「一星くん」

 昨晩の出来事を未だに自分の中でうまく処理することも飲み込むことも出来ずに迎えた翌朝。食堂に着いたその瞬間、一星に声をかけてきたのはやはり夜月だった。昨日の今日であるため思わず身構えた一星だったが、夜月はあたかも何もなかったかのごとく、普段通り気持ちが全く読み取れない表情を浮かべながら、薄らと口角を上げた。

「おはよう」

 一星は自分に向けられるその笑みを一瞬だけ見て、すぐさま目を逸らした。そして夜月に挨拶を返すこともなく、トレイを手に取って朝食の料理を受け取り始める。さすがに無視したら堪えるだろうと、気付かれないように夜月を横目で伺えば、当の本人は未だに笑みを浮かべたまま一星の方を見つめていた。
(だから、なんなんだよお前は一体…!)
 本心を全く掴めない夜月に、一星は苛立ちを募らせた。さっさと料理を受け取り、一星は一番遠いテーブルへ腰を下ろした。もちろん彼女に背を向けるように。当の夜月は、そんな一星の後ろ姿を見届けた後、厨房へと消えていった。


「一星くん」

 朝食後。午前の練習に向けて誰よりも早く一人で練習の準備を行っていたそのとき、背後から聞こえてきたその声に、一星は眉を大いに顰めた。

「なんですか?」

 全くもって歓迎していない表情と、棘のある声色でそう彼女の方を振り返った一星は、最後に「……風秋さん」と彼女の名前を挑発的に付け足した。
 しかし、またもや夜月はその一星の態度を受けても堪えることもなく。かといって、返事が返ってきたことを喜ぶ素振りを見せることもなく。相も変わらず、何の心情も読み取れない笑顔で一星を見つめていた。その様が気に食わなくて、一星は歯軋りをしてしまいたい衝動に陥る。

「午後は何をするの?」
「……」
「今日の練習は午前中だけだよね」
「……別に、アンタに関係ないだろ」
「ううん、あるよ。あるから聞いてるの」

 どれだけ威圧的に言い返しても、飄々とした態度でそれは返される。主導権を握られないこの状態が、一星の苛立ちを更に煽らせていく。しかし、顔を歪ませた一星に臆することもなく夜月は穏やかな表情で彼からの返答を待っている。返事をしなくてさっさと退散してくれる奴でもないだろうし、このままじゃあ埒があかないと一星は考え、溜め息を漏らしながら口を開いた。

「……特に何も」
「そっか」
「……」
「それじゃあ、買い出しを手伝ってくれないかな?」

 秋さんは別用があって行けないらしくって。実は今日買うものも多くて、男の子の手を借りたいなと思ってたの。ああ、でも適当にそこにいた一星くんを選んだわけじゃないよ? 一星くん、いつも練習後にも一人で特訓しているでしょ。だから、用事がなくて暇だったら絶対に特訓するだろうから。それをさせないためにも、一星くんを連れ出そうと思って。これでも私、サポーターだから。マネージャーでなくとも、選手の体は気遣わせて貰うからね。

「……で、手伝ってもらってもいいかな?」

 一切の口出しも許さないほど、流暢に理由を述べてから最後にまたそう改めて問いかけた夜月に、どこの何から突っ込めばいいのか分からない一星はただ呆然とするしかなかった。しかし、徐々に彼女の要請に一星は思わず鼻で笑った。
 
「はっ。安っぽいお気遣いをどうもありがとうございます。すみませんが、他を当たってくれませんか? 時間の無駄なので」

 わざと冷たくあしらうように、一星はそう言い放った。これでこの女もさすがに俺と関わるのを控えるだろう。ここまで酷い言い様をされたら、女はみんな泣いて逃げるからな。一星は内心ほくそ笑みながら、夜月がどういうような行動に出るのか待ち構えていた。が、しかし。

「そっか。それじゃあ、仕方ないね。他の人に聞いてみる」
「……」
「うーん、この気遣いは安っぽいか……。なら、もっと一星くんの納得いくような気遣いが出来るように善処するね。言ってくれてありがとう。それじゃあ、体には十分注意して。今日も練習頑張ってね」

 そう言っては屈託のない笑顔を残し、夜月はその場をゆっくりと去った。逃げるようにでもなく、また悲しく足取り重そうにする訳でもなく、いつも通り何ともないように踵を返すその後ろ姿に耐えられず「ちっ」と一星の口から舌打ちが飛び出す。怯むことも戸惑うこともなく言い返してきた彼女に、一星はただひたすら疑問と苛立ちを募らせていた。




