そして、約束の木曜日。
私は待ち合わせ場所へ向かう電車の中で、何度もスマートフォンを確認していた。今日の予定は、前から気になっていた店で昼食を食べて、そのあと少し買い物をする。それだけの、いつもと変わらない予定だ。けれど、私にとっては少しだけ特別だった。
今日は、ちゃんと伝えようと思っている。
千切さんのことが好きだということ。そして、私も千切さんと一緒にいたいと思っていることを。
ただ、その先のことまで考えると、少しだけ怖かった。
千切さんはこれからもイギリスでサッカーを続ける。私は日本で今の仕事を続けたい。好きだから付き合う――それだけで、簡単に決めてしまっていいことなのか、ずっと考えていた。
待ち合わせ場所に着くと、千切さんはまだ来ていなかった。私は柱の近くで立ったまま、何度も深呼吸をする。大丈夫。いつも通り話せばいい。そう思ったところで、背後から聞き慣れた声がした。
「ミョウジさん」
「ひゃっ」
考え事をしていたからか、いつも以上に驚いて大きな声が出る。振り返ると、千切さんが不思議そうな顔をしていた。
「声、デッカ」
「だって、全然気づかなかったので……」
「何考えてたの?」
「…………内緒です」
「また?」
千切さんが笑う。その顔を見た瞬間、さっきまで張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。
「じゃ、行こ」
「はい」
並んで歩き出す。店に着いて、料理を食べて、他愛のない話をする。千切さんがイギリスで買った服の話をしたり、私が仕事で最近あったことを話したり。いつもと変わらない時間なのに、今日はどうしても落ち着かなかった。
「ミョウジさん」
「はい?」
「今日なんか変じゃない?」
「えっ」
「さっきから何回も俺のこと見てる」
「……」
私がわかりやすいのはそうなんだけど、千切さんはこういうところが鋭いので、すぐに見透かされてしまう。
「そんなに見られると、さすがに気になるんだけど」
「す、すみません」
「謝ることがあんの?」
「いや、その……」
ここで言えばいい。そう思ったのに、口から出てきたのは別の言葉だった。
「……千切さんって九州出身なんですよね。そっちに帰省することはないんですか?」
「あるよ。今度一緒に行く?」
「ええ!?」
「あれ、そういう誘いかと思った」
「そ、そこまで面の皮厚くないですよ」
「ふは、分かってる」
千切さんが笑う。その横顔を見ながら、私は小さく息を吐いた。やっぱり、今日言いたい。イギリスへ戻ってしまう前に、ちゃんと伝えたい。
店を出てからも、しばらくはいつも通り歩いた。駅へ向かっていると思っていたけれど、千切さんは途中で大通りを外れ、駅前とは反対側の細い道へ入っていった。
「……こっちで合ってます?」
「うん。ちょっとこっち通ろう」
そう言われてついていく。少し歩くと、さっきまで聞こえていた人の話し声や車の音が遠ざかっていった。住宅街の中にある小さな公園の前で、千切さんがようやく足を緩める。人影はほとんどない。
私もその隣で立ち止まった。
「……千切さん」
「ん?」
「私、話したいことがあって」
「うん」
千切さんも足を止めて、こちらを見る。きっと、さっきの店で私が話を逸らしたことは、気付かないふりをしてくれたのだと思う。
その視線は真っ直ぐで、逃げ場がないように感じた。口の中が乾いて、手のひらが汗ばんでいく。
私は一度だけ息を吸ってから、その瞳を同じように真っ直ぐ見つめ返した。
「私、千切さんのことが好きです」
声は少し震えていたけれど、それでもちゃんと伝えられた。千切さんは驚く様子はなく、その後に続く私の言葉を何も言わずに待ってくれていた。
「前は、自分でもよく分かってなくて……千切さんに会えるのが嬉しくて、連絡が来るのも嬉しくて。でも、それが好きってことなのか、ずっと分からなかったんです」
少し恥ずかしくなって、視線を落とす。言葉を紡ぐ唇が緊張で強張っていく。
「でも、最近やっと分かりました。私、千切さんに会いたいんです。もっと一緒にいたいし、もっと千切さんのことを知りたい」
ここまで言って、胸の奥がきゅっと狭くなる。
「だから……私も、千切さんとお付き合いできたらいいなって思っています」
千切さんは、しばらく黙っていた。それから、ふっと表情を緩める。
「……うん、知ってた」
「えっ」
