次に千切さんから連絡が来たのは、翌日の朝だった。
昨晩の余韻が抜けていない頭は、ぽやぽやとしていて、初めてお酒を飲んだ日のことを彷彿とさせる。
通知の中に、すっかり見慣れた名前が並んでいた。心音が少しずつ大きくなるのを感じながら、メッセージを確認すると『次、いつ空いている?』と次のお誘いが来ていた。
今日は会社が休みだし、なんの用事もない休日だ。とはいえ、昨日会ったばかりなのにその翌日を提案するのは気も引けた。千切さんだって、帰国で会いたい人も行きたい場所も沢山あるだろうし。
『仕事終わりでよければ、大体空いてます』と返してから、もう一度ベッドの上で仰向けになった。
昨日の夜から、私の頭は千切さんのことでいっぱいだった。いや、本当は帰国すると連絡がくる少し前くらいから、ずっと頭を占めている。
はあ、と大きく息を吐いたタイミングで、メッセージを知らせる通知音が鳴った。
『今日は?』
どくん、と心臓が期待で跳ねる。思わずスマホを一度投げて、枕に顔を埋めてしまった。また今日も会いたいと思ってくれてるんだ。……告白を、信じてないわけじゃない。でも千切さんってさっぱりしているから、同じ人と繰り返し何度も短いスパンで会いたがる人じゃないと、勝手に決めつけていた。
もう一度、ふうっと息を吐いてから『今日も大丈夫です』
そう送ると、すぐに既読がついた。
『じゃあ、仕事終わったら連絡して』
『今日はお休みなので、千切さんに合わせます』
『17時にまた駅のとこでいい?』
『大丈夫です!』
たったそれだけのやり取りなのに、頬が緩む。
昨日、あれだけはっきりと気持ちを伝えられたばかりなのだから、当然なのかもしれない。それでも、嬉しかった。私に会いたいと思ってくれている。その事実に、心の柔らかい部分が溶かされていく気持ちになる。
約束の時間より少し早く駅に着いた私は、改札を出たところで立ち止まった。スマートフォンを確認すると、まだ待ち合わせまで十分ほどある。
昨日と同じ場所で、同じ人に会う。全部昨日と同じはずなのに、今日はどうしてこんなに落ち着かないんだろう。
スマートフォンを鞄にしまって、駅前を行き交う人々をぼんやり眺めていると、ふいに声をかけられた。――でもそれは、あの凛とした声ではない。知らない声だった。
「ちょっと聞きたいんですけど、この辺で――」
振り返ると、見知らぬ男性が立っていた。私と同い年か、少し上くらい。どうやら道を尋ねたいらしい。
「?はい」
「○○っていうお店、知ってます?」
「ああ、そこなら……この駅の反対側ですね。ここからだと――」
そこは少し前にSNSで話題になっていた、古民家を改造したカフェだった。佐藤ちゃんと一度だけ行ったことがあったので、記憶を手繰り寄せながら聞かれた道を説明していると、男性がふっと笑った。
「ありがとうございます。……あの、よかったらこのあと――」
「ミョウジさん」
男性がなにか言いかけていたのを、涼やかな風鈴のような声が遮る。背後から降ってきた聞き慣れた声にパッと振り返ると、そこには――夕暮れの橙色を髪に纏わせた、千切さんが立っていた。
「待った?」
「い、いえ! 今来たところです」
身体のラインを拾いすぎない、上質なコットンの白Tシャツに、落ち感のあるチャコールグレーのスラックス。夕方の涼しい風に合わせて羽織った薄手のグレージュのシャツは、前を留めることなくラフに羽織られ、袖は肘の上まで無造作に捲り上げられている。足元は白のレザースニーカー。腕には細身のシルバーの腕時計だけを身につけていた。
シンプルなのに、どうしてこんなにも様になるんだろう。
「いえ、今来たところです」
「そっか」
そこでようやく、さっきまで私に話しかけていた男性が、千切さんを見て固まった。千切さんは外で待ち合わせをしている時は、一応メガネや帽子で身バレ対策をしている。けれど、あの鮮やかな髪色と整った顔立ちを完全に隠せるわけではない。むしろ、変装していることが分かる人には分かってしまいそうな程度の、ささやかなものだった
「あ……」
千切さんは男性を一瞥すると、特に驚いた様子もなく「道、分かった?」と静かに聞いた。男性が気まずそうにへらりと頷くと、千切さんは「そっか」と一言だけ返した。
そして、お手本みたいに綺麗な笑みを浮かべる。
私はこの時、初めて千切さんの余所行きの笑みを見た。
「この子、俺が口説いてるから。引いてくれる?」
「………」
あまりにも自然な口調だった。声を荒げるわけでもなく、威圧するわけでもない。ただ事実を伝えるみたいに、さらりと言う。
「あ!は、はい……すみません」
男性はそれだけ言うと、そそくさと人混みの中へ消えていった。だけど、私は千切さんが男性へ向けた言葉が脳内で何回もリピートされていて、それどころではなかった。
昨日確かに「普通に狙うから」とは言われたけど!