 練習後。
 目の前に広がる湖は、空の色を映し風と共に揺らめき、時には波紋を作っている。この辺りは自然豊かで、非常に空気は澄み渡っている。しかし、一星自身の気分が晴れやかに澄み渡ることはなかった。目先の湖の青を一人、何を考える訳でもなくただ無心で眺めながら、一星は昨晩の夜月とのやり取りを思い返していた。

「アンタはどうして、そこまで俺に関わろうとするんですか?」
「どうしてって……」
「……」
「一星くんのことが好きだから、かな?」

(何が好きだから、だよ……! 意味が分からないんだよ! しかも、あんな平然といえるものなのかよ、普通)
 
 ペースを乱されてしまっている気がしてならない一星は、また我慢出来ず舌打ちをした。そして「クソっ」と顔を歪ませながら苛みを吐き出した。ここまで来ると、あの女も何か裏があって俺に接しているようにしか思えない。ただのサポーターと思っていたが、あいつも要注意人物として注意するべきか? きっと俺を絆そうとしているだけだ。そして油断させようとして、何か情報を搾り出そうってか? 女のやりそうな手段だ。悪い想像だけは容易に浮かび上がる。ああいうヤツこそ、特に信用が出来ないんだ。一星は手に拳を作ってそれを強く握り締めた――そのときだった。

 二つの足音が、こちらへ近付いて来る。視線だけでそちらを見てやれば、そこには灰崎とヒロトの姿があった。

「オレたちがこのまま黙っていると思うか?」
「……へえー。俺をどうにかするつもりなんだ?」

 一星は恐縮することもなく、あくまでも挑発的に灰崎のその問いかけに応えた。

「まあ、湖のほとりで転んで? 足に怪我をすることもあるよなァ」

 ヒロトのその言葉で、ようやく二人の企てを理解した一星は思わずこみ上げた笑いを耐えることは出来なかった。「分かりやすいねぇ、君ら」いかにも馬鹿な奴らが考えそうな行為だなと、内心で嘲る。これだから低脳な奴らは嫌いなんだ。
 詰め寄られても尚、怯む様子を見せない一星に灰崎の怒りもピークに達する。

「それ以上、無駄口叩けないようにしてやるよ!!」

 拳を一星に向かって勢いよく振りかざした。しかし、一星はそれを悠々と避けてかわしてみせる。灰崎が連続で何度も拳を振るっても、それはなかなか当たることがない。一星のそのずば抜けた反射神経に、灰崎は遂に息を荒げてしまった。そんな灰崎の様子を見て、一星はすかさず煽った。

「どうしたの? 足は一流だけど、手は三流以下みたいだね」

 喧嘩ならこっちだって負けない。一星は腕っ節には自慢があった。灰崎相手にはポケットから手も出さずとも余裕でいた一星だったが、その隙をついてヒロトが背後から詰め寄ってきたことに気が付けなかった。はっ、とした時には後ろから羽交い締めされるように捕らわれた一星はようやく焦りの色を顔に浮かべた。

「おーっと、背中がガラ空きだぜ。 灰崎!やっちまえ!」

 流石の一星でも、後ろから捕まえられてしまうと身動き一つすら取れやしない。そんな一星の様子を見て、灰崎は満足そうにほくそ笑む。そして再び拳を作って、大きく振りかざした。こんな奴らに殴られてしまうのはかなり不本意だが――ここまできたら仕方がない、俺の一本負けだ。素直に一星はそう観念して口角を上げた。

 ――バシィッ!!
 
 目を閉じることなく、拳を受け入れようとしたそのとき、一星の思考が止まった。刹那、この穏やかな湖のほとりには似付かない痛々しい音が響き渡った。拳を叩きつけられたその衝撃で、スローモーションのように体が飛ぶ。軽々と飛んで行ったその華奢な体は、ドサッという音をたてながら地面へ倒れ込んだ。……痛くない。自分は痛くも痒くもない。なぜ? 否、なぜならそれは目の前に広がる光景が答えを出している。全てを物語っていた。はっと息を飲んだ時に思わず、一星は目を見開いた。

「……!?」

 夜月が、一星の目の前で倒れている。それだけで今何が起こったのか、全ての事実を理解することが安易に出来る。出来たからこそ。混乱する頭で状況を追うように把握し始めていく。自分の理解力の良さをこの時は恨んだに違いない。なあ、何を考えているんだよお前は。馬鹿なんじゃないのか? なあ、……なあ。
 一星は息の吸い方を一瞬、忘れた。
 自分を殴ろうとしていた灰崎との間に突然庇うように夜月が割り込んで、そのまま灰崎の強烈な一発が彼女の頬にぶち当たったのだ。そして彼女は、うつ伏せに倒れたままピクリとも動かない。

