バタンッ、と車の扉が閉まる音をどこか遠くに聞きながら、私は今日初めて会った人の車に乗り込んだ。
頭の中は真っ白状態で、唯一思い浮かぶのがハルの無残な姿の想像ばかり。
その所為で更に脳内が麻痺を起こしているんじゃないかと錯覚してしまうぐらい、頭の中がぐちゃぐちゃになる。

逸る気持ちを抑えてシートベルトに手を伸ばし、ストッパーにはめようとする。けれど、抑えられていると思っていたのは間違いだったようで、実際は腕が震えて、ガチッガチッと何度も留め具にぶつけるしかできなかった。

(早くっ、早くしないと…!)

焦れば焦るほど頭の中が真っ白になる。それでも焦る気持ちに駆り立てられながらシートベルトに苦戦していると、鼻先を香水の香りがかすめた。

「すみません。少し、失礼します」

自分の視界を埋め尽くすミルクティ色の髪の毛と、耳に通る声。それがこの車の持ち主であると認識した時には、彼が私の体を覆うように被さり、代わりにシートベルトを締めてくれていた。

「あ、ありがとうございます。…えっと…」

お礼を言おうとして、彼の名前が分からないことに今更ながら気づく。サラリーマンの人もそれを察して「ああ」と呟き、柔和な笑みを浮かべた。

「茅ヶ崎至です。貴方は…**さん、でよろしかったでしょうか?」
「あ…はい。あの、すみません。会ったばかりなのに、色々とご迷惑をかけて…」
「いえ。こんな時ですし、無理もありません。なるべく急いで向かいますから、お気を確かに」
「は、はいっ」
「えっと、咲也くん…だっけ?きみもシートベルトは締めた?」
「はい!大丈夫です!」

後部座席に乗り込んでいた咲也くんが元気な返事を返す。その声を聞くと、サラリーマンの人はナビを操作しながら声をかけてきた。

「最短ルートを調べるので、住所を教えてもらえますか?」
「あ、はい!〇〇市××区―――」
「…ん。オッケーです。」

ポーン、と軽い音を立てて自宅までのナビが開始される。至さんは自分のシートベルトを締めると、サイドギアを下した。

「少し飛ばしますので、気分が悪くなったら言ってくださいね」

そう言うと、軽いハンドル捌きで公道を走りだした。すごいスピードで通り過ぎていく外の景色を視界に隅に入れながら、私は祈る思いで手を握った。




11.




宣言通り、至さんは高速道路を物凄いスピードで飛ばして走り、思ったよりも早くに辿り着くことができた。
マンションから少し離れた場所に車を停め、野次馬が集まる場所に向かって走る。遠くから黒い煙が見えていたが、近くにくると想像以上の大惨事になっていた。

「ここから先は立ち入り禁止です!」
「危ないので下がってください!!」

「これは… 想像以上に酷いですね」

眉間を歪ませながら至さんが呟く。消防隊が忙しそうに消火活動に追われる現場は、出火の元手となった部屋を中心にいくつかの部屋まで広がっていた。
見覚えのあるカーテンが炭に変わっていく様子を見て、改めて自分の部屋が燃えていることを認識し、ゾッとした。

「っハル!ハル!!」

もつれる足を引きずりながら野次馬をかき分けて前へ進む。人混みをかき分けた先で消防隊の人に止められた。

「あっ、駄目ですよ!危ないので下がってください!」
「私、このマンションの住人です!飼ってる犬がまだ残っているかもしれないんですっ、通してください!」
「そ、それはできません!まだ火は治まっていないので、中には入れませんっ」
「そんな…!?」

消防隊の人に返され、私は目を白黒させながら立ちすくむしかできなかった。後ろから「すみませんっ」と聞き覚えのある声が聞こえ、間もなく私の肩を支える気配を感じた。

「**さんっ、大丈夫ですか!?」
「咲也くん…!ど、どうしようっ。中に入れてもらえないの…ハルが無事か確かめなきゃいけないのに…!!」
「…! オレが何とか頼んでみますっ」
「いくら咲也くんが頼んでも、現状ではどうにもできないんじゃないかな…。」
「そんなっ……でも!!」

「――あっ、いた!△△さん!」

ガヤガヤと人の声が飛び交う中、私の苗字を呼ぶ声が大きく耳に響いた。咲也くんと至さんに支えられる中、声が聞こえたほうに振り返ると……そこには、驚いた顔の管理人さんの息子の茂武さんがいた。
茂武さんの呼びかけに私は返事を返せなかった。彼の腕に抱かれている存在に気づき、返事を返す余裕もなく駆け寄った。

「は、ハル…!? っハル!」

そこには、茂武さんの腕に抱かれて尻尾を振っている愛犬、ハルがいた。飛び込むようにハルを抱き上げると、ハルは「アンッアンッ」と尻尾を振って私の腕に飛び乗ってきた。
生きている… ハルの温かい温度を感じ、無事であることをようやく理解できた私はその場で腰を抜かした。

