昨夜、仕事の疲労とキャパオーバーな照星さんを浴びて這う這うの体で帰宅をした私は、無になった。夜にニヤニヤしながら歩くわけに行かないと電車の中で悟り、あらゆる出来事を考えることをやめたのだ。とにかく無心でシャワーを浴びて速攻で寝た。眠れるだろうかと過ぎった心配も、おやすみ三秒で起きてから自分の単純さにちょっと引いた。
そんなわけで、しっかり寝てスッキリ起きて、無事に待ち合わせ場所に着いても表情筋を固めている私に、照星さんは目を瞬かせていた。
「私は今、植物です」
「……考えることをやめたんだな」
唐突な言葉の意図も正確に汲み取ってくれる照星さんに胸がギュッとなる。もう何度目かわからない鷲掴みである。真正面から顔を見れる気がしなくて、両手を顔の前に翳して壁を作る。小学生がよくやるバリアである。防御力は三程度のそれは、幾度も心臓を鷲掴みにしてきた照星さんからすると盾どころか半紙レベルなのだろう。翳した両の手は自分よりも一回り大きな手によって下げられた。下ろした左手の指を絡めるように握られると、植物であろうと無にしていた思考はあっという間に人間に戻される。所詮人間は人間で、考えることをやめられはしないのだ。
「君と春を見に来たんだ、顔は見せてくれ」
否応なしに開かれた視界に映る想い人に、あぁこの人は目で、仕草で語る人なのだと思った。毎朝焦がれた声は思っていたよりも柔らかくて、その声で言われたら抵抗などできるわけがなかった。
深く息を吸って、吐き出す。煩い心臓は相変わらずだけれど、この人の隣に立っていたいと思ってしまったから。表情や仕草で上手く伝えられない私は、せめて言葉を尽くしたいと思う。
「私も、楽しみにしてました。春を見るのも、照星さんと会えるのも」
上手く笑えているだろうか。せっかく丁寧にしたメイクも、この百面相で台無しになっている気がするし、声も震えた。それでも、一瞬驚いたように目を開いた後、満足気に目を細めた照星さんに少しは伝わったと思いたい。
***
見頃だけあって人が多い庭園は、それでも繁華街や毎日の満員電車に比べたら可愛いものである。入園チケットを買う際に少し並んだくらいで、賑やかだなと思う程度だった。
園内に入る頃には幾分ぎこちなさが取れてきた、と思う。そうであって欲しい。ナチュラルに入園料を二人分払う照星さんに、お金は受け取ってもらえまいと隣の自販機で買ったお茶を差し出した。
「入園料くらい気にしなくて良いが……ありがとう」
「甘やかすと付け上がりますよ」
「別に付け上がってもらって構わない」
完敗である。別に言葉でやり込めたいとか思っているわけではないが、自分ばかり振り乱されているのが悔しい。涼しい顔で園内を進む照星さんの後ろを着いていく。
進むにつれて甘い華やかな香りが鼻腔をくすぐり、悔しさにムスッとした表情が解れるのを感じた。瀟洒な洋館の横を抜けると、色とりどりの薔薇が咲き誇り見た目も香りも華やかな薔薇園という、都心にある場所とは思えない空間が広がっている。
「見てください照星さん、死の呪文があります」
「魔法の呪文には変わりないが……それはアブラカタブラではなくアバダケダブラだろう」
「すごいですね照星さん、ハーマイオニーみたい」
「なるほど、色の変化が魔法のようだからこの名前らしい」
クリーム色が外側に向けてローズピンクに染まっている様子は、確かに魔法のようだ。照星さんもハリポタ読むんだな、と頭の片隅で親近感を抱きつつ、溢れんばかりに花弁を開く薔薇とその名前に感心する。
「薔薇ってこんなに種類があるんですね」
「そうだな、私も初めて見るものばかりだ」
「国や地名がついてると、世界中で愛されてる花なんだなぁってホッコリしますね」
「人の名前もあるな」
「私に何かしらの権力があったら、絶対に『ショウセイサン』って名前の白い薔薇を作ります」
「そんなしょうもないことに権力を使うな」
呆れたように笑いながらも、その瞳は柔い光を宿して細められるから、ようやく落ち着いてきた心臓がまた煩くなる。止まると思考もショートしそうで、順路の文字に沿って「こっちが順路ですね!」と先導するが、顔を逸らして肩を震わす照星さんを背後で感じて自分が居た堪れない。
