ーー色々と価値観が変わる音が聞こえた気がした。


今日から呉での視察が始まるーー…昨日は泊まって行けと言われたから泊まったのだけれど、何だか頭が痛い…孫権殿が気を遣ってくれて霞月ちゃんと同室なんだけど、霞月ちゃんに昨日の記憶がない、と素直に打ち明ければ…「…私からは何も言えねえだ」と何とも言えない表情で誤魔化されたのだけれど、本当に昨日何があったの…?練師殿と陸遜殿の私を見る目が少しばかり冷たいような気がするのは気のせい…?釈然としない気持ちのまま食事を終えれば、霞月ちゃんによる案内が始まる。畑が多いなあ…


「此処が私の畑だべっ!魯粛様と一緒に耕しただー!」
「はは、ほとんど霞月殿が耕していたではないか。俺は少し手伝っただけだ」
「霞月ちゃん、農民だったからねえ。畑がないのは落ち着かない?」
「…そういう訳じゃないけど、土を触ってると落ち着くだ」
「…そうだな、俺もたまには土を触っていたくなる。翠青殿は土いじりの経験はあるのですか?なかなかに良いものですよ」
「荀ケ殿の畑の収穫をお手伝いしたことはあるんですけど…土いじりはない、ですかね?」


荀ケ殿がやらせてくれなかった、はず。記憶を遡りながら言えば「翠青ちゃんは貴族だから仕方ねえだ。荀ケ様も過保護だし」と納得したように頷きながら言葉を紡げば、魯粛殿は「やはり貴族なのか…気品を感じると思っていた」と笑顔を浮かべながらそう言ってくれた。き、貴族なのは否定しないけど、気を遣わなくても良いですからね…!凄いのは私ではなくて先祖なんですから…!曇りなき眼で私を見ながら凄い凄いと言ってくる霞月ちゃんと魯粛殿に思わず赤面してしまう。だ、誰かこの二人を止め…「何をしているのですか?」…え?


「練師様!孫権様はご一緒ではないのですか?」
「常に孫権様のお側に居る訳ではありませんよ、霞月殿」
「いやあ、翠青殿のどことなく感じられる気品がやはり貴族であることだと判明しましてね、そこを偉ぶらない一面も素晴らしいと霞月殿と話していたのですよ」
「まあ…やはり貴族の方だったのですね。道理で礼儀作法がしっかりしていると思っておりました。珠華殿もそうなのですか?」
「珠華ちゃんは…うーん、色々と五月蝿いとは聞いていたけど、貴族なんて話は出てない気がするだ…翠青ちゃんは何か聞いたことある?」
「…うーん、忍者のことはそうそう話せないよっていつも誤魔化されちゃうからなあ…そんな大層な身分じゃないよ、とは言ってたけど…」


私の家出に対してもそんな気分もあるよね、なんて詳しく聞いて来ない珠華ちゃんを有り難く思いながらも、私や霞月ちゃんの親に対する愚痴なんかに入って来たことはなかったなあ、と改めて思う。…不仲、だったのかなあ…私や霞月ちゃんと話している時が一番楽しいって言ってた気がするし、あまり仲良くなかったのかも知れない。…だとしたら、私と霞月ちゃんで珠華ちゃんを幸せにしてあげないとね!別に馬岱殿が珠華ちゃんを幸せに出来ないって言いたい訳じゃないけど、私と霞月ちゃんと話してる時が一番楽しいって本人も言ってるんだし、私達が構い倒すのが正解だよね!


「…珠華殿はあまり仲良くなかったのかも知れませんな。たまに親子連れを見ては寂しそうな顔をしていたのを見たことがある」
「…言われてみればそうですね、蜀の方々は気付かないのでしょうか…気付かないのでしょうね。あの子は隠すのが上手いですから」
「…翠青ちゃんと一緒に珠華ちゃんも一緒に呉に来れば良いだ。私が二人を幸せにするだ!」
「…霞月ちゃんかっこいいこと言ってくれるねー。ふふ、幸せにして貰おうかな。勿論、珠華ちゃんもね!」
「任せて欲しいだ!…いっそのこと呉に完全に異動すれば良いべ」
「ほう…それは確かに良いかも知れんな。戦力的にも申し分ないし、戻ったら敵同士だ。まあ、すぐに決めろとは言わないが…考えてくれると俺も嬉しいですな」
「呉はいつでも歓迎しますよ。…珠華殿にも声を掛けないといけませんね、聞き入れてはくれないかも知れませんが…話す価値はあるでしょう。早速孫権様に蜀に話をしに行く許可を得なくては」
「え、そ、そんなに急がなくても良いのでは…?」
「何を言っているのですか。私達は翠青殿、貴女を心から引き入れたいと思っています。ただ引き入れたいと勧誘するだけなら猿でも出来ます。私達は貴女が居心地の良い場所を作らねばいきません。だとしたら…翠青殿が好意を抱いている人も勧誘するのが筋というものです」
「…練師様、勢いが凄いべ」
「はっはっは、これはこれは翠青殿は練師殿に偉く気に入られたようですな。彼女はなかなかに頭がキレますので覚悟を決めた方が良いかも知れませんなあ」
「…簡単に言わないで下さいよぅ…」


