だろうか。虎杖くんから再度受け取ったボロの鉈を逆手に持つと思いっきり結界へと振り下ろし、走った亀裂目掛けて虎杖くんが拳を叩きつけた。ハラハラと崩れていく結晶の隙間から七海さんの姿を捉えるやいなや虎杖くんが危険を省みず飛び込んだその瞬間、青年はカッと目を見開き見えない力に左腕を切られ地に両膝をつけた。
どうかこれで終わりにして欲しい。割れた呪具が地面に落ちとうとう足の骨が解けたように座り込んでしまった。口に溜まった血を吐き出し嘔吐いている間にも戦闘はまだ続いており、トドメを刺しに距離を詰めた虎杖を真人は体を風船のように膨張させる。巨大化した体へ打ち込まれた打撃と呪力の2段構え。弾け飛ぶ肉片は紙吹雪のように辺りへ舞い、虎杖達の注意が肉片へ向けられている隙に真人は人型を捨て排水口へと逃げた。すかさず七海が仕留めに動いた。しかし真人の鼠のようなすばしっこさに躱され取り逃してしまった。
終わった?
七海さんがスマホを耳に誰かと会話しているが内容までは上手く聞き取れない。おかしいな。帳は上がっていくのに視界から光が消えていく。頭の奥で火花が散り、どこか焦げ臭い匂いがツンっと鼻を刺激する。体が大きくスイングし地面に倒れかかったところを虎杖くんが支えてくれたが、鼓膜が破けてしまったのか泣きそうな顔で何を私に伝えたいのか全然聞き取れないや。まだ感覚が辛うじて残る手で穴が空いた腹を擦る。体に残っていた不快な術式は血と共に吐き出したはずなのに拳大の風の通り道がちっとも塞がっていない。呪力どころか反転術式まで下手くそになってしまったのだろうか。とりあえずもう一ど反転術しきを構築しなおして…それから、…とりあえず虎どりくんを治りょうしてから、そのあと…ななみさ…

“みょうじさん”

順平くん?

「おっ、やっと起きたな」
「…っ!!あれ家入先っ!!!?」
「動かない方がいいよ。傷口は縫合して塞いだけど損傷した臓器の治りがイマイチ悪くてね」

あとは自分で治しな。
再会早々に仕事を放棄した家入になまえは苦笑いを浮かべながらも慎重に上体を起こし体の内側に気を回す。医務室…高専の医務室だ。白いシーツ、白い上掛け布団、酒がほんのり入りまじる消毒液の匂いに相変わらず眠れていなさそうな家入先生の隈。どのくらい私は眠っていたのだろう。穴が空いていたはずの腹部には何重にも包帯が巻かれそっと手を当てると不自然な陥没はどこにもなかった。グッと力を入れて押すと痛烈な痛みが神経を刺激したが意識が飛ぶほどではない。とはいえそれでも痛いものは痛い。倦怠感からして10時間ほど寝ていたのかと思ったが、まる2日意識が戻ってなかったと告げられ眼球がとび出そうになった。2日…寝すぎもいいところだ。
里桜高校の事件はどうなったのかと尋ねると家入先生は淡々と私が呑気に眠っている間に片付けられたと言う。

順平くんの母親、凪さんの遺体が特級呪物と共に発見され、回収した順平くんの遺体も合わせて丁重に埋葬された。校舎は半壊、しかし虎杖くんも七海さんも無事高専に帰還し傷も深くないと言う。体育館で倒れていた生徒も約1名を除きありふれた生活へと戻って言ったそうだ。吉野順平の死は伏せられ転校という形で葬られたことも知らずに。あの継ぎ接ぎ顔の青年について詳しい詳細は分からずじまいだが、彼の術式は魂を弄ることで人の肉体をベースに呪霊へと改造していたらしい。改造した肉体は反転術式を拒み生きている細胞すら再構築を拒んだ。変形したプラスチックを元の形に戻せないように、初めて自分の力が万能じゃないことを思い知った。私の術式は反転することによって触れた細胞の記憶を軸に傷を治す。もし私が他者の魂の形を捉え触れることができたら…いや、才能がない私にはそんな大層なことはできないだろう。

