居心地と気分、どちらもすこぶる悪い状態の中で夕食を食べ終えた一星は誰よりも一足先に入浴を済ませ、自室へと戻ってベッドに身体を沈ませていた。毎日欠かさず行っていた食後の特訓は、今日も控えることにした。身体の調子的にはもちろん、今日の昼間の出来事のお陰で集中が出来ないことは察していたからだ。
(……)
別に、助けて欲しかったわけじゃない。助けてもらおうと思ったわけでもない。それなのにアイツは、俺を庇った。紛れもなく自分の意思で。だから、挙げ句の果てに選手にも俺とグルかもしれないという疑惑をかけられた。どうしてそこまで俺に関わろうとする? 何のメリットがある? 俺を絆すためには、自分が傷めつけられるのも、痛い目で見られるのも良いっていうのか?
一星はまた、もくもくと煙が立ち上がるように苛立ちが込み上がっていくのを感じた。しかし、あの瞬間――夜月が自らの前に庇うために飛び出し、目の前で吹っ飛んでいくその光景がフラッシュバックする度に胸がずきりと痛むのを感じていた、その時だった。
軽快なノック音が、一星たった一人がいる部屋に響き渡る。考え事をしている最中の突然の出来事に、肩がびくりと震えた。けれどすぐに冷静さが戻ってきて、ノックをした人物の予想が始まる。同室の岩戸はノックなんてしてこない。じゃあ、灰崎か吉良か。そういえば昨晩にも同じようなことを考えていたなと思い出すと、一星の頭に浮かんだのは当然あの人物だった。振り払いたくなるような感情が一星を纏う。正直、無視すれば良い話だった。今は誰とも顔を合わせる気分じゃない。しかし一星はなぜか気乗りしないながらも、ベッドから体を起こしてドアの前に立っていた。
「一星くん。こんばんは」
ドアを開けると、そこにいたのはやはり夜月だった。普段と変わりなく、業務に徹するために動きやすそうな私服を身に纏っているが、いつもと違うのは言うまでもなくその痛々しい頬だろう。手当をされたのか、白いガーゼが小さな頬を覆っている。真っ先にそこに目がいった一星だったが、当の本人はどこかあっけらかんとしているのがまた気に障った。
「……風秋さん。どうしました? 何しにきたんですか」
自分が少しでも心配に近いようなものをしてあげてやったのが、何だか馬鹿馬鹿しい――。そんな気持ちから、相も変わらず刺々しい声色で夜月を突き放そうとする一星だったが、どれだけ突き放しても彼女には通じないことをなんとなく気づき始めていた。
そして、そんな一星の問いに夜月はゆるりと口角を上げた。
「一星くんの湿布」
「……」
「もうお風呂入ったよね? だからまた手当てしないと」
「……」
「ってことで、お邪魔するね」
「えっ、お、オイ! だから勝手に入るな!」
「でも、一星くんはどれだけ待ってても許可なんてくれないでしょ?」
そしてこちらも相も変わらず、人の承諾も得ずに部屋へとズカズカ入り込む図太い神経に一星は呆れながらも、最後に言い放った夜月の言葉に思わず図星だと嫌でも痛感し、口を噤んだ。主導権を握られているこの感じがたまらなく苛立つ――はずだったが。
なぜか今日はどうしても、それ以上彼女に対して一星は嫌悪感を抱くことは出来なかった。
「一日でも結構マシになってきたね。よかった。でも無理な特訓はまだダメだからね」
言われるがままにベッドへ腰を下ろし治療が施される最中も、夜月に労わりの言葉を掛けられている間も、一星の脳裏には今日の昼間のことばかりが浮かんでいた。自分の心の中でぐるぐると渦巻いている悩み――というには綺麗事すぎるけれど――それを解決するには、今ちょうど後ろにいる奴に聞けばすぐなんだろうけど、容易くそれを出来ていれば困っていない。一星は軽く、後ろにいる人物に気付かれないように息を整えた。
「………」
「………」
「……なあ」
「はい」
「顔」
「うん」
「……大丈夫なのか」
言った。俺は確かに言った。言ってしまった。
しかし直後、後悔に似たようなものやら恥ずかしさやらなんとも言い難い感情がどっと溢れ出し、一星はすぐさま前言撤回したくなった。けれど、それをする前に夜月がその問いかけに対しての返事が返ってきて、口を噤んだ。
「うん。ありがとう、心配してくれて」
別に心配なんか。いつもならそう言い返していたが、一星はその言葉をすんなり受け入れた。夜月の声は、淡々としているようで穏やかさを感じる、とても落ち着いたものだった。だからこそ一星にとって、彼女の思考が読み取れないのだ。はじめは不気味ささえ感じていたが、今となればもう慣れてしまった。
めくりあげていたシャツを下されたとき、それは手当の完了を示す。一星はその合図と共に、後ろに体を振り向かせて夜月と向かい合った。痛々しい夜月の手当された頬が、昼間よりも近い距離で目に入る。歯の一番奥で、思わず歯軋りをした。
