Step.114



瞬きをすると、今度は昼過ぎだった。
部屋は暗く、窓からだけ光が部屋に差しこんで来ている。

「定期外出の許可が出ました。どこに行きたいですか?」

男は簡単な選択肢をいくつか用意して、その上に私の手を置いた。
温泉、遊園地、映画館、森、海……。
ゆっくりと手を動かして、海のところで手を止めた。
男は、今までで一番気持ちの悪い笑みを返した。

「はい、了解しました」

国本さんの張りつけるような営業スマイルでもない、悪意に満ちた笑み。
そう言えば国本さんはどうしたのだろう。
男は私を車いすに乗せ、アイマスクとヘッドフォンをつけさせた。
なんとなく、ヘッドフォンはこれじゃないような気がして、不快だった。
どうして不快なんだろう。
アイマスクの中でぼんやりと暗闇を見つめていれば、男がアイマスクを外した。
もう着いたのだろうか。
時間の感覚がまるでない。
車イスのまま黒いバンから降ろされ、手早く点滴の針を抜き取られた。
青い月だ。
打ち寄せる波に惹かれるように海へと足を進める。
歩くと言う感覚まで曖昧で、どうやって進めばいいのか分からなくなり、立ち止まった。

「何も怖くありませんよ。原初、人は海から生まれたのですから」

男はひどく優しい声でそう言った。
背を押すようなその言葉から逃れたくて、海へと進む。
る、るる。
鯨の歌が聞こえる。
打ち寄せる波に触れると、それが顕著になった。
足元に気をつけて。
それ以上来てはいけない。
急に深くなるよ。
気をつけて。
まるで心をそのまま伝えるかのような光景が、私の前に広がる。
複雑な色が絡み合って、私にまとわりつく悪意を睨みつけた。
浅瀬を歩いていたはずなのに、足元の感覚がなくなった。
体が自重に従って沈んでいく。

『コトハ』

低い男の声が聞こえる。
先ほどまで私に向けられていた冷たい悪意の音をかき消すような、とても温かい音。
夢か現実か分からないけれど、とても心地がいい。
ずっとこのまま。
一緒にいてくれたら、なんて幸せなんだろう。
温かい海に抱かれて、鯨たちに囲まれて、優しい声に耳を傾けていられるなら。

『コトハ』

鯨が男の声を真似して心を流した。
海よりも形を持った温かい何かに包まれる。
幸せだ。
寂しくないように、もうこれ以上傷つかないように。
もう二度と、壊れて行かないように。
一緒にいて。
私を離さないで。
傍にいて、抱きしめて。



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