「あっ」

 先に動いたのは陽向の方だった。
 その場にしゃがんで、床に散らばった数冊の本を集めるその様子をぼんやりと見ていた俺も、彼女が本を抱えながら立ち上がった瞬間にようやく我に帰った。またもや不思議な見つめ合いが始まって、沈黙が流れた。歓喜やら気まずさやらがごちゃ混ぜになっていて、よく分からない気持ちだ。だけどそれ以上に俺が頭の大部分を占めていたのは羞恥心だった。

 あれ? 俺……もしかして、めちゃくちゃ間抜けだったシーンの一部始終を見られてた?

「えっ……と、久しぶり! あ、じゃなくて、それよりごめん!」
「……」
「勝手に来て、しかも部屋の前で一人で喋ってて、なんか不審者みたいと思ったよね!?」
「……」
「うん、ごめん。本当に……ご、ごめん……」
「……ふふっ」

 必死に弁解しようとしている俺を見て、彼女はおもしろそうに笑った。

「私の部屋をノックしている人がいたから、後ろから返事をしていたんだけど」
「えっ」
「聞こえてなかったのかな。そのままドア開けちゃって……」
「……落ち込んでるとこ、見ちゃった?」
「ふふ。うん、ふふふ」

 彼女のツボに入ったのか、面白そうにずっと笑っている様子を見て本当はムッとするところなんだろうけど、そんな感情は湧かなくて。むしろ、微笑ましいとさえ思った。恥ずかしいけど。

「図書コーナーで本を借りに行ってたの」
「そ、そうだったんだ」

 陽向は、自身が抱えている本を俺に見せるように持ち上げた。図書コーナーって、もしかしてこの病室に来る前に俺が通ったところじゃ。中には何人か患者さんもいたということは覚えているから、もしかして彼女もそのとき居たのかもしれない。

(……すれ違いだったんだ)

 もう少し、しっかりと図書コーナーの部屋の中を、患者さんの顔をまじまじと確認した方が良かったのかもしれない。そんな風に一人考えていると、ようやく笑いが収まった陽向が一息ついた。微笑ましいんだけど、やっぱりちょっと気まずい。

「……ふう。えーと、ここでもなんだし。入って?」
「あっ、うん。お邪魔します」

 そんなもどかしさは、彼女も同じく感じているようで少しぎごちなさそうにしていた。せっかくの再会なのに、想像していたそれとは全く違う。俺のドジと焦りようのせいでそれどころではなくなってしまったんだろうな。

 陽向が先に病室へ入って、その後に続き俺も今度こそ中へと入った。ドアを後ろ手に締めると、部屋に彼女と俺が二人きりになる。あれ、なんだろう、また急に緊張してきた。
 彼女は抱えていた本をベッドテーブルに置いた。積み重ねられた本たちを見て、よく本を読むんだなあ……なんて考える。俺も読書が趣味だし、ひとり心の中ででちょっと嬉しくなる。

「えっと……どうぞ、ここに座って」

 ベッドの近くにある椅子を少しだけ引いて、陽向はそう促してくれた。俺はひとつ頷いてそこへ座らせてもらう。彼女はその正面にあるベッドにへと腰をかけた。そして緊張で背筋が真っ直ぐ伸びている俺を見て、また面白そうに肩を揺らした。

「……陸くん」
「はい!」
「えっと、色々聞きたいことは山々なんだけど……」
「う、うん」

 何を言われるんだろう、と少し身構える。だけどそれは杞憂で、彼女は花が綻ぶみたいにふわりと優しい笑みを俺に向けた。胸がとくりと高鳴る。

「久しぶり、陸くん」

 そのとき、また記憶の中にある彼女と目の前にいる彼女が重なった。本物だ。本物、なんだ。今になってようやく実感が湧いて、鳥肌が立った。

「うん、久しぶり。……陽向」

 俺が彼女の名前を呼ぶと、ほんの少し頬をピンク色に染めてすごく嬉しそうに笑ってくれた。その様子を見て俺の目が丸くなる。あ、え、かっ、かか、


(かわいい……)

 陽向は幼い頃から、本当に可愛い女の子だった。俺の好きな人だから更にそう見えるのかもしれないけど、それでも愛嬌がいつも良くて可憐な彼女は、周りの人からもよく可愛いねといわれていた。そんな彼女も成長して、俺と同い年の十八歳のはずなのにまるで年上だと見えてしまうくらいに大人びていた。でも今みたいに嬉しそうに笑う姿は、どこかあどけなくて。ついつい陽向の顔から目が離せなくなっていると、恥ずかしそうに目を逸らされた。み、見すぎちゃった、かな?