「――っ!良かった… 良かった、ハル…!」
「火事が起きて直ぐに、マンションの住民に避難を呼びかけながら逃げてたんだ。そしたら、△△さんの家の中からハルちゃんの声が聞こえて… 申し訳ないと思ったんだけど、窓ガラスを割って入らせてもらったんだ。ごめんね、△△さん」
「そんなっ、ハルが無事であることが何よりです。本当に、本当に、ありがとうございました…!」

頭を下げて何度もお礼を言うと、茂武さんは「良かった」と呟いて照れ臭そうに頬を掻いた。もう一度腕の中の温もりを確かめるように ぎゅっ、と抱きしめ、後ろで待ってくれている存在を思い出し、振り返った。

「咲也くん、至さん、ありがとうございましたっ。おかげで、ハルの無事が確かめられました」
「いえ。ご無事のようで何よりです」
「ほんとっ、良かったですね!」

二人から笑顔と一緒に掛けられた言葉に、胸が温かくなった。一通り落ち着いたところで、茂武さんは「それじゃあ、母の所に手伝いに行ってくるので」と去って行ってしまった。
未だ轟々と燃えているマンションを見上げ、私は今更なことに気づく。

「…そうだ、どうしよう。家、無くなっちゃったなァ…」

ハルの安否が分かったところで、漸く事の重大さに気づいた。幸い、通帳や印鑑は常に持ち歩く癖を身に着けていたから無事だけど…身に着けている衣類と、貴重品の入った鞄しか残っていない。
ハルもいる以上、ネカフェに行くこともできない。さて、どうしたものか……

「あ、あの。**さんは、これからどうするんですか?」
「ん?うーん…どうしよう…。実家に帰ることも出来るけど…出来ればこの辺りにまだいたいんだけどなァ」
「当てはあるんですか?」
「いえ、全く。とりあえず今晩はどこかペット同伴可能なホテルでも探してみようかと思ってるんですが…」

この辺りで何処かそんなホテルあるかしら…。それに、ずっとホテル生活を続けることもできない。どこか、ペット同伴可能で住み込みできる働き場所を探さないと…。
色んなことをぐるぐると頭の中で考えていた時。突然、咲也くんが私の前に回り込んで、輝く大きな瞳で真っすぐと見てきた。

「じゃあ―――**さん、MANKAIカンパニーで一緒に住みましょう!」
「……え?」
「**さんが来てくれたら、きっと監督さんも……いえ、皆喜んでくれますよ!」
「まあ、確かに。今現在考えられる最善の手はそれでしょうね」
「至さんもそう思いますよね?ねっ、だから**さん。オレ達と一緒に団員寮に行きましょう!」

咲也くんと至さんがとんとん拍子で会話を進めていく。咲也くんに名前を呼ばれて我に返り、どうしようかと考える。
いや、確かにそりゃ…そうできたら私も助かる。でも、幾ら古き良き後輩がいるとは言えど、突然ペットを連れて「住ませてください」なんて…困らせるんじゃないだろうか?

「咲也くんの気持ちは嬉しい、けど…。流石に、突然ペット連れて入寮するのはまずいんじゃ…」
「じゃあ、オレ今から監督さんに連絡して聞いてみます。ちょっと待っててくださいっ」
「え!? ちょっ、咲也く…」
「――まあまあ。此処は彼に任せてあげたら?」

咲也くんにストップをかける前に、私が至さんにストップを掛けられてしまった。
戸惑いながら見上げると、彼は爽やかな笑顔を向けながら腰の抜けた私の手を引いて起こしてくれた。

「彼なりに精いっぱい、貴方を元気づけようとしているんでしょう。若い子が頑張っているのを無碍にしては可哀そうですよ」
「そ、そうですか…?」
「ええ。こういう時、男は頼ってもらえると喜ぶものですから。」
「男は…って、咲也くんの場合それとはまた違うんじゃ」

緩い感じに至さんと会話をしていると、背中を向けて電話をしていた咲也くんが明るい笑顔で振り返った。

「**さん!監督さんと支配人、両方からオッケーをもらえました!」
「えっ。ほんとに?こんな急なのに、いいの?」
「はい。寧ろ監督さんは、**さんが抵抗しても無理やり連れて帰ってきて、って…」
「あ…はは。いづみらしいわ」

全くどこまでも可愛い後輩に可笑しく思いつつ、ホッとした。いづみなら拒否されないだろうと疑っていなかった分、もし断られたらどうしよう…と内心ビクビクしていたところがあった。
「**さん」と咲也くんに優しく呼ばれ、顔を上げる。真っすぐと私の目を見て、こちらに手を差し伸べてきた。

「オレ達と一緒に、帰りましょう。オレ達の家に―――MANKAIカンパニーに!」

眩しい笑顔は、春の日差しのように心の中からじんわりと温めてくれるようだった。
差し伸べられた手に、私はハルを抱いた反対の手で握り返した。

「……うん。ありがとう」

心の底から自然とこぼれ出たお礼の言葉に、彼はまた笑顔を浮かべた。
茂武さんには後日、改めてお礼を言おう。そう心に決めて、私たちは再び至さんの車に向かった。

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