君と明日のエトセトラ
僕が、彼女の涙を知らないことに長い間気が付かなかったのは、鈴原祈蕗という少女に影がなかったからだった。
それが表面だけの彼女だということは出会ってすぐに気づいたけど、それでも、祈蕗はつらいことを隠すのが上手で、楽しいことを共有するのが上手だった。
だから、というのはおかしいだろうか。僕は、彼女はいつも微笑んでいてくれるものだと、なんの疑問もなく思い込んでいた。
「……祈蕗?」
夜も更けて、オフィスにはまだ灯りが点っていて。またあんずちゃんが残って仕事でもしているのかと見に行った。彼女はひとりでなんでも背負いすぎるきらいがあるし、女の子なのだから、こう夜遅くまで仕事をさせるわけにはいかない。そう思って見に行ったオフィスの中には、ひとり、ぽつんと女性がいた。あんずちゃんではなかった。その後ろ姿は、見紛うはずがない、僕のたいせつな恋人だった。
「……なあに、まだいたの」
抑揚のない、鼻声で彼女は言った。声で僕と認めたのか、目だけは一向に合わせようとしない。顔を見られたくないのだろう。そんなことすぐにわかったけど、帰るわけにはいかなかった。だって、泣いてるから。
「どうしたのかな、何かあったんだね」
僕は、動揺した。少なからず動揺していた。泣いている彼女の姿を、ああそれも人間だとすんなり受け入れた自分がいた。明るい彼女も、泣いている彼女も、すんなりと信じられる。それなら、彼女は今まで、一人でどこかで泣いていたかもしれない。それに僕が気づかないで、祈蕗はいつも笑っているな、なんて思いながら。彼女は孤独に、自分の弱い面を殺していたかもしれないのだ。
「ごめん、ひとりにしてほしいな」
もう彼女の瞳は乾いていて、ただ目元だけが赤くなっていた。擦ったのだろう、これでは明日腫れてしまう。
「僕がここにいるのは、嫌?」
「今は、ちょっといやかな」
今は、を強調した彼女の言葉を正確に受け取っておいて、僕の心の生身の部分は簡単に薄く抉れた。何かあったとき、そばに誰かがいてほしいひととそうでないひと、両方いる。彼女が後者だっただけだ。そして僕が、彼女にとっての「他人」の域を、出られなかっただけだ。
「……ひとりで、生きられるように、ならないでほしいな」
彼女が、僕の顔を見た。快晴の瞳は、涙に濡れていても曇天にはならずに、ただ晴れの下の眩しい雫のようで。
「完璧に、ならないでほしい。じゃないと、僕は、僕が君の傍にいていい理由がわからなくなっちゃうよ」
彼女はしばらく、僕をじっと見ていた。それから顔を伏せて、囁くように「お互い様じゃん」と言った。僕は、ひとりでは生きられない。ひとりでも立っていられるけれど、夢のためには、ひとりで行動するのは最善ではない。
祈蕗は、僕に必要だ。
それが、どんな言葉で伝えれば、伝えたいように届くのかが一向にわからなくて、僕はただ短く息を吐いた。
「……人前で泣きたくないの」
静かに、祈蕗は言った。やっぱりこの子は泣かないんじゃなくて、ただ「泣きたい」を表出しないことに長けてしまっただけなのだ。彼女を育ててきたもの、その中のどれが彼女をそうしたのわからない。わからなくても、僕なら変えられるんじゃないか、なんて、思っていたから。
僕は今、彼女を抱きしめるための腕だって、掛けられる言葉だって、何ひとつ持っていないのだ。そうしたい理由ならいくらでもあるのに。
「祈蕗」
名前を呼ぶ。
彼女は苗字で呼ばれることを好む。理由はよく知らないけど、あまり、自分の名前がすきではないんだろうなと思う。
けれど、彼女は名前で呼ばれることを拒みはしない。彼女を名前で呼ぶのは、考えてみれば、僕と渉くらいだ。他の人は苗字で呼ぶか、春川くんなんかは「きいちゃんせんぱい」と呼んでいる。ほとんど原型のないその呼び名も、あだ名って嬉しいよね、と頬を綻ばせていた。
「……祈蕗」
靴を脱いで、オフィスチェアに座って膝を抱える彼女の前に、僕は屈む。地面に膝をついて、構図だけ、まるでどこかのナイトのように。
僕が本当に騎士様なら、彼女が辛いときに求める相手なら、もっとできることがあったかもしれないのに。
「うわ、膝なんてつかないでよ」
「こうしないと、君の顔がみえない」
「みてほしくない」
「どうして?」
「弱いってばれちゃうでしょ」
がたん、と大きな音がした。僕が立ち上がって、手をついたデスクにあったペン立てが倒れた音だ。祈蕗も、驚いたように僕を見上げていた。
どう、すればいいのか、僕になにができるのか、どうしたら、どこか隅で膝を抱えて泣いている小さな祈蕗を助けられるのか、わからなかった。
彼女は、安心を他人に求めることを、諦めてしまっているんだと思った。
「祈蕗、僕は、」
君が、どうして。