「最近、分かりやすかったし」
「……やっぱり」
恥ずかしくなって俯くと、千切さんが小さく笑った。
「でも、俺に言いたいことって、それだけじゃないよな?」
やっぱり、千切さんには何もかもお見通しだったみたいだ。こくり、と俯いたまま頷く。
今日、この言葉を伝えるまでに、私なりに何度も何度も考えた。
靴先に落としていた視線を、ゆっくりと千切さんへ向ける。バッグのショルダーを掴む手に力がこもった。ひんやりとしていた感触は、手のひらの熱ですぐにぬるくなっていく。
「私、ひとつだけ……まだ、すぐには決められないことがあります」
「うん」
「付き合うことが嫌なわけじゃないです。むしろ……千切さんと恋人になれたらって、思っています」
「……大丈夫。伝わってる」
有耶無耶にしてしまっても、よかったのかもしれない。
けれど、いつだって真っ直ぐに想いを伝えてくれた千切さんにだけは、誤魔化したくなかった。
格好よく取り繕うことも、都合のいい言葉を選ぶこともせずに。
今の私に言える、飾り気のない気持ちを、そのまま渡したかった。
「でも、千切さんはこれからも海外で生活するんですよね。私は日本で仕事をしていて……今の仕事も好きです。だから、付き合ったら遠距離になると思うし、実際に始めてみてから、私が寂しくなったり、仕事との両立ができなくなったりする可能性もあると思うんです」
自分でも、何を言っているんだろうと思う。好きなら付き合えばいい。普通なら、それで終わる話なのかもしれない。でも、私は千切さんを好きだからこそ、適当に始めたくなかった。
「私が大丈夫だと思って始めても、後からやっぱり無理だったってなったら……千切さんを傷つけてしまうかもしれない。それが怖いんです」
「……付き合うのが怖い?」
私は首を横に振った。今から言うことは、ずるいかもしれない。だけど、それが等身大の自分の言葉だった。
今まで、新しい環境へ飛び込んでいくことに怖さを感じたことはなかった。寂しさよりも、好奇心のほうが勝っていた。
なのに、千切さんとのことになると、どうしても怖かった。自分が寂しさに耐えられなくなって、すり減ってしまうこと。そして、その結果、千切さんまで傷つけてしまうことが。
言葉を詰まらせながらも、その思いを包み隠さず伝えた。
千切さんは視線を右上へ向け、数秒間何も言わなかった。短い沈黙のあと、静かに私を見て、「そっか」とだけ言った。
そこに呆れや、怒りはなく、いつもの冷静な千切さんがいる。そのことに、ほっと安心したのもつかの間、次に千切さんが口にした言葉に、私は思わず顔を上げた。
「じゃあ、結婚する?」
「……え?」
「結婚」
「け、結婚……!?」
「うん」
結婚……? けっこん? ケッコン……?
あまりにも普通の顔で言うので、私の聞き間違いか冗談なのかと思った。でも、千切さんはこういう冗談を言う人ではない。
私の心中を察したのか、「言っとくけど、適当に言ってるわけじゃないから」と付け足される。
「付き合ってみて、やっぱり無理でしたってなるのが怖いなら、最初からその先まで考えればいいじゃん」
「……」
「俺はミョウジさんと一緒にいたいと思ってるから。遠距離になることも、ミョウジさんが仕事を続けたいことも分かってて、好きになったし」
胸の奥が、じわりと熱くなった。鼻の奥もツン、と痛んで、気を抜いたら泣いてしまいそうだった。
「そ、そんなのってプロポーズみたいじゃないですか」
「……みたいじゃなくて、プロポーズなんだけど」
そう言いながら、千切さんは優しく私の頭を撫でた。こんな風に触れられるのは、初めてだった。
ここまでくるともう我慢の限界で、視界がぐにゃりと歪む。
ほろり、と生ぬるい水滴がとうとう頬を伝う。それを見られたくなくて俯いた瞬間、千切さんにそっと胸元へ引き寄せられた。
「……す、好きです、千切さん」
「うん」
「だからこそ、もう少し考えさせてください」
「うん」
「でも、それは迷ってるというよりは……ちゃんと真剣に考える期間が欲しい、という意味です」
「分かってる」
「……待っててくれますか?」
「うん、待ってる」
「……はい」
千切さんの声は、ずっと優しかった。決断力があって、判断が早い千切さん。そんな千切さんが、弱腰になっている私の気持ちも汲んで、待ってくれている。
