それからしばらく、千切さんとは変わらない頻度でメッセージを交わした。
仕事の合間に届く他愛もない一言や、イギリスで見つけたものの写真。こちらから送ったどうでもいい話にも、忘れた頃に返事が返ってくる。
唯一変わったことと言えば、時折電話がかかってくるようになったことくらいだ。
そんなやり取りも、いつの間にか私の日常になっていた。
――そして、季節がひとつ巡り、千切さんが日本へ帰ってくる夏がやってきた。
『来月帰るから、空けといて』
そう連絡が来たのは、半月ほど前のことだった。
社交辞令ではなく、本当に私との時間を作ってくれるらしい。そのメッセージを読んだ日、浮き足立つ心を抑えきれなくて、仕事帰りに新しい服を新調してしまった。
それからの二週間は、妙に時間の流れが遅かった。
仕事をして、家に帰って、千切さんと少しだけメッセージを交わす。そんな日々はこれまでと何も変わらないはずなのに、あと二週間、あと一週間と数えてしまう自分がいた。
そして、帰国予定日の当日。
『着いた』
昼休みに届いたメッセージを見て、思わず顔が綻んだ。
フライトの時間を聞いていたので、時刻が近づくにつれソワソワと気持ちが落ち着かず、何度も時計を見てしまっていた。今日会う訳でもないのに、はしゃぎすぎだと思う。
『おかえりなさい!』
千切さんが帰国したら絶対に伝えようと思っていた言葉を送る。
『ただいま』
『長旅お疲れ様でした!ゆっくり休んでくださいね』
確か、イングランドから日本への飛行機は14時間くらいかかると聞いていた。今日は美味しい物食べて、身体を休めて欲しい。――しかし、千切さんからの返信は予想とは違うものだった。
『ありがとう 』
『で、ミョウジさんはいつ暇?』
『会おうよ』
ぽん、ぽん、と立て続けにメッセージが届く。
トーク画面は開きっぱなしなので、速攻既読がついてしまう。
どうしよう。これじゃ、まるで帰国してすぐ会いたいと言われてるみたい。
『今日ですか?』
『都合悪い?』
『いえ、帰国されたばかりなのでいいのかなって』
『大丈夫。もう寝たし時差ボケもない』
『さすがです』
千切さんは、要件があるときのレスポンスが早くて助かる。それは物件探しの頃から何も変わってない。探るような回りくどいこともしない。『で、今日暇?』とすぐに本題へと戻されていく。
仕事終わりは特に予定が無いし、千切さんには会いたい。だけど心の準備が追いついてない。
数秒悩んだけれど、千切さんはもしかしたら明日からの方が忙しいのかもしれない、と思い『仕事終わってからなら行けます!18時に終わります』と返信した。
結局、千切さんとは19時に駅で待ちあわせることになった。
「……う、うわ〜〜」
スマホを両手で握りしめたまま、大きく息を吐いた。正直なところ、千切さんがどういうつもりで誘ってくれているのかも、千切さんからの一言でどうして心が固くなったり柔らかくなったりするのかも、まだ分かっていないのだ。……今回の帰国で、なにか掴めるといいなとは思っている。
そして、仕事を終えた私は、約束の時間より少し早く待ち合わせ場所へ向かった。
駅前の人混みをぼんやり眺めながら、何度もスマホを確認する。別に連絡が来ているわけでもないのに、画面をつけては消してを繰り返していた。
やっぱり、ちょっと緊張する。いや、昼間からずっと緊張していたのだけれど、いざ本人を前にすると思うと、更に緊張してきた。
春に初めて会った時は、こんなことになるなんて思ってもみなかった。
海外で活躍するプロサッカー選手。そんな人と知り合うこと自体、私の日常からすれば十分に非日常だった。それがいつの間にか、仕事の相談をしたり、くだらない話をしたり、電話をしたりするようになって、その上帰国したその日に会おうと誘われている。
「……何なんだろう」
千切さんにとっての私、私にとっての千切さん。自分で呟いておきながら、どちらも答えは分からない。
風が生ぬるい初夏の夜、人混みで賑わう駅前で思いを馳せていると、背後から澄んだあの声に名前を呼ばれる。
「ミョウジさん」
りん、と涼やかな気持ちにしてくれる、風鈴みたいな声。
「……ち、ぎりさん……!」
「……ふは、何その反応」
「久しぶり」
「ひ、久しぶりです!」
振り返った先には、春に会った時と変わらない千切さんがいた。ただ、久しぶりに直接見るその姿は、記憶の中よりもずっと鮮明で、相変わらず美しかった。
「……何?」
「本日もお綺麗ですね」
ほろり、と本音が喉奥から飛び出して、ストレートに投げつけてしまった。千切さんはふっ、と柔らかく笑ったあと「そりゃどうも」と謙遜することなく受け流した。こんなこと、言われ慣れているんだろうな。