私、そこまで練師殿に気に入られるようなことしてないと思うんだけど…何をしたのかな。今朝はどことなく冷たかった気がするけど、気のせいだったのかな…?そう首を傾げていた私だけど練師殿が「あの酒癖を何とかして治さなければ…」と呟いていたのを聞き逃したりはしなかった。…私、そんなに酒癖悪いのかな?自分じゃ全く分からないから、やっぱり霞月ちゃん……は教えてくれなかったから珠華ちゃんに聞いてみようかな。それでは失礼しますね、と綺麗に頭を下げて去って行った練師殿と入れ替わるように本を抱えた陸遜殿と朱然殿が近付いて来た。私達に気付いた陸遜殿は綺麗に笑いながら頭を下げ、朱然殿は大量の本を片手に移動して手を振って来た。やっぱり殿方は違うなあ…


「よっ、気分はどうだ?」
「こんにちは、朱然殿。気分ですか?そうですね…少し、頭が痛いくらいでしょうか」
「あー、まあ、あれほど呑んだらなあ…」
「朱然殿、呂蒙殿の本をそんなにぞんざいに扱わないで下さい。…しかし、良い場所で出会いました。この本は呂蒙殿から是非翠青殿にと持たされた本でして。お届けに行こうと思っていたのですよ」
「まあ、そうだったのですか?それはわざわざ有り難うございます!」
「翠青ちゃんの部屋は私と一緒ですので、いつもの場所に置いてくれたら運びますだ……よ!」
「いやいや、これは結構重いぜ?霞月には無理だろ、腕細いし」
「女人の部屋に入るのは如何なものだとは思うが…本は意外と重いですからな。此処は陸遜殿と朱然殿に任せた方が良いかも知れませんな」
「魯粛殿の言う通りです、此処は私達にお任せ下さい。明日からは本格的に火計について学ぶ訳ですし、今日はのんびりとしていて頂きたいですからね」
「むっ、私だって本くらい持てるのに…!」
「そんなに拗ねんなって。お前の祭壇には絶対触らないからな」
「当たり前だべ、数ミリでも場所がズレてたら許さないだ」
「霞月ちゃん、顔顔!!…ええと、お気遣い有り難うございます。宜しくお願い致します」


ぺこりと頭を下げながら言えば、陸遜殿と朱然殿は優しく笑いながら本を運んで行った。や、優し過ぎない…?優しいといえば、あの大量の本を用意してくれた呂蒙殿もだ。ちょっとしか題名が見えなかったけど、あれは火計と泳ぐのも得意な私の為に水中での動き方の指南書もあった気がする。更に言えば、あの本は最近発売されたばかりのはず。呉に私みたいに泳ぎが得意な人が居るとは聞いたことがないしーー…わざわざ、用意してくれたのだろうか。以前、戦場で奇襲を仕掛けた私の為に。まあ、見事に突破されたんだけどねぇ…


「霞月ちゃん、呂蒙殿の居場所って分かる?お礼を言いたいんだけど…」
「えーっと…」
「朝言っていたではないか…呂蒙殿は凌統殿と甘寧殿と一緒に蜀に向かっていますよ。何でも諸葛亮殿と碁を打つのだとか」
「諸葛亮殿と碁、ですか?…息が詰まりそう…」
「全くだべ…諸葛亮様は何か雰囲気が恐ろしいだ…」
「はっはっは、2人とも素直ですなあ。まあ、碁を打ちながら作戦でも練るんでしょうなぁ、凌統殿と甘寧殿はどちらかと言えば着いて行きたくなかったみたいですが…まあ、あの2人は呂蒙殿の生徒ですからなぁ…」
「あー…それじゃあ着いて行かない、なんて選択肢はなかなか出来ないですよね…」
「…ほんのちょっとだけ同情しますだ」
「ほんのちょっとだけなの?」
「爪の甘皮ぐらいだべ!」
「霞月ちゃん!?」
「はっはっは、霞月殿は相変わらず凌統殿と甘寧殿に手厳しいなあ」


むん、と頬を膨らましながらの発言にびっくりしていれば、魯粛殿は楽しそうに朗らかに笑いながら霞月ちゃんを優しい瞳で見つめている。い、いつものことなのかな…?一応上司だよね…?会話はしたことないけど、多分恨まれてるだろうなあ、なんて思ってしまう。奇襲を仕掛けた時に甘寧殿の手拭いを燃やしちゃったし…まあ、不可抗力なんだけどね!あの時は敵だったし…なんて記憶を遡っていれば、私は結構呉の人達に対してやらかしていたなあ、なんて…こうやって受け入れて貰えるなんて有り得ないくらいに奇襲掛けたし…お人好しの集まりかな?


