Step.115
黒いあざに浸食された左手が、文字羅列の『海』を指したことで、チームはそれぞれ別海岸へと向かったが、最初にたどり着いた俺のチームが正解だったらしい。
海岸道路に黒いバンが停められており、警察と一部ヒーローによってそのバンに凭れていた男が取り押さえられた。
「久地楽さんはどこだ!!」
「ええ、それが」
男は警官に取り押さえられているというのに、至極楽しそうに肩をすくめて見せた。
「ふと目を離したすきに海へ入水自殺ですよ。いやはや、面目ない」
怒りが溢れ出るより先に、足が走り出していた。
コトハは、自殺なんかするやつじゃない。
お前が追い詰めたんだろ。
思考が混濁しては左腕の痛みに連れて行かれる。
国本の引き止める声と、海の冷たさ、そして流れ込んで来る心にハッと我に返った。
一歩引いて、痛みを訴える左腕の黒い侵食を握りしめる。
「相澤さん!待ってください!いま海保から一番近いヒーローを送って貰いましたので……」
「この海岸から五十メートル以内に人を入れないでください。コトハの心が、海に混ざりこんでいます」
これではまるであのときのようではないか。
国本の引き止める手を払って、一歩進む。
濁流と言うほどではないが、絶えず流れ込んで来る心に左腕のあざが再び蛇の姿を取り戻し海を泳いでいく。
体にまとわりつく服が重いが、いまは脱いでいる時間すら惜しかった。
「コトハ」
波立った心が徐々に奪われていく。
海面が月の光を反射してかきらきらと輝いている。
波をかき分けて進んでいると、急に足場がなくなった。
崖のように急に深くなっているのだろう。
俺は息を吸い込み、潜水する。
水のせいで視界が歪み上手く見えないが、海の深いところに光る鯨が微睡んでいた。
その周りを巨大な鯨たちが悠然と泳いでいる。
そのうちの一頭が呼吸のためにか浮上していき、途中で俺を見た。
サイレンのような音が聞こえて、それが鯨の発する音だと遅れて気づいた。
鯨のサイレンが何を意味するのかは知らないが、酷く悲しげな音だ。
コトハ。
深く潜れば、それだけコトハの心に近づいていく感じがした。
俺の心をそっと奪い、代わりにとでも言うようにコトハの心がとめどなく流れ込んで来る。
さっき海に触れた瞬間は嫌な心ばかり流れ込んで来たと思ったが、いまは真逆の優しい心ばかりが俺の心に満ちていく。
白い鯨にたどり着いて、その光り輝く体に触れると、鯨は少しだけ体を崩して俺を触手のようなもので中へと引きずりこんだ。
鯨の中は暖かく、水の中にいるような感覚なのに不思議と息ができた。
詰めていた息を吐きだし、白い巨体の中を泳ぐ。
先に行ってしまった黒い蛇の痕跡はもうどこにもない。
「コトハ」
白く光る鯨にはおおよそ必要ないであろう肋骨に守られたコトハが、少し先にいた。
目を閉じて、呼吸をしているのかすら分からない。
呼吸を確かめるよりも何よりも先に、一糸纏わぬ体を抱きしめると、コトハの体から黒い触手が伸びてきた。
いいよ。
心ならいくらでもやるから。
「帰ろう、コトハ」
遅くなった。
本当に待たせた。
お前を辛いところに置いて、俺は何もしなかった。
こんなことになるなら、もっとお前を。
無数の後悔を、懺悔を、黒い触手たちが少しずつ奪っていく。
その代わりに流れ込んでくるコトハの声は、とても幸福で、喜びに満ちている。
どうして。
いまが幸せなんて、そんなわけないだろ。
『一緒にいて』
いるよ、お前の傍にいるだろ。
だから、帰ろう。
もう、全部終わったから。
言葉を並べようとするが、コトハから直接心を注がれている俺は、その真意に、否が応にも気づいてしまう。
コトハ。
腕の中で動かないコトハは、俺よりもずっと細く、小さい。
そりゃそうか。
この前中学生から高校生になったばかりだ。
俺の年のちょうど半分。
なのに、俺のいままで生きてきた分の不幸を、もうコトハは既に接受してしまったのだろう。
もし本当に人生の幸福と不幸が半分ずつだというのなら、今ここで人生を終えようとしているコトハは、ちゃんと不幸に見合うだけの幸福を得てきたのだろうか。
なあ、コトハ。
俺はお前に、何をしてやれた?
『私を離さないで』
そうだったね。
お前は最初から、ずっとそれを望んでいた。
大切な両親に先立たれ、禄でもない養父に引き取られ、仕事優先で手のかけてやれない俺のもとへ来た。
いつか黒が漏らしたコトハの「もっと傍にいてよ」というささやかな本音。
俺はそれになんと応えただろうか。
俺はそんな望みすら、叶えられなかったのではないだろうか。
コトハがこんなにも傷ついて、傷つけられている間も、俺は傍にいなかった。
コトハを強く抱きしめたまま、俺は今度こそ応えた。
「分かった。いいよ、俺がついてる」
お前が、それを望むなら。
俺たちを包む白い鯨は、一つ大きく吼えると体を崩し始めた。
鯨だった白い光が、海に溶けていく。
俺の心を使って、黒が薄くコトハに重なって現れた。
『ありがとう』
いいよ。
お前もそれでいいのか?
黒は小さく頷いて、私もこの体を使ったから、分かるの、とほほ笑んだ。
『コトハが生きるこの世界は、とても辛い』
そうか。
分かった。
黒は消えた。
完全にコトハに溶けていった。
鯨が崩れたことによって迫りくる海水を眺めた俺は、大きく息を吸い込んで、コトハに口づけた。
コトハ、お前が望む通り、最後まで一緒にいてやるから。
だから一つだけ、俺の願いも聞いてくれ。
こんなにも抱き合っていると、耳を海に塞がれても聞こえる。
一定の心音に、俺はほっと体の力を抜いた。
それでもコトハは離さないまま、息を吹き込む。
『傍にいて、抱きしめて』
全部叶えてやるから、俺より先に、死ないでくれ。
光る鯨が海に溶けて暗い海中が光るさまは、まるで星屑をこぼしたように綺麗だった。
俺の中に残る酸素は、後どれほど俺を生かしてくれるのだろう。
光に包まれながらゆっくりと沈んでいく俺たちを、鯨が悲しげに見つめていた。
愛してるよ。
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