千切様が帰国する予定の日がやってきた。
予約されていた時間の少し前になり、私は少しソワソワした気持ちで店内を見回した。資料も揃っているし、案内する物件の鍵も確認済み。車の準備もできている。
「先輩、今日のお客さんってこの前の海外の人ですよね?」
隣の席から佐藤ちゃんが顔を覗かせる。
「うん。今日帰国して、そのまま来るみたい」
「へえ〜。どんな人なんでしょうね、お金持ち!」
「こらこら! 電話でしか話したことないから、私もよく分からないよ」
そんな話をしていると、店舗の入口に取り付けられたドアベルが鳴る。歩く度に揺れる、長い赤髪が印象的なお客様は、サングラス越しにこちらを一瞥し、「16時から内見を予約している千切です」と軽く会釈をした。
名乗られる前から、その凛とした声を聞いた瞬間、すぐにあの千切様だと分かった。
「千切様ですね。お待ちしておりました。本日担当させていただきます、ミョウジと申します。よろしくお願いいたします」
「……よろしくお願いします」
電話で聞いていた通り、透き通っていて、芯の強そうな、知性を感じさせる声が印象的だった。ただ、電話越しでは分からなかったことが一つある。
――千切様は、とても綺麗な方だったのだ。
私は、“綺麗”という印象を男性に抱いたのは生まれて初めてだった。
長い赤髪。サングラスで目元は見えにくいが、それでも整っているのがよく分かる顔立ち。すらりとした体つき。ラフな服装なのに、妙に目を引く。
思わず一瞬だけ見入ってしまったけれど、すぐに仕事へ意識を戻した。
「本日はご希望いただいていた三件を中心にご案内させていただきますね。追加でいくつか条件に近い物件も探してありますので、そちらも資料をお渡しします」
「ありがとうございます」
「いえ。こちらへどうぞ」
千切様を応接スペースへ案内し、用意していた資料を机の上に並べる。すると、背後から服の裾をちょん、と引かれた。
「……先輩、ちょっといいですか?」
振り返ると、佐藤ちゃんがものすごく小さな声で私を呼んでいる。千切様に断りを入れると、すぐさま佐藤ちゃんに腕を引かれる。そうして、物陰に隠れてから耳打ちをされる。
「……あの人、千切豹馬ですよ」
「?うん、そうだね。」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
佐藤ちゃんが担当外のお客様の名前まで覚えているなんて珍しい。呼び捨てなことには、少し驚いたけど。
「先輩わかってます!? ブルーロックに出てた千切豹馬ですよ!」
「ぶ、ブルーロック?」
「えっ、知らないんですか!?」
「なんか聞いたことはあるような。ごめん、私テレビ見ないから全然分からなくて……有名な人なの?」
「めちゃくちゃ有名ですよ!? プロですよ!? イギリスでプレーしてる!サッカー選手です!」
「えっ」
思わず、応接スペースに座っている千切様を見る。
千切様はスマートフォンを眺めながら、こちらを気にする様子もなく待っている。
「……なるほどね、だからセキュリティ気にされてたんだ」
「そこですか!?」
「だってお客様だし……」
「いや、まあそうなんですけど!!」
佐藤ちゃんは興奮を隠しきれないらしく、「サインとかお願いしなくていいんですか!?」と声が大きくなり、慌ててボリュームを抑えるように制止した。
「し、仕事中だよ!?」
「ですよね!!」
「ほら、もういいから仕事戻って」
「はーい……」
佐藤ちゃんは「でもタイミングあればサインお願いしてください!」と渋々自分のデスクへ戻っていく。「万が一そんなタイミングがあったらね」と苦笑しながら、その背を見送って、私は小さく息を吐いた。
千切様は、プロのサッカー選手だったのか。
目を引く派手な容姿をされているので、ブルーロックというアイドルグループかなにかかと思ったが、違うみたい。
私の中でサッカー選手といえば、ボールを蹴ってゴールを決める人。スポーツについては、全然明るくないのだ。
仕事云々は置いておいても、その程度の知識しかない。
「千切様、お待たせいたしました!それでは、まず一件目からご案内しますね。この物件は――」
資料を手渡してから、物件について説明をしていく。千切様は浅く頷き、「一旦全部見てみます」と、事前に連絡していた三件以外の物件に対しても興味を持ってくれた。