じわじわと暑さからくるものとは違う熱を感じながら、ちらりと千切さんに目を向けると、整った唇を不満げに歪めていた。
「……なんであんなの相手にしてんの?」
「え?」
「あんなのって……」
「あれ、どう見たってナンパだろ」
ほんの少しだけ、沈黙が生まれる。ぱちぱちとゆっくり瞬きをした。さっきのが、ナンパ……?
「え!?」
「道聞くふりして、連絡先聞こうとしてたじゃん」
「いや、でも本当に道に迷ってるのかなって……」
「それがもう危ねぇんだって」
千切さんは腕を組んで、呆れたようにため息を吐いた。呆気にとられてる私に、まるで子供を叱るように、「良心につけこんでくる男もいるから、気をつけましょう」と諭した。
「……」
なんだろう。言っていることは至極真っ当なのに、私は昨晩のやり取りを思い出した。
「例えば、千切さんとか?」
冗談半分にそう言うと、千切さんは一瞬きょとんとした。それから、ふっと口元を緩めて挑戦的な目で見下ろしてくる。
「言うじゃん」
「え?」
「俺には引っかかっていいんだけど」
「…………」
今度こそ、何も言えなくなった。
子供扱いされたのが恥ずかしくて、少しやり返してやろうと思っただけなのに、惨敗だった。千切さんに口で勝てるわけないと分かっているのに、私は学習しないらしい。
「ほら、行くよ」
「……はい」
さっきまで私を心配していた人とは思えないほど、千切さんは何事もなかったように歩いていく。その横顔を追いかけながら、私はまた、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
それからの日本滞在は、思っていたよりずっと穏やかに過ぎていった。
翌日も、その次の週末も、千切さんから連絡が来た。
一緒に食事をしたり、買い物をしたり、特に目的もなく街を歩いたり。家具を見に行った時のように、私が何かを決める必要があるわけでもない。ただ「付き合って」と言われて、隣を歩く。
帰国してからというもの、千切さんは以前にも増して気軽に私を誘うようになった。
一度、「私ばっかり千切さんの時間貰っていいんですか?」と聞いたことがある。すると、「ミョウジさんに会いに帰ってるからいいよ」と、千切さんに華麗にシュートを決められてしまった。
『今日、夕飯食べた?』
『まだです』
『じゃ、食べよ』
そんな短いやり取りだけで、会うことが決まる。
以前の私は、千切さんから連絡が来るたびに少し身構えていたはずなのに、いつの間にかスマートフォンに彼の名前が表示されることが、当たり前になっていた。
そして不思議なことに、会えば会うほど、私は千切さんのことをもっと知りたいと思うようになっていった。
海外での生活のこと。サッカーのこと。好きな食べ物。苦手なもの。意外と几帳面なところ。そのくせ、脱いだ靴下はその辺に放置するところ。家具の趣味が妙にうるさいところ。笑う時、少しだけ目を細めること。
そういう、他の誰かにとっては些細なことまで知っていくのが、楽しかった。
ある日の夕方。
私たちは駅から少し離れたカフェで、いつものように他愛のない話をしていた。
話題は、いつの間にか私の子どもの頃の話になっていた。
「そういえば、ミョウジさんって引っ越し多かったんだっけ」
「そうなんです。父の仕事の都合で、結構あちこち行ってて」
「大変じゃん」
「うーん……」
記憶を遡り、学生時代に抱いていた感情のページを開くように思い返す。大変ではあった。荷造りも荷解きも手間がかかるし、年度の変わり目はバタバタと落ち着かないことの方が多かったから。でも――
「大変だったと思います。でも、私は結構好きでしたよ」
「へえ」
「新しい家に住めるのが楽しみだったんです。間取りを見るのも好きだったし、家具をどう置こうかなとか、近所には何があるんだろうとか」
今の私を作り上げた欠片のほとんどは、あの時の経験から来るもの。……それらが繋がって、千切さんにも会えたわけだし。
「転校するのも、もちろん寂しい時はありましたけど……それより、次はどんなところなんだろうっていう方が強くて」
「……ふは」
「何ですか?」
「いや」
千切さんは頬杖をついたまま、少しだけ笑っている。千切さんは言葉もストレートだけど、こちらを見つめる瞳も真っ直ぐで、無性にくすぐったい気持ちになる時がある。
「そこで寂しいよりも、好奇心が勝つのがミョウジさんっぽい」
「……そうですか?」
「うん」
なんでもないことのように頷いて、それから少しだけ目を細める。
「良いね。そういうとこ、好き」
「…………」
心臓が、一度だけ大きく跳ねた。
それをきっかけに、とくん、とくんと早鐘を鳴らす。
千切さんは、彼いわく鈍感な私にたいして、分かりやすく好意を伝えてくれている。
けれど今の「好き」は、それまで聞いてきたものとは少し違っていた。
何度も環境が変わっても、新しいものを面白がれるところ。寂しさだけに目を向けず、その先にあるものを楽しもうとするところ。そんな、自分でも大切にしている部分を千切さんはちゃんと見つけてくれた。
「……千切さんって」
「ん?」
