Step.2



小さいころ、家のすぐ傍に高校があった。
そこに通う二人のお兄ちゃんは、ヒーローを目指しているのだと楽しそうに語ってくれた。
光に満ちて、二人の傍にいるだけで、ぽかぽかと胸が温かくなるような感覚に、気づけは白いフワフワの靄が私の周りを取り巻いていた。
何の個性かは分からなかったけど、そんなものはどうでもいいほど、毎日が楽しかった。
お父さんもお母さんも、いわゆる親バカというやつで、蝶よ花よと育てられた私は、少しばかりやんちゃな年上のお兄ちゃんたちと接することで、世間知らずに育つこともなく、すくすくと正しい成長を遂げていた。
お兄ちゃんたちが高校を卒業して、ヒーローとしての仕事が忙しくなってきた時も、私は寂しくなかった。
しょーたお兄ちゃんはなかなかテレビで見ないけれど、それは高校にいるときから言っていたことだし、ひざしお兄ちゃんはいっぱい活躍しているのがテレビで何度も報道されていたから、どちらのお兄ちゃんもとても誇らしかった。
私の個性じゃ、ヒーローにはなれないかもしれないけど、いつかお兄ちゃんたちを手伝えるようなお仕事につきたいと、浮かれた頭で思っていた。
けれど私の個性は、5歳を境に変質を遂げた。
両親が不慮の事故で死んだのだ。
ヴィランでも、悪意ある事故でもなかったから、ヒーローは助けてくれなかった。
私を庇った母を、さらに庇った父親は、見るのもはばかられるほど酷い損傷だったが、私は忘れてなるものかと目を見開いて脳に焼き付けた。

ヒーローは、誰にでも現れるものじゃないんだ。

5歳にして知った、世の中の現実。
どろりとした黒い何かが、白い靄を押し流した。
それから、唯一の親戚の家に引き取られた私は、毎夜の暴力に、黒い感情をため込んでいた。
その親戚というのが、どうしようもない盆暗で、そこそこ金を持っていた両親のすねをかじり、ついには金だけ渡されて勘当されたアル中なのだという。
幼い私は親戚を選ぶこともその親せきに引き取られることを拒否することもできず、酒に溺れる男の暴力に耐える日々が続いていた。
酒におぼれる奴って言うのは総じてろくでもないやつで、自分よりも小さく力で劣っているものしか殴ったり暴言を吐いたりしないのだ。
だから、溺れるとはいってもそのどこかで冷静な思考が、殴る箇所を服で見えない位置にしていた。
家庭環境はそんな感じで最悪だったが、それでも何とか中学まで持っていたのは、学校が楽しかったからだろう。
両親が死んで、あの男に引き取られる際に転校した小学校から同じ学校で過ごして来た、同学年の子たちよりも少し大人っぽい少年が私の親友だった。
彼は唯一、私の家のことを知っていた。
そして、私に巣食う黒い感情のことも。
知った上で何も聞かずに遊んでくれた。
小学生にあるまじき驚異の冷静さに、私は何度救われたことか。
私は別にどうして欲しいわけでもなく、ただ、家の外にいるときは、そんなことを忘れて遊びたいだけなのだ。
負の感情を完全に隔絶した私は、次第に肥大化するそれに気づかず、私の中にあるすべての負の感情を溜めて溜めて、黒い卵がすくすくと育っていた。
何のきっかけがあったわけでもない。
単純に、卵が孵化しただけだった。
その朝、リビングで朝食を取っていると、卵の割れる音がした。
直後凄まじい勢いで無数の黒い蛇が濁流とともに私の体から溢れ出し、それがおよそ30分も続いた。
思考なんてぐちゃぐちゃで、感情が失われて行く感覚からも目をそらした。
いつか来ると分かっていたからか、案外冷静な私は何年かぶりに見た白い感情で私の周りを覆った。
家中に広がった黒の中から私の写し鏡のような分身がむくりと起きあがり、私のほうへと手を伸ばす。
「もう頑張らなくていいよ。希望なんてあるから辛いんだ。私に全部任せて」
顔を動かすことも億劫で、目だけを黒い私に向ければ、私は泣いているように見えた。
本当は助けてほしい。
でも、ヒーローは皆に平等に現れるわけでは無いと、知っている。

「いいよ……もう、いい……あげる」

白い半球のバリアに手を伸ばした私に黒い私も手を重ねるようにして合わせた。
黒が私の中に満ちたけれど、感情を離してくれているのかそれを理解するには及ばず、ただ失った感情が埋められたような心地よい感じがした。
私は無意味に天井を見上げ、懐古する。
お母さん達が死んでから、嫌なことばっかりだ。
あの時、私だけ生き残ったのが、間違いだった。
いつの間にか右手に握っていた包丁を、ゆっくり自分の首に当てる。

「もう、大丈夫だから。私がいるから、少し寝てて、ね」

包丁の刃先が黒い私の手に握られて、そしてどこか遠くへと投げられてしまった。
視線でそれを負うこともせず、右手をゆっくりとまた下ろした。
黒い私が、私を抱きしめて瞼を下ろさせた。
ああ、眠い。
目を閉じてからは、とても長い微睡にいたような気がした。
温かくて、心地よくて、深く深くへ落ちていく。
けれど、どこかで私を呼ぶような声が聞こえて、暗闇の中でそちらを向いた。
誰だろう。

「大丈夫、目を閉じて」

黒い私が顔を近づけて私の左手を取った。

「ねえ、誰か呼んでる」
「目を開けても傷つくだけ。私がいるから、大丈夫」

左手から黒い感情が溢れだすのが分かる。

「くそ……あいつ……!」

黒い私はどこかを睨みつけて私を撫でた。

「すぐ戻ってくるから、目を閉じて待ってて」

違うんだ。
違う。
だって、知ってる。
この声を。
私は、この声を知っている。

「――お前を、助けたいからだ。――……コトハ」

痛いほどの光の濁流に襲われ、目を見開いた。
思考が戻る。
今何と言われたのかを思い出して、ぽたりと涙が落ちた。
私の中にいる黒い私から、希望の感情が溢れだしている。
体が熱い。
同情でも、悲愴でもない、ただただ真っ直ぐな、私を助けようという感情に強く打ちのめされた。
これだから、好きなんだ。
お兄ちゃんが近づいてきて私の前髪を払った。

「コトハ、遅くなって悪かったな」
「消太、お兄ちゃん……」

高校の時と、何ら変わらない、強い瞳。
私の黒い世界を弾き飛ばしておいて、なんでもないような顔で――。

「助けに来た」

水面に落ちた水滴から波紋が広がるように、私の心に降り注いだ正の感情が津波のごとく溢れ出した。
どこまでも続くような黒い感情に覆われた家が、今度は白い濁流で覆われる。
濁流に包まれたそれらから、白光を放つ獅子がひざしお兄ちゃんを銜えて私のほうへと歩いてきた。
その背には小さい私が乗っている。
物凄く嬉しそうに両手を振っている様子に、私も思わず笑みがこぼれる。

「大丈夫か、コトハ」
「消太お兄ちゃん……ありがとう、私も、黒い私も、助けてくれて……」

勢いに任せて抱き付いた消太お兄ちゃんは、ずっと昔と同じ匂いがして、ひどく安心した。
私のヒーロー……。

「ひざしお兄ちゃんも、来てくれてありがとう……」
「俺はオマケかよ!?」



- 2 -

*前 | 次#

戻る