洋館から望める薔薇園は、西洋風の左右対称な庭園だった。人一人分の道を残して様々な種類の薔薇が見頃を迎えている姿は見事ととしか言い様がなく、一つ一つに添えられた名称とコメントを読みながら進むだけで何時間でも楽しめそうだ。
「ここを見ると薔薇色って何色かわからなくなりますね」
「色によって花言葉も違うらしいな」
「あ、確か贈り物する時は本数でも意味が変わるって言いますよね。花に想いを託すの、日本の和歌みたい」
相手にも同じ気持ちを抱いて欲しい、と言うよりも、自分の中で溢れた気持ちを花や歌に込めて、伝わる分だけ伝われば良い。好きな人を想う幸福で満足してしまう自分の性に合うやり方だと思った。ただ言葉で表しきれない、どうしようもなく心を揺さぶられる気持ちを自分の中で消化しきれなくて形のあるもので表現する、と言う工程に人間らしさを感じて、より愛おしくなるのかもしれないと、雑然と感じた。
「恋心……」
ふと目に入った花の名前を思わず読み上げてしまった。名称の下に書かれた『ときめく恋のイメージ』の文字に、確かにピンクがかった淡紅色は好きな人の言動に一喜一憂し、明るい未来を夢見る恋の色だと思った。
「見事に咲いているな」
薔薇に言っているはずなのに、自分に言われたようで顔が熱くなる。思わず視線を上げてばっちり目が合うのを見るに、私の考えることなど全てお見通しなのだろう。ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべる照星さんは、それはそれは楽しそうだった。
「に、日本庭園もあるみたいですね!」
「この奥だな。行ってみよう」
あからさまな話題転換にも可笑しそうに笑いながら乗ってくれるから、心臓がギュッとなる。今日だけでも何回目だろう。心臓が持たない。
石造りの庭園から打って変わって自然を生かした日本庭園は、道の舗装も最低限だった。足から感じる柔らかな土と石に躓かないように足元を見て歩く。「木の根がある」と手を取り誘導してくれる様子に、自分の人生もここまでで終わりかもしれないとわりと本気で思った。人体における心拍数の上限ってどれくらいなんだろう。ときめきで死ねたら世界初かもしれない。夢見心地な現実を受け止めきれずに、どこか他人事のようにそう考えた。
「薔薇園を見た後だと、西洋と日本の庭園の違いがよくわかるな」
「本当ですね。どっちも違う魅力ですけど、馴染み深いからか日本の方が落ち着きます」
「奇遇だな、私もだ」
色とりどりの薔薇のように色彩豊かではないが、その分緑のコントラストと木漏れ日による光の動きが目に優しくて、なんだかホッとする。多くの人が見頃を迎えた薔薇園に集中しているお陰で、木陰に置かれたベンチも空いていた。「少し休憩しよう」と言う言葉に賛同し、腰掛ける。
「ここは涼しいな」
「日差しが当たらないだけで違いますね」
太陽光を遮る木々のおかげで、先程の場所よりも幾分涼しい。知らぬ間に汗ばんでいた身体に、時折抜ける風が心地良かった。
暫く、何も会話はなかった。ただ同じ空間にいて、さわさわと葉の揺れる音と水の流れる音だけが優しく鼓膜を揺らす。言葉を交わすでもなく、けれど満たされていく幸福と、とめどなく求めてしまいそうになる欲に、やはり自分は人間なのだと思う。愚かにも植物になろうとした自分が、そうした過程も含めて人間らしいと思った。
「ここの薔薇って秋もあるんですね」
「秋ならここの紅葉も綺麗だろうな」
「確かに!秋も来ないと」
「そうだな、楽しみだ」
「……また一緒に来てくれるんですか?」
「そのつもりだが、なにか不都合でも?」
全力で首を横に振り、膝に置いた拳を見つめる。
そうか、一緒に来てくれるんだ。ジワジワと込上げる嬉しさと喜びにどうしようもなく口がにやける。だらしなく緩む頬を引き締めようと両頬に手を当てると、突然名前を呼ばれて肩が跳ねた。両手はそのままに横を向き、予想外に近い顔に驚くのと、その距離がゼロになるのは同時だった。
触れるだけと言うには長く、戯れには短い時間だった。目を閉じることも忘れて、ただ伏せられた睫毛が色っぽいと、的はずれな事を思う。離れていく体温にほんの少し寂しさを感じながら、やはり夢見心地で照星さんを見上げた。
「……いつから気が付いていたんですか?」