「……馬鹿じゃないのか、お前」
絞り出したのは、その程度の気遣いしか出来ない言葉だった。
「……灰崎くん、直接謝りに来てくれたよ。というか、あれはいえば、事故みたいなものだし」
「っ、は?」
「灰崎くんの気持ちだって、分かるから……」
どこまでも人を責めずに解決しようとする夜月に、先ほどまでは湧き上がらなかったはずの苛立ちがまた込み上がってくるのが自分でも分かった。しかし、眉間を寄せ、だんだんと険しい表情に移り変わっていく一星に気が付いた夜月はそれに臆することなくいつも通り、へらりと笑った。
「ふふ、そんなこと聞いてないって顔してる」
「……」
「なんであんなことしたのかって?」
「……」
「簡単だよ。一星くんが危なかったから。だから、居ても立ってもいられなくて」
「……それが馬鹿だって言ってるのが分からないのか?」
「ちがう」
「え」
今までへらへらしていた表情ばかり見せていた夜月が、突然一星に真剣な顔を見せる。初めて見た夜月の表情に、一星も思わず言葉が詰まった。
「……わたし、この前の試合を見ていて、本当に胸が張り裂けそうなくらい辛かったの」
一星の目をまっすぐに見つめながらそう言う夜月に、また一星も目を離せなくなる。
「だからね」
けれど、だんだんと夜月の視線が下がっていく。俯いた彼女は、ひどく小さくみえた。
「……好きな人が傷ついてる姿は、もう見たくないの」
そして、夜月のその言葉を耳にした瞬間。また昼間の出来事が、頭の中をフラッシュバックする。傷だらけで横たわる夜月の姿。昔、あの日、俺から全てを奪ったあの時のシーンとシンクロするように、みえて――。一星は無意識のうちに、目の前にいる夜月のガーゼをした頬に手を伸ばした。一星の突然の行為に、夜月も俯かせていた顔をぱっと上げた。至近距離で、二人は見つめ合う。先に我に返ったのは一星だった。
一星はその距離に思わずはっと息を飲む。そして勢いよくその手を離し、目を逸らした。
「………」
「………」
気まずい。すこぶる気まずい。どうしてこうなってしまったのか。いや、自分の無意識の行動が全ては今のこの空気を生み出してしまったのだが。一星は頭を抱えようにも出来ない状態で、すぐ目の前にいる夜月を見てごくりと生唾を飲み込んだ。この状況を打破するために思いついた一つの問いかけを一星は彼女にぶつけた。しかしすぐにこの質問をしたことを後悔することとなる。
「……アンタの好きっていうのは、仲間としてだろ」
「ちがうよ」
「は」
「もちろん、男の子としての好きだよ」
「……」
一星は逸らした目を、もう一度夜月の表情を確認するために移動させた。するとどうだ。夜月はなぜか嬉しそうに笑っている。駄目だ、やっぱり主導権を握られている気がして気に食わない。
「……ふふ」
「なに笑ってるんだよ、あんた」
「あんたじゃないよ」
「……どうして笑ってるんですか? 風秋さん?」
「ふふふ」
平然と言い返してみるも、表情の変わらない夜月を見てお手上げになりそうになる。気に食わないはずなのに、一星は今のこの状況に不本意ながらどこか落ち着きを覚えていた。チーム内で今、邪険扱いされているからだろうか。別にチームメイトに嫌われようが何も思わないが、今自分に気を遣わないで話してくれる存在は、一星にとってたった一人夜月だけなのだ。だから、こうして思いがけず肩の力が抜け、口元が緩みそうになる。しかし寸でのところで、それこそ我に返って心の中で違う、と自分に言い聞かす。……これじゃあ本当に、俺が彼女に絆されているみたいじゃないか。
「ずっと思ってたんだけど、その風秋さんって辞めてほしいな」
「はあ?」
「それにあんた、とかお前、じゃなくて」
「……」
「名前で呼んでほしいな」
「調子に乗るな」
「……うーん。調子に乗ってるつもりはないけど」
「……」
「あれ? 一星くん、なんか照れてる?」
「なっ! う、うるさい! 絶対に調子乗ってるだろ!」
「ええ」
「早く帰れッ!!」
自分自身が彼女に漬け込まれている気がして、それがどうも居心地が良い気がして堪らなくて。一星はダメだ、と首を振る。必死に目の前にいる彼女を引き離し、半ば追い出すように部屋を出した。彼女はそれに抵抗する訳でもなく、やっぱりへらりと笑うだけだった。だから、なんなんだよ、一体……。
そして一星は夜月は部屋を出る前に掛けられた「おやすみなさい」という言葉、そして柔らかい笑みが頭の中から離れなくて、また苛立ちが募った。くそっ。
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