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 入学式の日、寮の部屋へ向かう道で譲葉は彼と出会った。

 「貴方、祓魔師になる気はありませんか?」
 「……ありませんが」

 その時、譲葉は廊下を歩いていたテリアっぽい犬に突然意味の分からない勧誘をされた。
 混乱しながらもなんとか返事をした譲葉だったが、その邂逅こそが後の譲葉の人生を左右したのだから、人生とは小説より奇なりと言われるだけあった。
 閑話休題。
 まず犬が喋っていることについて驚けと思うだろうが、そこについての驚きは譲葉には正直なかった。幼い頃に化け物に襲われてからというもの、日頃変な生き物を見かけるようになり、それらが喋るところを見てきたからだ。
 だからこそ今、譲葉が驚いているのは発言内容の方である。

 「おや、何故です?」
 「逆になんでなると思ってはるんか分かりません」
 「そうですか。素質はあると思うんですが。今の時点でも、ある程度の悪魔は退けられているようですし」

 そう言いながら、ちらと黒い目が見上げてくる。
 犬は好きだけれど、この無垢や純粋さからはかけ離れた眼差しに可愛いという気持ちは起こらなかった。

 「考えたこともないので」
 「では、是非ともご一考ください。貴方にとっても、この話は決して悪いものではありません」
 「どういう意味です?」
 「さあ、分かりません。どういう意味でしょうね?」

 フフフ、と笑うテリア犬に顔が歪む。
 完全に遊ばれている。手玉に取られている。優位に立たれている。初対面の犬に。
 けれど、犬の纏う雰囲気は強い者のそれだった。
 逆らって得することがないと分かれば、従う他ない。はぁ、と小さなため息が漏れた。

 「頭の隅に留めておきます」

 それだけを言って、譲葉はいまだにこちらを見上げてきている犬を視界から外し、その場を去るために踵を返す。
 その背に向かって、犬の歌うような声がかけられる。

 「それで構いません。もし祓魔師になる決心をなさったら、祓魔塾塾長であるメフィスト・フェレスまでご報告ください。それでは、そのいつかの日をお待ちしておりますよ」



□□□□□


 「ど、どうしよう」

 迷子になっちゃった、と辺りをきょろきょろと見回しながら途方に暮れていたのは、最近祓魔塾生になったばかりの杜山しえみだった。
 正十字学園がある町はとても多くの施設や店が存在する。生粋の箱入り娘であるしえみにとってそれらは全て物珍しいもので、興味が引かれるままにふらふらと歩いていたら、いつの間にか大通りを外れて帰り道を見失ってしまったのだ。
 薄暗い裏路地はどことなく嫌な雰囲気がした。
 そして、その予感が間違いでなかったことをしえみはすぐに理解した。

 「あ、悪魔!」

 建物の影から抜け出るように現れたのは鋭い牙を持った悪魔だった。それは硬直するしえみを見て愉快気にニヤつく。寸暇を与えず、青ざめたしえみの血肉を喰らおうと飛びかかった。
 それに恐怖で足がすくんでしまったしえみは逃げられない。

 ──助けて燐っ、雪ちゃん!

 遅いくる苦痛を覚悟して思わず目を瞑ったしえみは、その時、体にかかる風を感じた。

 「ギュエッァ!!」
 「…え?」

 聞こえてきたのは悪魔の悲鳴。
 何が起きたのかとしえみは固く瞑っていた目を開ける。

 目の前にあったのは制服姿の背中だった。
 何かを蹴り飛ばしたように高く上げていた片脚がゆっくりと降ろされると、ずっと前を向いていた頭が僅かにこちらを振り返る。

 ─男の子…?

 深い樹液色の眼差しがしえみを捉える。

 「大丈夫?」

 ─違う。女の子だ。

 襲いかかってきた悪魔を寸でのところで蹴り飛ばし、しえみを守ってくれたのは正十字学園の制服を着た長身の女の子だった。
 髪がとても短くて一瞬男の子かと思ったが、透き通るようなアルトと視界に入ってきたスカートに女の子であると気づく。
 混乱冷めやらぬまま、自分を助けてくれた女の子の言葉にしえみはなんとか頷いた。

 「ギギギ…」

 悪魔は蹴られただけだとは思えない苦しみ方で身悶えている。すぐにまた襲いかかってくる様子には見えない。
 しえみが自分の問いかけに頷いたことを確認した女の子は悪魔に視線を戻し、しえみを後ろに庇ったまま身につけていたボディバッグから短刀を取り出した。そして、鞘から抜いたそれの切っ先を悪魔に向かって突きつける。