「なっ!?」
「マジかよお前!!」

 さすがの事態に、殴った張本人である灰崎も驚きを隠せないでいた。一星を背後から捕らえていたヒロトも、その状況を把握するなりすぐさま手を離した。拘束が解かれた一星は急いで夜月に駆け寄り、倒れた体を起こした。一星のその行動には何の考えも企みもない、ただ無意識のうちに行われたものだったことは当の本人が一番気付いていないことだろう。

「いっ…たたた……大丈夫? 一星くん」
「お前…!」

 どうやら意識は僅かに残っているらしい。そのことに一星はほっと胸を撫で下ろしたくなるような安心感を覚えた。しかし、殴られたその頬は痛々しいほどに赤黒く腫れていて見ていられるものじゃなかった。男ならまだしも、女の顔にこんな痣はとてもじゃないけど醜すぎる。……なんで、どうして、そこまで。意識が朦朧としている目の前の女に、疑問しか浮かび上がらない。俺のことが好きだから、なのか? そんな意味の分からない理由だけで? そこまでして俺を庇う必要なんてあるのか!? 一星は夜月にそう強く問いかけたい気持ちでいっぱいだった。
 そんな一星に対し、灰崎はとあることを思いついたかのように息を呑んだ。
 
「……まさか。そういうことなのか?」
「は? 何いってんだよ灰崎」
「このサポーター、こいつが豪炎寺や鬼道をハメてからも一星にやたら絡んでたよなぁ?」

 夜月に対して心配していた顔から、一気にターゲットを突き刺すような視線にへとそれは変わった。「お前、一星とグルなんじゃねえだろな!?」その瞬間、夜月を支えていた一星を無理くりに突き飛ばし、灰崎は夜月の胸ぐらを掴んだ。そして顔を詰め、至近距離でそう激しく尋ねた。こいつ……幾ら何でもその考えはおかしいだろ? 元より気性の荒く頭に血が上りやすい灰崎の、その更に冷静さを欠いた発想に一星ですら思わず目を丸くした。

「……ちがう」
「お前の行動が証拠そのものじゃないのか!?」
「お、おい! 灰崎! さすがにサポーターには辞めとけ!」

 激情的になってしまっている灰崎に、もはやヒロトの言葉も届いていない。痛々しく腫れ上がってしまっている頬に向かって、もう一度灰崎は拳を振りかざした。一星は目を瞑りたくなる衝動に駆られたが、それ以上はもうさせまいと手を伸ばしたそのときだった。

「お前たち! 何をやっているんだ!!」

 遠くから円堂の叫び声が聞こえた。灰崎もこれには手を止め、夜月を解放して声のする方へと振り返った。そこには円堂とマネージャーである大谷つくしが血相を変えてこちらへ駆け込んで来ていた。一星は自身がまだ地面に座り込んでいることを思い出し、すぐさま立ち上がった。一方、夜月は胸ぐらを掴まれていた状態から解放された安堵からか、はたまた力尽きてしまったのか、そのままうつ伏せに倒れたまま動かなかった。

「きゃあ!! 夜月ちゃん、大丈夫!? すごく顔が腫れてるわ、早く手当てしないと…!!」

 つくしに抱えられるように体を起こされ、夜月はううん、と唸っては「これは、事故だから……」と苦笑を浮かべ、頬を押さえながらゆっくりと立ち上がった。しかし力が入らないのか重心がよろけ再び倒れそうになるが、つくしがすかさず支えに入った。
 ごめんね、と力なく笑うその女の行動が俺には分からない。何一つ理解できない。
(なんなんだよ、一体。っ、なんなんだよ……)
 つくしに支えられながら寮へと戻ろうと足を動かした夜月は、ちらりと一星の方へと視線を送った。気付かない振りをしたかったけれど、気持ちに反して己の神経が彼女の方へと注いだ。何度見ても赤黒く腫れ上がったその頬は目を隠したくなるくらいに酷いものだった。

「一星くんに当たらなくて、良かった」
 
 夜月はか弱い、消え失せてしまいそうな声で、また力なく笑った。そしてつくしと共に寮へと踵を返す。その弱々しい彼女の後ろ姿を見て、先ほどの彼女の笑みが頭に浮かんで、彼女が倒れる瞬間が蘇って、灰崎に殴られる寸前に彼女が目の前を飛び出てくる瞬間を思い出して、昨晩の彼女の言葉が再び頭の中に過って。
(いい加減に、してくれよ……)
 一星はぎり、と音を立てて歯軋りをして、拳を強く握り締めた。


//190602


  

back