「き、緊張してきました」
「ふは、今更?」
その笑い声を聞いた瞬間、イギリスから届いたメッセージや電話越しの声が、一気に現実へと戻ってきたような気がした。
「じゃ、行こ」
「はい!」
並んで歩き始める。時々、千切さんの腕が私の腕に触れた。そんなこと、珍しいことじゃないのに、千切さん相手だとどうしてか、触れた部分がじくじくと熱を持つ。なんか、今日は距離が近く感じる。気のせいだろうか。
「暑くね?」
「今日は特に蒸し暑いですね」
「帰ってきてびっくりした。こんな暑かったっけって」
久しぶりに会ったとは思えないほど、会話は途切れなかった。毎日のようにやり取りしていたのもあって、それほど間が空いたように思えなかったのもあるけど。
連れてこられたのは、駅から少し離れた場所にある、落ち着いた雰囲気の和食屋さんだった。引き戸を開けると、控えめな鈴の音とともに、出汁の香りがふわりと鼻をくすぐる。店内は照明が少し落とされていて、カウンター席の奥には小さな個室もいくつか見える。その中の1番奥の個室に案内され、向かい合って腰を下ろす。
イギリスでの生活のこと。シーズン中のこと。最近買ったもの。日本に帰ってきて食べたかったもの。
私の仕事の話にも、いつも通り千切さんは興味深そうに耳を傾けてくれた。
和食屋さんでの時間は、あっという間に過ぎていった。
店を出てから、そのまま駅へ向かうものだと思っていたのだけれど、千切さんは駅とは反対方向へ歩き始めた。
あれ、他にもなにか用事があるのかな。
「ちょっと付き合って」
「もちろん! どこ行くんですか?」
「家」
「……家?」
方角的に、それは千切さんの家を指している。不思議に思っていると、それを察したのか「ちょっとお願いしたいことあって」と続けた。
私が千切さんの家で役に立てること? それってなんだろう。そう思いながらも、特に疑うことなく後をついていく。
エントランスを抜け、部屋の前に着くと千切さんは扉を開けて、先に入るように促した。
「お邪魔します」
「うん」
そうっと玄関に足を踏み入れる。久しぶりに見る部屋は、春に内見した時とはすっかり雰囲気が変わっていた。
家具が入り、ラグが敷かれ、必要最低限だった空間に少しずつ生活の気配が増えている。
「わあ……」
「結構変わったでしょ」
「はい! すごいですね。ちゃんと千切さんの部屋になってる」
「何それ」
ふっと、千切さんが柔らかく笑う。一緒にいるとよく見せてくれるこの笑顔、私は結構すきだったりする。
「あ、そうだ」と呟いて、千切さんは窓の方へ歩いていく。今日の本題はここにあるみたい。
「で、お願いっていうのがこれ」
そう言いながら、千切さんは顎でリビングの大きな窓を指した。夜の窓に反射して、私と千切さんが映し出されている。つまりこの窓には、まだカーテンが無いのだ。
「カーテン買ったはいいんだけど、つけるの面倒で」
「なるほど! お手伝いしたらいいですか?」
「さっすが、話速い。ありがと」
「この脚立お借りしますね」
「うん」
私はさっそく脚立を広げ、袋からカーテンを取り出した。それを慣れた手つきで素早く取り付けていく。学生時代、何度この作業をしたか分からない。
「ありがたいけどさ、親切すぎない?」
「だってカーテンつけるだけですよ?」
「……うーん?」
千切さんが妙に納得したような、納得していないような顔をする。自分から手伝って欲しいと言ってきたのに、不思議な反応をする人だな、と思った。けれど私は気にせず、もう片方のカーテンも手早く取り付けた。
「よし!」
カーテンを閉め、少し離れて眺める。カーテンひとつで、がらりと部屋の印象は変わる。先程とは全く違う景色だった。
「……なんか、いいですね」
「そう?」
「はい。ここが千切さんの部屋なんだあって。帰りたくなるいいお家です」
ふふ、と自然に湧き上がってくる笑みがこぼれてしまう。 千切さんも同じように、口元に緩く笑みを浮かべながら「俺もそう思う」と満足気に頷いた。
時刻は21時をすぎている。
時差ボケがないとは言っていたけれど、疲れが溜まっていないわけではないし、今夜は早めに休んで欲しい。
「これ以上長居するのも申し訳ないので、私はそろそろ――」
お暇します、と私が伝えるより先に、千切さんが私の名前を呼ぶ。ゆっくりと瞬きをした千切さんは、静かに「一応聞いとくけど」と続けた。
いつもと変わらない、落ち着いた話し方。だけど、纏う空気の温度感が、少しだけ変わったのがわかった。
何を言われるんだろうか、と呼吸が浅くなる。