「そういうところ、ずるいですよね」
一瞬、千切さんが目を丸くして「そうかもね」といたずらっぽく笑った。
「ずるくて結構、もっと言おうか?」
「……それは恥ずかしいのでいいです」
「本当だ。顔真っ赤」
「ええ!」
「ふっ、はは」
楽しそうに笑う声を聞きながら、私は目の前のアイスティーに視線を落とした。
今見たら、目まで焼かれてしまうと思ったからだ。
心と、顔はもう焼かれてしまった。じんじん熱を持って、しばらく落ち着きそうにないのだ。
でも、それは恥ずかしいからだけじゃない。
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていく。
――千切さんのことが好きだと思った。
多分、今よりも前から好きだったと思う。だけど、自覚するまでにかなりまわり道をしてしまっていた。
アイスティーに差されたストローの先端から、ぽたりと一滴の雫が落ちて、コースターを濡らす。
雷に打たれたような衝撃もなければ、世界が変わるような劇的な何かもない。
ただ、今まで散らばっていた小さな出来事が、全部ひとつに繋がった。会いたいと思ったこと、連絡が来るだけで嬉しかったこと、帰国すると聞いただけで浮かれてしまったこと、隣を歩くと、腕が触れただけで妙に意識してしまうこと。
そして今、この人に「好き」と言われることが、こんなにも嬉しいこと。
全部、千切さんのことを、好きだったからなのだ。
「……どうしたの?」
「な、なんでもないです」
本当は、なんでもなくなんてなかった。自覚して、認めてしまうと一層恥ずかしさが増した。
だって、今までの自分の行動を振り返れば、思い当たることが多すぎる。
帰国すると聞いただけで、仕事中もそわそわしていたこと。会える日を指折り数えていたこと。メッセージが届くたびに、用もないのに何度も画面を開いてしまったこと。
家具を見に行った日だって、ただ付き合ってほしいと言われただけなのに、前日から服を選んでいた。
……これで好きじゃないと思っていたのだから、我ながら相当鈍い。
「……ふ、あはは」
「何?」
「いえ」
突然笑い出す私を、千切さんは呆気にとられたような表情で見ていた。
「ちょっと、自分のことが恥ずかしくなって」
「なんで?」
「……内緒です」
「ふーん」
千切さんは不思議そうにしながらも、それ以上は聞いてこなかった。それからしばらく、いつも通り他愛のない話をした。次に食べたいものの話とか、千切さんがイギリスで買った服の話とか。私が仕事で最近あったことを話せば、千切さんが相槌を打ちながら聞いてくれる。
特別なことは何もない。でも、私はさっきから妙に嬉しかった。胸のつっかえが取れたような、清々しい気持ちだった。
千切さんのことが好き。その気持ちに嘘はないけど、まだ上手く花束にできていない。うっかり口からこぼしてしまわないようにしておかないと。
そんなことを考えながら、私は隣を歩く千切さんをちらりと見た。同じタイミングで千切さんも私に視線を向ける。
「何?」
「……なんでもないです」
「今日それ何回目?」
「分かりません、目が勝手に見ちゃうんです。後で文句言っておきます」
「ふはっ、」
また笑われた。でも、今日はその笑い声を聞くのがいつも以上に嬉しかった。
それからの日本滞在も、相変わらず千切さんから連絡が来た。食事に誘われたり、買い物に付き合ったり、気になっていた店に一緒に行ったり。
以前なら「また誘ってもらえた」と喜んでいたところを、今では「次はいつ会えるんだろう」と考えてしまう。
そして、彼がイギリスへ帰ってしまうまでのカウントダウンが始まった頃。私はベッドの上でスマートフォンを握りしめたまま、うじうじと頭を悩ませていた。
千切さんとの最後のメッセージは二日前。
いつも誘ってもらってばかりの受け身だし、私だって千切さんを誘いたい、その一心でスマホを開いたものの――何て送ればいいんだろう。
『お疲れ様です』
……仕事のメールみたい。
『この前のお店、美味しかったです』
……いや、今さら!?
消しては打って、打っては消す。そんなことを十分くらい繰り返して、最終的に全部消した。
「……もういい!」
勢いでスマートフォンを置く。男性をスマートに誘う話術なんて持ち合わせてない。やっぱりやめておこう。
けれど、数秒後にはやっぱり気になって、また手に取った。
千切さんを見習おう。彼はいつも、回りくどいことはせずに、短くて真っ直ぐだ。
『千切さん、今週どこか空いてますか?』
余計なことは考えずに、直球で連絡をしてみると、すぐに既読がついた。その瞬間、驚いてまた携帯を放り投げてしまった。
ぴこん、と通知の音がして恐る恐る画面を確認する。
『木曜なら空いてる』に続いて、『会う?』とメッセージが返ってきていた。その場で、「はい!」と口で返事をしてしまった。馬鹿にも程がある。
深呼吸をしてから、『はい!』と今度はちゃんとメッセージで返事をする。
『じゃ、木曜ね』と、千切さんとのやり取りは相変わらず無駄がなく、あっさりと予定が決まる。私は誰もいない部屋で、また、「はい」と小さく返事をしてしまった。