「あれだけ毎日熱視線を送られて何も思わないほど野暮では無い」
「恋愛偏差値四十七の挙動不審、もしかして楽しんでました?」
「絶妙な数字を出してくるな……そうだな、愛らしいと思って見ていたよ」
「あ、愛らしい……!?」
「あぁ。本来は理知的で後輩からも頼られる人間が、自分の一挙手一投足に表情を変える姿はなかなか心が擽られた」
くつくつと笑いをかみ殺す照星さんに、モーニング以来の「穴があったら入りたい」気分だった。いっそ埋めてここの木々や花々の肥やしにして欲しい。
「今日って、デートなんですよね」
「そのつもりで誘った」
「デートとは、好ましく思っている人同士が逢瀬を楽しむことだと認識しています」
「同じ認識だ」
「……調子に乗りますよ!?」
「存分に乗ってくれ。やり過ぎだと感じたら指摘する」
淡々と事実確認をするも、それ以上に淡々と返され「都合の良い妄想」が「相手の口から告げられた現実」になっていく。調子乗る発言も極めて冷静に返されてしまい、いよいよ後に引けない。いや、引かなくていいと言うことなんだろうけれど。
「先に言っておくが、何も思っていない相手に自分の時間を割くほど暇では無いし、遊び相手を作るほど飢えてもいない」
「すごい、どんどん外堀が埋まっていく……」
「言っただろう、生憎狙った的は外さない」
淡々と、けれどどこか不敵さも感じる言葉に「なるほど、とっくに狙われて撃たれていたのか」と理解した。
***
「照星さんにお伝えしなければならないことがあります」
薔薇園を堪能し、隣の日本庭園に併設された茶室で並んで座っていた。抹茶と生菓子、開かれた障子の先は日本庭園。気分は京都旅行である。
点てていただいた抹茶を味わいながら、努めて自然な感じで切り出した。声も震えてないし上擦ってない。大丈夫、何を言おうとしてるかはわかるまい。
「雑渡昆奈門のことだろう」
「ええ、バレてる……」
秒でバレた。何で照星さんは情シスしてるんだろう。エスパー捜査官とかやった方がいいのでは?あ、でもそうすると朝コンビニで会えなくなっちゃうから情シスのままでいて欲しい。
庭園に向けていた視線を横に移すと、照星さんは庭を見ながらやや険しい顔をしていた。横顔、鼻が高くて綺麗だな。給仕さんに「足は崩されて楽にしてくださいね」と声を掛けられるまでの正座姿も素敵だったが、胡座をかいている姿も格好良い。初めて見るきっちりしていない姿に、そんな姿が見れるほど近くにいるのだと実感して心臓が痛いほど跳ね回っていた。ときめきポイントですか?三枚目に突入しました。
「言っておくが顔に全部書いてあるぞ」
「そんな……会社ではミステリアスな女で売ってるのに……」
「それはさすが嘘だろう」
「はい、嘘です。でも何考えてるのかわからないとはよく言われます」
無表情ではないが、業務中はテンションが一定なことが多い。なんせ業務量が多いから淡々とやらないとモチベが下がるし、モチベが下がって効率が落ちるのは本末転倒だ。話しかければそれなりのコミュニケーションをとっていると思っているが、年次が上がるにつれ「腹の底が読めない」と言われることは増えた。恐らくオフィスでクレーム対応をしている時の姿を見られてから、主にチーム内で「カスハラ受けながらアフタヌーンティーの予約してた」「申し訳ございませんって言いながらツムツムやってた」などと言う噂がまことしやかに囁かれているからだ。残念ながら事実なので否定ができない。
そんなようなことを掻い摘んで(ツムツムの話は飛ばして)話すと、照星さんは目を瞬かせた後「……そうか」と顔を逸らした。少し嬉しそうな表情にキュンとする。可愛い。好きな異性は可愛く見えるって本当だなと、私は私で勝手に悦に入っていた。
「話は戻るんですけど、遅かれ早かれ雑渡さんが絡みに来ると思います」
「既に昨日絡まれた」
「遅かった……すみません、あの人私の事未だに小学生だと思ってるので……ちなみに何を言われました?」
「……お似合いだと言われた」
「……えぇ!?」
口に何か入れてなくて良かった。入ってたら間違いなく吹き出してた。照星さんの方を見ると、以前見た苦虫を噛み潰したよう顔とは違う、心底不思議で不気味だと言うような難しそうな表情を浮かべている。わかります、私も同じ顔をしてると思います。