「俺がミョウジさん狙ってることには、気づいてる?」
「…………え?」
頭の中が、一瞬で真っ白になった。
狙ってる、とはどういう意味だろうか。いや、そこまで鈍感なわけじゃない、この状況でなんとなく連想できる意味合いがひとつ思い浮かんだけれど、自惚れだったら恥ずかしい。
じわじわと身体中の血液が顔に集まっていく気がした。静かな時限爆弾を投げ込まれたような、そんな気持ち。
千切さんはそんな私を見て、ふっと笑う。
「……そんなことだろうと思った。やけにすんなり男の部屋に着いてくるし」
「!」
言われてみればそうだ。いくら千切さんとはいえ、一人暮らしの男性の部屋へついて行くなんて、危機管理ができてなさすぎる。……それに、こうやって簡単に部屋に上がる女なんだって千切さんに思われるのは、嫌だな。なんて、考えてしまっていた。
「これ聞いてどう? 迷惑なら、無理強いするつもりはないけど」
迷惑だなんて、ちっとも思ってない。ただ、こんな展開になるとは思ってもいなくて。脳が感情の処理にかなりエネルギーを割いているせいで、うまく言葉が出てこない。
「迷惑じゃないです! ただ、恐れ多いというか……」
「……恐れ多い?」
「私は千切さんに仕事以外で役に立てた気がしませんし、どうしてって……」
ただ疑問に感じた部分を、包み隠さず素直に伝える。
プロサッカー選手の千切さんが、私みたいな一般人をなぜ?とか、容姿が釣り合ってないとか、外見や立場を出すのは失礼な気がして。
「……じゃあ、もっと端的に聞く。俺って、ミョウジさんの中でナシ?それだけ教えて」
千切さんは表情を変えることはなく、私の意思を汲み取ろうと真っ直ぐな瞳で問いかけてくる。私は、千切さんのこういうところが羨ましいと思った。自信がある、とか自己肯定感が高い、とかそんな簡単にまとめられることではなくて、常に自分にたいしても他人にたいしても正直な人なのだ。
「ナシ、なんかじゃないです」
ふるふる、と頭を左右に振って否定する。
千切さんの事を人として尊敬しているし、こんな素敵な人が恋人だなんて、身に余るくらい幸せだと思う。だけど、千切さんとの出会いが仕事だったのもあって、異性として見ないようにしていたから、今すぐに答えを出すことは出来なかった。――ただ、もうこれっきり千切さんに会えないことが私は一番嫌だった。
真っ赤になっているであろう私を見ながら、千切さんは「そっか」と短く一言呟いた。どこか安堵したような、肩の力が抜けたような表情をしている。……千切さんも緊張することあるんだ。それも、私にたいして。
「それなら良かった。返事を急いでるわけじゃないし、今すぐどうこうなりたいとかそういう話じゃないから」
「……はい」
「ただ、俺はこれからも普通に狙うから。嫌ならちゃんと言って」
落ち着きを取り戻し始めた心臓が、再び重く波打った。
どこまでも直球で、はっきりとした言葉は、私が誤解する隙すらない。
「わ、わかりました!」
「うん。じゃ、送る」
駅までそんなに距離はないし、送りは大丈夫だと伝えても「俺がまだミョウジさんと居たいんだけど」と言われてしまい、それ以上は何も言えなかった。
帰り道、私は意識しすぎていつもより口数が少なくなってしまった。うまく話せない。こんな風に、男の人から事前に好きなことを打ち明けられた状態で、関わることなんてはじめてだったから。
「緊張してたりすんの?」
「え、そ、そそ、そんなことないですよ」
「ふはっ、噛みすぎでしょ」
隣を歩く千切さんにちらりと視線を向けてみると、いつも見せるあの柔らかい笑みを浮かべながら、千切さんも私を見ていた。
「今日は、意識させることが目的だったら」
「……しない人、いないと思います」
「そう? 自分から口説いたこととかないから知らないけど」
千切さんがモテないわけがない。恋人にしたいサッカー選手ランキングでも、上位に入っていたし。自分から動かなくても引く手数多だろうから納得だ。――改めて、すごい人からアプローチを受けているんだな、と実感した。
そう思えば思うほど、どうして私なんだろう、という疑問がまた浮かんでくる。
「あの、どうしてその、私を……」
「?うん、俺がミョウジさんのこと好き」
「う、あ、はい」
「ああ、なんでなのかって話?」
「はい。分からなくて、」
「……そっか。じゃあ、これから分かるようにする」
言葉が出なくて、こくりとひとつ頷きを見せることしか出来なかった。
熱い。
頬とか、心臓とか、頭の中とか、じんじんと熱を持ち続けている。
熱帯夜の夏、私は内側からくる熱を抱えながら、駅までの距離がもっと長くてもいいのに、なんて考えてしまっていた。