「……ごめん、そんな顔しないで」
ごめん、と繰り返して、俯いた彼女が握りしめた手の先で、大きなフリルのあしらわれた袖口がくしゃりと歪む。
僕は、君に、君の感じる心を、服のシワに逃がしてほしいわけじゃないのに。
「祈蕗、抱きしめてもいいかな」
普段なら許可は言葉にしない。目が合えばそれとわかるからだ。今、敢えて言葉にしたのは、ここがオフィスで、職場だからで。誰もいないとはいえ、公共施設であることに変わりはない。
「……帰ろっか」
祈蕗は言った。それは一瞬拒絶と判断しかけたが、彼女の住むマンションまで一緒に行こう、という意味だとわかった。彼女が今、ひとりを選ばないでいてくれたことが素直に嬉しかった。
彼女の車の助手席に座る。エンジンをかけると、甘い声の恋愛ソングが流れてきた。暴力的とも感じられるベースとギターに乗せて、直接的な愛の言葉が連ねられていく。これくらい簡潔に愛を伝えられたら、彼女にも届くのだろうかと考えたけど、きっと彼女が信じられる感情には、言葉は関係ないのだろう。
十五分ほどで彼女の住むマンションに到着して、風呂を沸かす間に軽く食事を作った。時間は既に深夜に近かったから軽いものにした。ふたりともそれほど量を食べないから、手軽なメニューでも事足りた。遅い時間に静かに用意する食事は、なんだか悪いことをしている気分になった。夕食を済ませて彼女の後に入浴をして、リビングに戻ると彼女の姿はなかった。寝室に入ってみれば、彼女はだらりとベッドに横になっていた。
「祈蕗」
「ん、起きてるよ」
はっきりとした声で、静かに彼女は言った。
「無理言ってごめんね」
へらりと笑って、祈蕗は起き上がる。もう一度泣いたような様子はなかったけれど、僕がここにいるせいで、無理して笑っているんだろう。それくらいわかる。
「無理を言ったのは僕のほうだよ」
ベッドに足をかけると、ぎし、とスプリングが軋む音がした。彼女の隣に座って、手を広げる。
「おいで」
彼女は普段、僕の身体のどこかに触れたがるのに、今日に限って少しも触れてこなかった。彼女が僕に触れたがるのは、安心、するからだと思う。でも、心が不安定な今は、安心を求められない。求めて、満たされてしまえば、きっと涙が溢れるから。
「……ありがとう」
観念したように呟いて、彼女は僕の腕の中に収まる。いつも朝早く起きて丁寧にセットしている、ほんとうはストレートで綺麗な彼女の髪を、指先で梳くように撫でる。背中に回された彼女の手は熱く、胸元にぐりぐりとゆるい力で押し付けられる頭がこそばゆい。
「祈蕗、がんばらなくていいよ」
彼女の身体が硬直する。
こう言ってほしいんだろう、ではなくて、本当に、がんばらなくていいと思ったから、そう言った。彼女は一度がんばると決めたら、自分の限界が見えなくなってしまう子だから。ほどほどにしてほしい。僕だって、常に傍にいられるわけじゃない。そうできたらいちばん良いけど、そうできないから。
ふと彼女の手が緩んで、静かに僕から離れた。彼女は笑っていた。眉尻をさげて、弱々しく。
「やめてよ、泣いちゃうじゃん」
「泣いていいよ」
僕の、目の届く場所で泣いてほしい。慰めるのは僕じゃなくていい、他のひとでもいい。でも、ひとりでは泣かないでほしい。涙を自己完結に留めてしまうのは、それはきっと、癒えない傷が蓄積されていくだけだから。
「君が、……君に、生きるのを楽になってほしい。悲しいことや辛いことが、無い人生は有り得なくても、その苦しみを分担して、安心して呼吸をしてほしい」
彼女の手に、自分の手を重ねる。分厚いメガネのレンズの向こうで、快晴の瞳はまっすぐに僕を見ていた。
「君の、酸素になりたい」
わたしの台詞じゃん、と言って、祈蕗は泣いた。それは悲しくて冷たい雫ではなくて、僕が君に寄り添えたことの証明だったらいいと思った。
少しの間、彼女は涙を流して、疲労が溜まっていたのだろう、それからすぐに眠ってしまった。
夏のような色のカバーを掛けた掛け布団を、彼女の肩まで引き上げる。下を向くまつ毛に、形の良い唇に、小さな耳に、僕はまた恋を塗り替える。
世の中の、恋と呼ばれるものの全てが、このような色をしているわけではないと、僕は少し知っている。でも、僕はこれ以上に、祈蕗と生きたい恋を知らない。それなら、これでいい思った。互いの呼吸を楽にするため。舗装されていない道を、ふたりで手を取り合って歩くため。星の見えない夜闇で、君の瞳だけを見つめるため。
そんな、僕らふたりのためだけの、ふたりぼっちのしあわせ。それで良いと思った。
明日、あさって、しあさって、君の目に映る世界が、君を取り巻く世界が。少しでも君に優しかったら良いと、ただそれだけを祈っている。