「…魯粛殿にも奇襲、掛けたことありますよね。私を恨んではいないのですか…?」
「恨み、ですか?…いやあ、あの奇襲は実に見事でした。女人だと言うのに単騎で来たと思えばまさかの囮でしたからなぁ…郭嘉殿と荀ケ殿の策にも騙されました」
「囮!?翠青ちゃん、無理矢理させられてるんじゃ…!?」
「無理矢理じゃないよ?!私が自ら志願したんだもの」
「!?危ねぇだ!」
「ええ…最初は敵だったんだし、霞月ちゃん以外とは知り合いじゃなかった私が囮になるのは当たり前じゃない…?」
「当たり前じゃねえだ!!何でそんなに危ねえことさせるだ!!」
「それが戦というものだからなあ、受け入れるしかないのだ」
「うー…!」


魯粛殿の言葉に、霞月ちゃんは拗ねたような表情を浮かべながら私に抱き付いて来た。…元々戦とは関係ない村人だったからなあ、この反応も仕方ないんだよね。ポンポンと背中を撫でれば、いくらか震えていたのが収まったみたい。…霞月ちゃんは、優しいからなあ。それを理解している魯粛殿もまた困ったように笑い「霞月殿にはまだ早かったかも知れませんなあ」なんて言いながら優しく頭を撫でる。…出来れば、戦に関わって欲しくないと願ってしまうのは私のエゴなんだろうか。このまま純粋でいて欲しいけれど、大喬殿の為に戦うのだと決めているのだから成長しなければいけないのは確か。…悩ましいなあ…


「…まあ、俺としても女人を囮にする策はどうかと思ったがな。無論、それが一番有効だったのも理解出来ます。しかし、どうしても受け入れることが出来ないのですよ」
「…それが、呉の人達が私を受け入れてくれる理由になりますか?」
「我々は翠青殿の武力にも迅速な火計の手配にも心の底から驚かされ、惚れ込みましたからなぁ。いつも勧誘される立場でしたし、たまには勧誘する立場も面白そうですからな」
「…私は、翠青ちゃんに危ない真似はして欲しくねぇだ。勿論、珠華ちゃんにも。けど、それが戦だって理解はしてるつもりだべ…だから、せめて…私が助けに行ける距離でやってて欲しいだ…」
「…霞月ちゃん…」
「霞月殿には軍人としては決定的な欠点として甘さがありますが…我々はそれを矯正しようとは思っていない。その甘さが霞月殿の魅力であり、強さの秘訣ですからなあ。誰かの為に力を使う、そのことに関してなら霞月殿の右に出る者はいない…それは友人である翠青殿が一番理解しておられるのでは?」
「…そう、ですね。霞月ちゃんの大喬殿の為に振るう力には目を見張るものがあります。彼女の力は、大事な人を守ることに特化していますから」
「ええ、その通り。だからこそ、我々は霞月殿の大切な人である翠青殿、貴女を引き入れたいと思っています。この孫呉にあの奇襲を評価しない者は居ないので……覚悟、しておいた方が宜しいかも知れませんなあ」
「…肝に銘じておきます」


私の言葉に魯粛殿は朗らかに笑いながら軽く私の頭を撫で、話は終わりだと言わんばかりに霞月ちゃんの肩を叩いてから案内に戻る。…まさか、そんな風に思われてるなんて思っていなかった。まあ、呉の人達が霞月ちゃんに甘いのはどことなく気付いていたけど、霞月ちゃんが信頼している私や珠華ちゃんにも甘いなんて思っていなかったなあ。…確かに、あの奇襲を囮だと気付いた呂蒙殿が凄い顔をしていたのを今更ながら思い出す。あれは殿の摘み食いを叱っている夏侯惇殿に匹敵するぐらいの迫力だった…ええと、話が逸れた気がする。まあ、そんな人達の為に力を振るうのも悪くないかも知れない、なんて思いながら私は手を引いてくれる霞月ちゃんの後を着いて行ったーー…

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