その一線を結んだ先の唯一つ

 あの夜から数日後。私はいつものように、パソコンの画面に表示された物件情報を一件ずつ眺めていた。
 駅からの距離、日当たり良好、オートロックで防犯カメラ付き。浴室乾燥機に、背の低くない独立洗面台。収納も十分。築浅で、周辺は大通りから一本入った閑静な住宅街。
 条件だけを見れば、かなり良い。けれど、今までにも似たような物件はいくつも見つけてきた。

「……うーん」

 掲載写真を拡大しながら、無意識に唸り声を上げていた。隣の佐藤ちゃんはそんな姿を見て、くすくすと笑っている。今日も変態だな、と思われているのかもしれない。

 今見ている物件も、悪くは無い。リビングは広いし、キッチンも十分な大きさ。窓も大きくて、家具を置いたあとの生活まで想像しやすい。
 でも、何かが引っかかる。なんだか、妥協しているような気がするのだ。
 その理由を考えながら、私は何気なく内見用の資料を閉じた。
 千切様が欲しいのは、ただ条件のいい部屋じゃない。
 海外で暮らして、試合のためにあちこち移動して、日本にも帰ってくる。
 だからこそ、日本に戻った時くらいは、何も考えずに身体を休められる場所が欲しいんじゃないだろうか。……これは完全に私の想像だけど。
 駅から少し歩くくらいなら許容できると言っていたのも、静かな場所を好んでいたのも、たぶん全部繋がっている。
 私はもう一度、検索条件を開いた。

「……あ」

 新しく入ってきた物件が、一件。駅から徒歩九分。
 築年数はそれほど新しくない。でも、リノベーション済み。そして――窓の向こうに、緑がある。
 心地よい風が吹き込んでくるような気がして、じわじわと心が踊りはじめる。
 
「これ……」

 写真を一枚ずつ確認していく。リビングは東南向き。朝の光が入る。寝室には大きめの収納。洗面台も、これまで見た物件より少し高い。浴室もゆったりしている。キッチンは二口コンロに十分な作業スペース。

 そして、何より――窓の外が静かだった。

「……これ、いけるかも」

 私はすぐに管理会社へ確認を取り、内見の手配をした。
 自分でも仕事終わりに、夜の騒がしさはどの程度なのかも確認した。どちらも申し分なく、今度こそ100点の物件なのではないのかと期待に胸を膨らませる。
 ああ、早く千切様に報告したい。しかし内見予約は2日後。その間に他の人が契約しませんように。
 

◇

 そうして迎えた内見日。
 私は、一周回って落ち着いていた。本当は早口でベラベラと部屋について、千切様との相性がバッチリなことなど語り倒したかったけれど、先入観を与えると感動が薄れる気がして我慢した。
「ミョウジさんがそこまで大人しいと、違和感すごいね」と千切様は若干引いていた。

「ここです」

 車を停めて、千切様と一緒に建物を見上げる。

「この間見たとこよりは築年数経ってる?」
「はい。ただ、室内はフルリノベーションされてます。あと、駅からは徒歩九分です」
「うん、許容範囲」
「ですよね!……はっ、」

 思わず声色がワントーン上がってしまい、慌てて切り替える。千切様はそんな私の様子を見て、「結構自信ある感じ?」と察したように笑う。

「じゃ、じゃあ、入りましょうか」

 鍵を開け、玄関の扉を押し開く。
 どくん、どくん、と静かに、けれど重く心臓が脈を打ち始める。

「……あ」

 千切様が、ほんの少しだけ目を見開いた。
 ――良し! 感触は悪くなさそうだ。
 
 玄関を抜けた先には明るいリビングが広がっていて、大きな窓から、柔らかな光が差し込んでいる。

「東南向きなので、朝から午前中にかけてかなり明るいと思います」
「……うん」

 千切様は返事をしながら、窓の方へ歩いていき、窓の外の景色を数秒眺めていた。
 大通りから少し離れているからか、車の音もほとんど聞こえない。

「静かじゃん」
「ですよね」
「うん」

 千切様は窓を少し開けて、外の音を確かめるように耳を澄ませた。

「これなら朝、寝てても起こされなさそう」
「それ、大事ですよね」
「大事」
「じゃあ、ここはかなりポイント高いですね」
「うん」

 そう言いながら、千切様は部屋の中を見回す。千切様の宝石を埋め込んだような大きな双眸には、仄かな期待が浮かんでいる。
 キッチン、洗面所、浴室、収納と、ひとつずつ確認していく。

「……洗面台の高さもいいな」
「よかった……!」

 私は受験に合格した日と同じように、思わず両手を上げて喜んでしまった。いけない、いい歳をした女が何をしているんだ。
 千切様が振り返って、柔らかく眦を下げて笑った。