そして何より、私の仕事も、私の生活も、私が大切にしてきたものも、全部ひっくるめて考えてくれていることが嬉しかった。
私はまだ、この人とどんな未来を作れるのか分からない。だからこそ、これからちゃんと考えていきたいと思った。
千切さんがイギリスへ戻ってから、数日が経った。
帰国前と変わらず、メッセージは毎日のように届く。
『着いた』
『お疲れ様でした! ちゃんと寝てくださいね』
そんな、いつもと変わらないやり取り。けれど、私の中ではほんの少しだけ、何かが変わり始めていた。
あの日、千切さんに「結婚する?」と言われてから、何度も自分に問いかけている。
千切さんと一緒にいたい。
その気持ちに、もう迷いはなかった。でも、それだけで今まで積み重ねてきた生活を全部手放してしまっていいのかは、まだ分からない。
私は、今の仕事が好きだ。お客様と話して、その人の新しい暮らしを想像して、たくさんの部屋の中から「ここなら」と思える一軒を探す。その時間が好きだった。千切さんに出会えたのだって、この仕事をしていたからこそだ。
――だったら。
「……もうちょっと、あがいてみようかな」
ぽつりと呟いて、パソコンを開く。検索欄に打ち込んだのは、今までの自分なら絶対に調べなかったであろう言葉だった。
――海外 不動産 仕事。
ずらりと並ぶ検索結果を眺めているだけで、なんだか胸がざわつく。英語。海外で働くこと。そもそも私は、外国で暮らした経験なんて一度もない。
「……無理無理」
思わず呟いて、画面を閉じようとした。けれど、そこで指が止まる。無理だと思ったからって、私は今まで何かを諦めてきただろうか。新しい学校。新しい土地。新しい家。小さい頃から、何度も経験してきたことだ。
知らない場所へ行くたびに、最初は少しだけ怖かった。それでも「そこにはどんな景色があるんだろう」「どんな人と出会えるんだろう」と胸を躍らせる気持ちのほうが、いつも勝っていた。
「……私、やっぱり好奇心の方が強い」
自分に言い聞かせるように呟いて、小さく笑う。
少しずつ、道が開けてくる気がした。今回だって、やってみてもいいんじゃないだろうか。私はもう一度、画面を開き、今度はもう閉じなかった。海外の不動産事情を調べて、必要な資格や条件を確認する。ロンドンの求人情報にも目を通してみる。
案の定、画面は英語ばかりで、途中で何度も心が折れそうになった。
「……全然分かんない」
それでも、知らない単語をひとつずつ調べる。未知のことばかりだ。だからこそ、少しだけ面白かった。気づけば、時計の針はとうに日付を跨いでいた。
ようやくパソコンを閉じ、シャワーを済ませ、スマートフォンを開くと千切さんからのメッセージが届いていた。
『まだ起きてる?』
『起きてます!』
すぐに返信すると、ほんの数秒で既読がついた。
『珍しいじゃん。夜更かし?』
『ちょっと新しいことを調べてました』
『なに?』
指がピタリと止まる。千切さんに相談したいな、なんて少しは考えたけど、ふるふると頭を振ってその思考を拭った。――まだ、言わないでおこう。
これは、私自身がどう生きたいかを考えるためのものだから。
『千切豹馬のインタビュー集です』
そう送ると、間髪入れずに返信が来る。
『やめろ』
思わずクスッと笑ってしまった。
『嘘です、それはとっくの昔に読みました』
『最悪』
私がまた話を逸らしたことを、多分千切さんはわかっている。それ以上は追及してこないところが、いかにも千切さんらしかった。
スマートフォンを胸元に抱え、天井を見上げる。まだ、何も決まっていない。千切さんと結婚するのかも。イギリスへ渡るのかも。今の仕事を形を変えて続けるのかも。
知らない場所へ行くことを「怖い」と思うだけで終わらせたくはなかった。
「……やってみよう」
暗闇の中で静かに呟き、目を閉じる。
それは、千切さんとの未来を選ぶための一歩でもあり、自分自身の未来を踏み出すための、小さな一歩だった。
それから、季節は少しずつ秋へと移っていった。
仕事をしながら英語を勉強して、休日には海外の求人を眺める。そんな日々を過ごしているうちに、私の中でも少しずつ答えが形になっていった。
「ミョウジさん」
「はい?」
「……なんか、寂しくなりますね」
「え?」
「いえ、なんとなく。ミョウジさん、いつか遠くに行っちゃいそうな気がして」
冗談めかして笑う佐藤ちゃんに、私は曖昧に笑い返した。
「……どうなるかなぁ」