「先生、知ってますか?人の死体は生前の体重よりも21g軽くなって、その重さを魂の重さと呼ぶらしいですよ」

吉野順平くんの体、本当に21g軽くなったんです。私が21g軽くしたんです。階段を駆け上がり引き金を引く寸前、既に彼の命の灯火が消えかかっていたとしても、最後に吹き消したのは他でもない私だ。これから21gの重みを掛け算しながら呪い呪われて生きていかなければならないと思うと他人と深く関わり合うことが怖くて怖くてたまらない。顔を覆いボロボロと涙を零す私を家入先生は服が汚れることも気にせず丸めた体を抱きしめた。助けてください、助けてください。人生の救済を求める私に家入先生は何も語ってはくれない。ただ背中を優しく叩いて危険に飛び込んだ愚かな行為を咎めるだけ。

「自らを検体として師に差し出すその心構えは同業者として褒めてあげるけど、弟子を解剖するのは解釈違いだ。次同じ状態で運び込まれたら弟子クビにするから。もう心配かけさせるなよ」

しがみつき頭ごなしに叱られた子供のように泣き続ける私を家入先生は『お帰り』と背中を摩った。
どのくらい泣いていたんだろう。泣いてるうちに損傷部が完治したようで、体の痛みはすっかり消え去り巻かれていた包帯も今や厨二病を加速させる道具である。

「派手に濡らしてくれたな」
「……す、すみません」
「いいよ、気にしてないから」

私がびちょびちょに濡らした服を摘みながら家入先生は「飲みすぎて吐いた時の濡れ方に似ている」と謎の感想を呟く。高専の関係者ってホント変わった人ばかりだ。普通怒って当然なのに家入先生はむしろ「ウケる」と深夜テンションで笑っている。久しぶりに大泣きした。鼻をすすりながら受け取った水を飲んでいると着替え終わった家入先生が「さて、私からの説教はこれでおしまいだが、今日はどうする?」と尋ねた。

「ここで眠って過ごしてもらっても別に構わないけど、表向きは中級レベルの任務から帰還し大事をとって2日も医務室でサボってる問題児だ。動けるようになったなら一度友人に顔を見せてやってもいいんじゃないか?君が思ってる以上にアイツら心配してるってさ。あっ、これ伊地知からの情報だから」

その格好じゃどこにも行けないだろ?と買い替え必須の制服を着たままの私に家入先生は少し煙草臭い制服を渡し席を外した。これ誰の制服だろう。煙草に混じってちょっとだけ家入先生の匂いがするような。
今日は寮に帰って明日皆に会いに行くつもりだった。目も腫れてるし、会話する気力もまだ回復してないし、午後の授業を受ける気力など当然なかったから。けれど受け取った制服を着て寮に向かって歩いていたはずなのに、気づけば教室の前に立っていて扉の取っ手に手を掛けていた。起きたことだけ伝えて自室に帰ろう。伊地知さん情報だと心配されてたようだし。…こういう時ってどんな顔して教室に入ればいいんだろうか。そもそもなんて声をかける?当たり前のように教室の前扉に手を掛けてしまったがこういう時って後ろから入るのがマナーでは?そもそも今授業中じゃないか。ちょっと時間を空けてから会いに行った方が…そんなことをぐるぐると熟考し、扉の前で立ち止まっていると遠くから名前を呼ぶ声に私は首を捻った。2人だけかと思った。でも目を細めて数えるとしっかり4人と1体分が私に向かって手を振っている。釘崎さんの声が廊下に響く。

「心配かけさせんじゃないわよ!」

その優しさに生えた棘のある一言が私の晴れようのない鬱々とした気持ちを少しだけ軽くしてくれたような気がした。

「ただいま」


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