 内心慌てふためいていると、陽向は逸らしたときに顔の前に垂れた髪を片手で耳元にかけながら俺にひとつ問うた。

「……陸くんは、どうしてここに?」
「えっ……ああ、うん。これを、見て」

 彼女の問いに応じて、俺は慌ててショルダーバッグから手紙が入っている封筒を取り出した。それを見て陽向は驚いたように目を丸くする。

「それ……」
「陽向が書いてくれた手紙」
「もしかして、それを読んで?」
「……うん。書いてた住所を見て、会いに来ちゃった」

 そう言って、差出人が書いてあるところを彼女に見せる。すると陽向はあわあわといきなり慌て出した。

「ファンレターって……見て、くれるものなんだ」
「う、うん? みんな全部読んでるよ!」
「……そう、なんだ」

 すると陽向は、袖の長い病衣のせいでほぼ隠れてしまっている両手を顔の元に持っていき、いつの間にか赤らめていた頬を照れ臭そうに隠した。

「やだ、どうしよう……」
「えっ」
「ううん、その。読んでくれたらいいなと思って送ったけれど、実際アイドルってファンレターとかって読まないものだと思ってたから」
「う、うん」
「……私、すごい恥ずかしいこと書いてたよね」

 必死にそう言って陽向は顔を隠しているけど、ちらりと覗く耳は熟した林檎のように真っ赤だから隠しきれていないも同然だ。恥ずかしいこと。恥ずかしいこと?


『私は、陸くんと会えなくなってからずっと、陸くんに会いたいって思っていました。』

『陸くんが、大好きです。』



 その文章が目の前にいる彼女の声で脳内に再生された。刹那、俺は首元からじわりじわりと熱が込み上げてくるのを感じた。どうしよう、多分、俺も今すっごい顔が赤い気がする。

「いや、えっと……その、俺は嬉しかったよ!」

 そう言ってから俺も随分大胆なことを言っていたことに気がつく。二人して向かい合って、お互い真っ赤になった顔を逸らすというこれまた異様な光景になっている。

「ありがとう、陸くん」
「う、ううん、というか、こちらこそ」

 意味の分からない返事をしてしまって、陽向はまたおかしそうに笑った。陽向は昔からよく笑う子だった。明るく元気に笑うんじゃなくて、俺の話をおしとやかに控えめに笑う感じ。それこそ口を開いて大きく笑うところは見たことがないかも。でも、そんな陽向だからこそ、一緒にいると本当に落ち着くんだ。

「なんか……本当に久しぶりだね」
「うん。久々すぎて、何から話せばいいのか分かんないや」
「わたしも」

 話したいことはいっぱいある。なのに、まず何から始めればいいのか分からなくて。再会したことだけで胸いっぱいになってしまっている俺に、陽向も同意してくれてまた嬉しくなった。あれ、俺ってこんなに単純な性格だったかな。いや、違う。きっと陽向だからだ。

 気まずいような、だけどそれすら心地良いような。そんな空気の中、陽向はベッド近くにある棚の一番上のところを引いた。何だろうとその様子をただ眺めていると、そこからひとつの写真が現れた。そしてその写真を陽向がそっと取り出して俺に見せる。そして、そこに映っていたものを見た瞬間に俺は思わず口を開いた。

「これ…!」

 それは昔入院していたときに撮った俺と陽向のツーショット写真だった。あまりの懐かしさにそれをまじまじと覗き込んでしまった。陽向との距離がぐっと近くなったのだけれど、あまりにも夢中になりすぎて俺はそのことに気が付かなかった。

 病室で撮ったものだから、背景はほとんど真っ白だ。ベッドテーブルには教科書が二つ開いた状態で並んでいて、中央にはべッドの上に座り二人して満面の笑みでピースしている姿がある。当人である俺が見ても、それは微笑ましいくらいに仲睦まじいものだった。そして、俺は写真を見るなり当時の情景が鮮明に浮かんだ。

「九歳くらいのときかな?」
「うん、多分そのくらい」
「懐かしいなあ……こうやって、二人でよく勉強していたよね」
「うん」
「俺って頭悪かったからさ、いつも陽向に教えてもらってたよね」
「ふふ、そうだったね」
「あっ! 今笑ったでしょ!」
「ううん、ふふ、笑ってないよ」
「もう、笑ってるじゃん……」

 口では否定しているのに未だに肩を震わせている陽向にそう言うと、また笑われてしまった。ほら、やっぱり、よく笑う子。

 笑いがようやく収まると、陽向はふうと一息をついてまた写真に目を移した。つられるように、俺も彼女の手に視線が流れた。それから陽向は黙り込んでしまって、どうしたんだろうと顔を覗こうとするけどそんな度胸もなくて。陽向が口を開くのをずっと待ちつつ、沈黙にたえていたそのときだった。
 
「……これね、すごく大切にしているの」

 陽向の声が、俺の鼓膜を揺らす。

「陸くんのことを……陸くんと一緒にいたときのことを思い出したいときはね」

 俺は、写真から彼女にへと視線を向けた。

「……いつもこの写真を、見ていたの」

 そう告げてからも尚写真を眺めている陽向のその目は、まるで何かをすごく慈しんでいるような、とても愛おしそうにしているような。すごく朗らかで美しいその表情は本当に綺麗で、思わず俺は我に戻るまでずっと彼女に見惚れていた。


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