Step.117


長い長い夢を見ていたような気分だった。
病院で目を覚まし、見知らぬ医師に問診されるうち、ゆっくりと記憶を取り戻した私は全身の血の気が引いた。
記憶と、心が戻ってきた。

「消太お兄ちゃんは!!?」
「ここ」

病室の入り口から、いつものヒーロースーツに身を包んだ消太くんが顔をのぞかせた。
消太くんに挨拶をして、先生が出ていく。
取り敢えず生きていて良かったと安堵し、次いで頬に貼られたガーゼは一体どういう経緯なのかと顔をしかめる。
また私が何かをしたのだろうか。

「あーこれはお前と関係ない。心配ないよ、ただのかすり傷だから」

とは言うが、喋ることさえ傷に響くようで口の端からジワリと血が滲んでいるような気がする。
ただのかすり傷が、そんなにひどいわけないだろうに。
けれどそれより、私は自分がしてしまったことを回顧して戦慄していた。
私は死のうと……いや、殺そうとしてしまった。
私が死ぬだけではなく、消太くんを道連れに……。
ずっと一緒にいたはずの、黒と白も、私に完全に同化してしまった。
私は、なんてことを。

「気に病むな、お前の意思じゃない。お前には分からんかもしれないが、自殺教唆した奴がいるんだ。だからお前は、悪くないよ」

消太くんがベッドに座り、私の目をしっかりと見つめた。
慈しむように頭を撫でて、僅かにほほ笑む。

「またコトハの顔が見れてよかった」

至近距離にある消太くんの顔に、状況も弁えず赤面した。
黒と、白が同化したせいで、押し込めていたはずの心が、器を満たしてあふれ出てくる。
他にもっと言わなくちゃいけないことが有るのに、一度こみ上げた物は、飲み下すには大きすぎた。

「お兄ちゃん……好き」
「分かってるよ」

消太くんは私の頭を撫でながら、変わらぬ微笑みで言葉を返した。
知ってる。
ずっと、ずっと、お兄ちゃんは、お兄ちゃんのままなのだ。
零れ落ちる涙が恥ずかしくて、顔を伏せた。
でもこれでいいと思う。
家族じゃなくなっちゃうより、ずっと、安定したままで。

「分かってるって言ってんだろ」

呆れたような声と共に、消太くんの私よりずっと大きい手が顔を上げさせた。
いやだ、と思う間もなく、消太くんの唇が、私の口の端に触れる。

「え……?」

消太くんは顔を離して、少し眉間にしわを寄せ、私の口を拭った。
一体何なんだ、と消太くんを凝視していれば、ベッドサイドのティッシュを取って私の口を拭った指と、自身の口に滲んでいた血を抑える。
いや、待って、どういうこと。
今のは、なに?
血が付いてたってこと?
いや、そうじゃないでしょ、な、なに?

「ずっと言ってただろ、分かってるって。口にすんのは卒業してからだ。一応教師と生徒だしな。まあ、済ませてるけど」
「は……?」

分かってるって、私が、本当の意味で、好きって言っていたこと、を?
白い靄が溢れだした。
形もままならないまま病室を埋め尽くしたそれは、消太くんを絡めとって抱きしめる。

「だ、だめ今の!!だって拭いたじゃん!もう一回!」
「お前な……」

消太くんは仕方がなさそうに、呆れた顔のまま、今度は反対側にキスをした。
眉間にしわを寄せたところを見ると、やはりまた血がついてしまったのだろう。
消太くんがティッシュを手に迫り来る。
いまこそシャチョーの事務所で身につけた組手が役に立つ時!
消太くんの手をかわして掴む。
無駄のない動きで避けた私を、消太くんは呆れながらも驚いているようだった。
その間に、ぺろ、と唇についた血をキスの名残だと舐めとった。
血の味はあまりいい気分にはならないが、それでもこれが愛の証だと思えばいくらか甘美なものに思える。
思わず笑った私に、消太くんが少し引いた。

「お前、気持ち悪いよ」
「盛大に傷ついた」

じっと見つめ合ったまま、少しの間黙ってそうしていた。
唐突に二人して肩をすくめる。

「おかえり」
「ただいま」

消太くんの広げた腕の中に、今度は私の意思で飛び込んだ。
海の中よりずっと息苦しいこの世界だけど、消太くんがいてくれるなら、きっと大丈夫。
強く抱きしめてくれる腕からは、私を失いかけた恐怖と後悔と安堵が綯交ぜになって伝わってくる。
まだ少し、震えてる。

「ごめんなさい」

重なる心音を聞きながら目を閉じれば、消太くんがゆっくりと頷いたのをすぐ傍で感じた。
消太くんは後悔しているけれど、私は知ってる。
何回あの時と同じことが起きても、消太くんは、私を抱きしめてくれる。
過去か未来か、それとも別のどこかでも、きっと消太くんだけは、私を抱いて沈んでくれる。
だから、しっかり立たなければ。
もう二度と、消太くんを失いたくないから。
一人になってしまった私は、まだ上手に立てないかもしれないけど、少なくとも、貴方を失わないように。

「……好き」
「ああ」

俺もだよ、と続く言葉に目を開けば、世界が少しだけ色を変えたような気がした。




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