 「祓い給え」
 
 女の子がそう呟き、バッグについていたストラップの鈴を振った瞬間、短刀の柄から切っ先へと一筋の光が過ぎ去る。
 途端、女の子から向けられる戦意に、弱っていたはずの悪魔の目が吊り上がった。

 「女に手ぇ出しとんちゃうぞ」

 その一言と共に、女の子が再び敵意を剥き出しにして襲いかかってこようとした悪魔を手にした短刀で切りつけた。刃渡りが短いはずの短刀は向かってくるそれを真っ二つに切り裂いた。体を半分にされた悪魔は、女の金切り声のような断末魔を上げて消え去った。

 同時に、短刀に伝っていた光が消える。
 ふう、と女の子が息を吐いた音に今までの戦闘に見入っていた意識が戻る。

 「あ、あの、ありがとうございますっ!」

 抜き身を鞘に収めながらこちらを振り返った女の子に思い切り頭を下げる。
 低級の悪魔だったとはいえ、あのまま女の子が助けてくれなければ、最悪の場合、しえみは大怪我をしていてもおかしくはなかった。

 「偶然通りがかっただけや。間に合ってよかったわ」
 「ほ、本当にありがとうございました。あ、あの、貴女は祓魔塾の先輩ですか…?」

 悪魔を追い払ったのだから、きっとそうなのだろうと問いかける。
 しかし予想に反し、女の子は怪訝な顔をした。

 「祓魔塾? まあ、高等部の一年生やから、君がそれより下の学年やったら先輩やろな」
 「あっ、違ったんだ…」

 それじゃあ、どうしてあんな…? と内心首を傾げたしえみだったが、すぐにハッと我に返る。

 「えと…一年生なら同い年、だね。あの、私…杜山しえみっていいます! 実は私、迷子になっちゃって、不安で、どうしようって思ってた時に悪魔に遭っちゃったから、凄くびっくりして……あなたが助けてくれなかったらどうなってたか…」

 本当に、どうなっていたか分からない。
 今のしえみに悪魔を祓う力などない。聖水を持っていたらまた話は変わっただろうが、それさえも持ち合わせていなかったのでは結果は簡単に予想できた。

 「だから、助けてくれて本当にありがとうございました!」
 「ん、怪我がないようで良かったわ。…これからもまだ用事あるん?」
 「え? は、はい。もうちょっと見て回りたいかなって」
 「そうか。ほな、さっきみたいなことがまたあったらあかんし、大通りに出るまでついてったろか?」
 「え、ええっ、いいの…!? で、でもあなたにも何か用事があるんじゃ」

 願ってもない申し出だが、迷惑をかけるのも心苦しい。それに、恩人とはいえ、人見知りのきらいがあるしえみに初対面の人と長く一緒にいるのは中々の挑戦だ。

 「いや、私はもう終わっとる。今日はこれからやることないし、気にせんでええよ。こういう暗い路地裏にはああいう変なやつがようけおるし、また襲われてもあかんやろ」
 「た、確かに。でもえっと……でも」

 しえみの頭の中で天秤が揺れ動く。

 (初めて話す人だしちょっと恥ずかしいな。でも、また襲われたら今度こそ危ないかも。それにやっぱり迷惑じゃ…? でも、何かあったら私には何もできないし……助けて雪ちゃん。…あ、)

 そういえば、さっき雪男を心の中で呼んだ時に助けに来てくれたのはこの人だった。

 「………………うぅ、よろしくお願いします」
 「うん」

 事もなげに微笑んでくれた女の子に、しえみは顔が赤くなるのが分かった。






 あれから数分後、しえみが迷い込んだ路地裏は思ったよりも大通りに近かったらしく、すぐに戻ることができた。
 何故そんな所に譲葉もいたのかというとただの偶然である。あの時、譲葉は大通り以外の場所で構えている店はあるのだろうかと純粋な好奇心で散策していた。大したものがないと分かり、帰ろうとした時に偶然襲われているしえみの存在に気がついたのである。

