Step.99



思考は奪われ、私は理由も分からず、自分の根底から湧いてくる体を焼き尽くすような激しい怒りと絶望から逃れようと白にしがみついた。
海の深い底へと一心に潜っていく白は、私と全く同じ格好を取って優しく頬にキスをした。

「まだ」

ここはどこ?
とても暗い。
見たことがあるような、ないような。
ああ、それ以上沈んでしまったら光が届かない。
暗闇は怖い。
白につかまったまま、海の中を見回す。
怖い。
白、怖いよ。

「大丈夫」

白は一度潜るのをやめて、私の目を見た。
怒りは、まだ収まっていない。
何に怒っているのかも、分からないけど。
白は大したリアクションも返さず、無表情にまた海の底を目指す。
ねえ、白、そっちになにがあるの。

「コトハの深淵」

なにそれ。
分からないよ。
深淵って、なに?
怖い。
そっちは何か怖い。
そっちに行っちゃだめな気がする。
白、引きかえそうよ。

「もうすぐだから」

白がそう言ったとき、何かが私たちの下を通った。
なに?
すごく大きいもの。
けど、海と同化していて、全然分からない。
しばらくして、白が止まった。
もうすぐといった割には、だいぶ深くまで来たような気がする。
白の光をもってしても、これ以上先は照らせないらしく、足元には黒い闇が広がっていた。
しかしそれには不思議と恐ろしいと感じることは無い。
むしろ程よく温かくて、例えるなら羊水の中にでもいるかのようだ。
これが、深淵?
ふと、音が聞こえた。
サイレンのような、高くて低い音。
あ、これ知ってる……。

「見て」

白が雫のように光を垂らした。
海の中であるというのに、他と混じり合わないそれは、ゆっくりと黒い闇の中へ落ちていく。
きゅる、きゅるる。
鯨だ。
大きな鯨が光の雫を飲み込んだ。
途端に黒い闇に包まれていた鯨が内側から白い光を放って弾けた。
ああ、そうだった。

「海は心、彼らは記憶」

私は白に頷いて、新しく底から出てきた小さな黒い鯨に手を伸ばした。
私に触れた瞬間に形を崩して、記憶の奔流となる。
けれど、白に頼ることも、目を逸らすこともしなかった。
受け入れるって、きっとそういうこと。
湧き出る怒りと、鯨のもたらす記憶にゆっくりと順応していく。
黒の扉と、白の扉と、そしてずっと奥に私の扉がある。
どうして忘れていたのかは分からないけれど、確かにその扉をくぐったはずだ。
でも、その扉はくぐっちゃいけないはず。
私の生命機能を動かすことすら出来なくなるのだと思っていた。
あ、じゃあ、私、死んだのかな。

「黒が器を動かしてるよ」

ああ、そうなんだ。
なら安心だ。
再び現れた小さい鯨に手を伸ばして、自分の記憶を受け入れる。
鯨の歌はとても複雑な情報の波だと聞いたことがある。
人間には分からないけれど、もしかしたら見たままの光景を、感情を、そのままの形で伝えあっているのかもしれないと。
私のこの鯨たちもきっと同じ。
私の心の底から湧き上がってくるものを、その身に宿して、私に伝えてくれる。
直接受け取れるほど私は強くないから。
まだ、私の深淵を見ることが出来るほど、強くないから。
いまは、まだ。



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