「そんな嬉しい?」
「嬉しいですよ! 今まで連続で『低い』って言われてましたから」
「ふは、確かに」

 千切様は何かを思い出したように、ケラケラと笑う。私も天井を見上げてお手上げ状態になっていた自分を思い出し、つられて笑った。
 
「キッチンもいいじゃん」
「作業スペースもありますし、収納も多いです」
「うん」

 そして最後に、再びリビングへ戻ると、千切様は窓際に立ったまま、しばらく外を眺めていた。

「……ここにする」
「!」

 待ちに待っていたその言葉に、わあっと声を上げたくなるのを必死に理性で抑えた。表情と声色から確信はしていたけれど、ついに100点のお部屋と千切様を結ぶことができた事実に、口元の緩みは我慢できそうにない。

「ほ、本当ですか?」
「うん」

 千切様は窓の外を見たまま、少しだけ考えるように黙る。

「帰ってくるならここがいいって思った」
「よかった……!」
「……なんか、俺より喜んでくれてない?」
「え?」

 そりゃ契約取れりゃそっちとしては嬉しいだろうけどさ、と千切様は心底不思議そうに、けれど優しい表情をして私を見つめた。
 窓から吹き込む風が、ゆったりと部屋の中を撫でていく。

「……嬉しいですよ。だって、ずっと千切様の安心してくつろげるおうちを探してきましたので!」
「うん、ずっと付き合ってくれてありがとう」
「とんでもないです! こちらこそ、お手伝いさせてくださってありがとうございます」

 即答すると、千切様は少し目を細めた。気を抜くとその美しい笑みに視線を釘付けにしてしまいそうになる。
 それ以上は何も言わず、千切様はまた窓の外を見る。
 この人が海外でどんな景色を見て、どんな家で暮らしているのかは、私には分からない。
 きっと、イギリスのおうちだって素敵な場所だと思う。だけど、故郷ってまた別物なのではないだろうか。

「千切様」
「ん?」
「ここ、千切様に合ってると思います!」
「だよな、俺もそう思う」

 ――その瞬間、今まで何件も見てきた部屋の景色が、全部この一言のためにあったような気がした。
 一瞬の迷いもなく帰ってきた返事。自分の美学を持っていて、流されない芯の強い人。そんな千切様が、100点満点なお部屋と出会えて本当に嬉しい。美しい花束に似合う、とっておきのリボンを見つけることができたような気分だ。
 
「こちら、お申し込みに進めますか?」
「うん。ここにする」
「やったー!承知しました!」
「ふはっ」

 思わずまた両手を上げてしまい、千切様は喉仏を晒して盛大に笑った。
 そこからはサクサクと話が進んで行った。その日のうちに申し込みを済ませ、必要な手続きについて説明をする。
 審査と契約が始まり、ここまで来れば、もう私の仕事もあと少しだ。

 そして数日後、必要書類を確認しながら、千切様がひとつずつ手続きを進めていく。特に問題もなく、契約は滞りなく完了した。

「――以上で、契約手続きは全て完了です。改めまして、ご契約ありがとうございました」
「こちらこそ」

 期間で言うと、ひと月も経ってない。でも思い返せば、最初にお問い合わせをいただいてから、何件も何件も物件を見てきた。ちっとも苦痛ではなかったけれど、すぐに理想の部屋をご紹介できなかったことだけは、悔しくも思う。まあ、お互い妥協せずに探せたことだけは本当に良かった。

「担当できてよかったです」
「……うん。俺も、ミョウジさんでよかった」

 そう言って、千切様は書類を鞄にしまう。下を向くと長い髪が頬に流れていき、それを慣れた仕草で千切様は耳にかけた。綺麗な所作だな、見習いたい。

「じゃあ、また」
「はい。何かございましたら、いつでもご連絡ください」

 最後まで、私はいつもの担当者として笑顔で見送った。心の隅にいる、小さな違和感から目を逸らしていることにも気づかないまま。
 扉が閉まり、静かになった店内で、私は小さく息を吐いた。
 ――これで、本当にお仕事終了だ。
 今回のことは、私にとっても濃くていい経験になった。少しばかりスキルアップもした気がする。
 これから先も、色んなお客様がいらっしゃるだろうから、その人の状況に合わせて今回のようにお互い妥協せずにいくことを大切にしていきたい。

「寂しいですね、千切豹馬が来なくなるの」

 ホットココアを注いだマグカップを両手で持ちながら、佐藤ちゃんが呟いた。ゆらゆらと揺れる湯気を、小さな口でふうっと息を吹きかけている。
 寂しい、か。確かに、そうなのかもしれない。
 認めた途端、達成感とは別にほんの少しだけぽっかり穴が空いたような、なんとも言えない感情が立ち上がり、私を見下ろしている。この感情の正体は寂しさだったんだ、と腑に落ちた。

「うん、確かにそうだね」
「まさかの同意!」
「でも嬉しさの方が大きいよ! 良いお部屋だったからね」
「ふふ、先輩らしい」