「ここからは少し距離がありますので、車を回してきます。入口でお待ちいただいてもよろしいでしょうか?」
「分かりました」
私は社用車の鍵を手に取り、車に乗り込んだ。
今からプロサッカー選手を乗せるのかと思うと、ハンドルを握る手が少し強ばった気がした。
この時の私はまだ知らなかった。
この、こだわりの多い海外在住のお客様と、これから何度も顔を合わせることになるなんて。
◇
助手席に千切様を乗せ、薄ら緊張の汗を手のひらに滲ませながら車を走らせる。他のお客様を軽んじているわけでは一切なく、単純に運転技術に自信がある訳では無いのだ。
「変な気は遣わなくて大丈夫ですから」
「? 変な気、は使っておりません。むしろ、千切様の日本の帰る場所を探すお手伝いができると思うとワクワクします」
「え、」
「家って私の中で止まり木というか、1番ホッとできる場所なんですよね。帰る場所があると、飛び立てるじゃないですか。……ってすみません、長々と……」
「ふは、いいえ。一理あるなって思いました、だから結構細かいこだわりまで伝えてましたし」
千切様はふっと柔らかく笑った。車内に大輪の花が咲いたのかと錯覚するくらい、眩い笑顔だった。なんというか、想像してたよりも幼い表情で笑う人だったのだ。
千切様からこの辺りでオススメの飲み屋を聞かれ、咄嗟に行きつけの小さい居酒屋を口走ってしまった。よくよく考えたら、プロサッカー選手ならもっと会員制の隠れ家みたいなバーを紹介するべきだったかもしれない。いや、そんな場所をは知らないのだけど。
他愛ない話をしているうちに、あっという間に一件目の物件に到着した。
千切様は玄関に入った瞬間から、少しだけ表情を曇らせた。
「……思ってたより狭い」
「そうですね。写真だともう少し広く見えるんですが」
「うん。あと、ここの窓」
リビングの窓際まで歩き、カーテンを少しだけ開ける。
「向かいの建物、結構近いですよね」
「そうですね……」
「日当たりは悪くないけど、朝はどうなんだろ」
スマートフォンを取り出して、窓の外を確認している。
問い合わせの時にも細かいとは思っていたけれど、実際に部屋を見ると、気になったところを一つずつ確認していく。私なら見落としてしまいそうな部分まで気づく千切様に、感心してしまう。見習わなくては!
「洗面台、少し低い。海外の家ってわりと高さがあって、それに慣れてるからこれだと腰が痛くなりそう」
「なるほど……」
私はメモとペンを胸ポケットから取り出して、千切様の言葉を書き記して聞く。
「こちらは候補から外しておきますね」
「うん」
迷いがないその潔さが、私の仕事意欲を燃え上がらせる。この人の「ここがいい!」という顔が絶対に見たい。
「……何か?」
「い、いえ」
「笑ってる?」
「笑ってません」
「いや、笑ってますよ」
「すみません、なんだか……楽しくなってきて」
「は?……ふ、はは。変な人ってよく言われません?」
千切様は目を丸く開いて驚いたあと、吹き出すみたいに笑った。ガランとした部屋の中で、千切様のケタケタ笑う声が響いた。
「悪いね、めんどくさい客で。……でもこういうのちゃんと聞いてくれるんだ」
「もちろんです!住むのは千切様なので」
「そっか」
それだけ言って、また部屋の中を見回した。零された苦言はひとつ残らずメモをした。
二件目も、三件目も、決定には至らなかった。
三件目はかなり気に入っているようだったけれど、駅からの道に大きな交差点があることが引っかかったらしい。
「ここ、夜うるさくない?」
「交通量はそこまで多くないと思いますが、時間帯によっては気になるかもしれません」
「だよな」
「一度、夜の時間帯に周辺を確認してみます」
「そこまでしてくれんの?」
「もちろんです」
そう答えると、千切様はまた驚いたように目を瞬かせた。窓から差し込んだ夕日が千切様を照らし、ガラス細工のような瞳に長いまつ毛が影を落としていた。
「…ありがとう」
「いえ!」
「じゃあ、また候補探してもらってもいい?」
「はい!もちろんです!」
千切様のお部屋が決まらなかったことは残念だけど、また次も私に任せてもらえる事が嬉しかった。……変な人だと言われてしまったけど、千切様は段々と口調が砕けていき、内見が終わる頃には完全にタメ口になっていた。
――次こそは、もっといい物件を探そう!