 「あ、あの、ありがとう。あなたのおかげで無事に戻ってこれたよ」
 「いや、うちも楽しかったから」

 ここからならもう安全だろうと手を振ろうとすると、あのね…! としえみが話しかけてきた。

 「私は杜山しえみ! その、嫌じゃなかったらあなたの名前も教えてください!」
 「…うちの名前は譲葉、木暮譲葉や」
 「あ、ありがとう…!!」

 名前を教えた途端に輝く笑顔を浮かべたしえみに驚く。彼女の頬はピンク色に染まり、目はうるりと潤んでいる。
 そんなに嬉しいのか。
 今まで自分の周りにいなかったタイプの感情表現をするしえみに譲葉は戸惑った。

 「ゆずりはちゃんかあ。ゆずちゃんって呼んでいい?」

 こんなキラキラした目で見られて断れる人間が如何ほどいるというのだろう。
 ええよ、と頷く。そして目を見開いた。

 ──破顔。

 先程までのそれとは少し異なる満開の花のようなそれに、唖然とした気持ちでその顔を見つめる。

 「良かった…! 私のこともしえみでいいよ。ゆずちゃん、また会えたらお話いっぱいしようね。さようなら!」
 「あ、うん。さよなら……しえみちゃん」

 振られる手に振り返す。ふふふ、と嬉しそうにくるりとこちらに向けられた背中に、思わずほぅと息をついた。いつの間にか少し息を詰めていたらしい。
 純粋な笑顔というのは、ああいうのを言うのだろうか。裏も表もない好意を真正面から向けられるのはとても気恥ずかしかった。

 「〜〜〜〜♪」

 余程嬉しいのか、しえみは歌っているようだ。足取りが軽やかなのが後ろからでも見てとれた。

 (…………なんか)

 しえみを襲っていた何かを渾身の力で蹴り飛ばした時、えも言われぬ痺れが背筋から脳髄を掛け登った。悪魔を切り裂いた瞬間には、霞を裂くような手応えのなさに物足りなさを感じた。
 今まで感じたことのなかった感覚だった。
 そして何より。

 ──あ、あの、ありがとうございますっ!

 振り返った先にあった、安堵して思わず浮かべてしまったというような笑顔を見た時の、枯れて干上がった大地を潤すように胸に広がった高揚感を思い出す。
 あれは、きっと──幸福感だった。
 あの余韻に浸りながら、きつく拳を握りしめる。

 「祓魔師か」

 ──貴方、祓魔師になる気はありませんか?

 「……ひ、ふ、み、よ、い、む、なな、や、ここのたり」

 遠くなっていく小さな背中について行こうとしていた白い影を見据える。
 ビクリと肩の部分を震わせた"それ"から目を離さずに口ずさみ続ける。

 「ふるべ、ゆらゆらと」

 風に揺らめく火のように白い"それ"の輪郭がブレだし、

 「ふるべ」

 言葉を言い切ったと共にふっと掻き消えた。
 暫く無言のまま白い影がいた所を見つめ、新しくできた友達が去っていった方向に顔を向ける。もうあの背中は見えない。
 擦り寄ってくる小さな黒いものを弾きさえせず、譲葉はそれからかなり長い間、そこで立ち尽くしていた。

 「…………」
 
 夕陽が完全に落ちきる前、譲葉はずっと下を向いていた顔を上げ、校舎の方へ踏み出した。
 その足取りに、欠片の迷いもなかった。





 重厚な扉の先にいたのは道化師のような雰囲気を纏った男だった。
 男はにんまりと笑みを浮かべ、部屋に入ってきた譲葉を椅子に座ったまま迎える。
 そこは学園長室。そして目の前の男はその部屋の主、正十字学園理事長であるメフィスト・フェレスだった。

 「やはり、いらっしゃいましたね」
 「はい」

 扉の前に立ちどまり、胡散臭い笑みを崩さないメフィストを見据える。

 「──祓魔師になりたいです」
 「ふふ、素晴らしい! では」

 譲葉の宣言にうるさいぐらいに大袈裟にそう叫んだ後、メフィストは理事長席から仰々しく立ち上がり、譲葉をその胸に迎えるかのように両腕を大きく広げた。

 「正十字騎士團日本支部長にて祓魔塾の理事長たるこのメフィスト・フェレスが、正十字学園高等部一年、木暮譲葉の明日からの祓魔塾への編入を今この場をもって承認致します!」

 メフィストの吊り上がった口の端から鋭い牙が覗く。

 「…是非とも、強く賢く、頼もしい祓魔師に成長して下さることを期待しておりますよ」

 その瞬間、譲葉の祓魔塾への所属が決まったのである。





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志摩達に出会った日の放課後