「雑渡さんが?私と照星さんをお似合いって?」
「そう一方的に話して満足そうに去っていった」
「明日雪でも降るのかな。てっきり照星さんにも1on1申し込ませるつもりかと思ってました」
「いや、それは勝手に入れられた。辞退したが」
「既に実行されて解決までしてた……」
本当にどういう関係なんだろう。雑渡さんと対等に渡り合える人、久しぶりに見た。これで二人が仲良かったら微笑ましいだけなのに、どうやら雑渡さんの一方的な愛?親しみ?らしいから不思議な関係だ。
と、そこまで考えてふと気になっていたことを口に出す。
「雑渡さんって照星さんのこと狙ってませんよね?恋愛的な意味で」
「どうしてそんな発想になったのかわからないが、絶対に有り得ないから冗談でもやめてくれ……」
「良かった、雑渡さんが恋のライバルだったら諦めざるを得ないところでした」
雑渡さんに対しては「頼りになるけど底が知れないお兄ちゃん」として、土台からして立つ場所が違う人間だと思っている。立場が違うからこそ成り立っている関係性が故に、同じ土俵で争うなど論外だ。知り合ってからの年数、見た目の強さ(物理)、頭の良さ、性格も本気になればどんな人にも合わせられるであろう柔軟さがある人間と人間力で戦うほど自己評価は高くない。
まさかとは思ったが杞憂でよかった。ホッと息を吐く私を、照星さんは複雑そうな顔で見ていた。
「私が君よりも雑渡を選ぶと本気で思っているのか?」
「人間力では雑渡さんに敵わないかと……」
「君はもう少し客観視を身に付けた方が良い」
「はい、次回の上長面談で課題設定します」
身に覚えのある指摘ポイントに背筋が伸びる。やっぱりエスパー捜査官じゃなくて私のメンターになって欲しい。
「でも、照星さんと私がお似合いはちょっと意味がわからないですね」
「何故そう思う?」
「うーん、私って喧しいじゃないですか」
「まぁ、否定はしない」
「照星さんの嘘つかないところ、好きですよ。……喧しいのも照星さんに対してだけなんですけど。普通に考えて毎朝コンビニで見てくる接点のない女とか怪異の類いじゃないですか」
「なんだ、普段からその調子ではないのか」
「なけなしのプライドにかけて主張させていただきますと、これでも学生時代は頼れるしっかり者の常識人という評価を欲しいままにしておりました!!」
学生時代の評価という一過性のものを持ち出すプライドとはという気持ちはあるが、社会人になってから通知表のようなわかりやすい評価指標を失ってしまったから仕方ない。全く胸を張れることでは無いが、少なくとも常に様子がおかしいわけではないと主張したかった。
私の主張を聞く照星さんは半信半疑といった様子で首を傾げている。照星さんの前では冷静になれていない自覚はあったが、そんなに信じられないのだろうか。流石に我が身を反省する。
「あの、なるべく静かにしますね?」
「別に今のままで構わんが……」
「懐が深くて自分の小ささを恥じ入るようです。どうしよう、滝行でもしに行こうかな」
都内から気軽に行ける場所にあるのかな。帰ったら調べてみよう。煩悩を打ち消してどうにかなるのか、そもそも一回の滝行でどうにかなるのかは知らない。
「見ていて飽きないから、そのままでいい」
「はぇ……」
こちらを見ずに、けれど明確に自分に向けられた言葉に、それなりの年数を社会人として過ごした成人女性としていかがなものかと思う声がまろび出る。散々夢だ現実だと(勝手に)振り回されてきたが、平凡どころか恋愛においてはあまり良い思い出のない人生を送ってきたから、供給過多具合に感情にバグが生じるのは不可抗力ではなかろうか。
アホ面で鳴き声のような音を発した私を一瞥し、照星さんは笑う。
「雑渡さん、本当になんでお似合いとか言ったんだろ」
「さぁな。だが、癪ではあるが言わんとしたことは理解はできる」
「そういえば、照星さんはなんで」
そこまで言って、口を噤む。「なんで好きになってくれたんですか?」は適切では無い気がした。好きと言われたわけではない。ただ、あそこまでされて勘違いだと言い張るほど私も野暮では無いだけ。それでも、言われてない言葉を言われたかのように言うのは憚られた。
「……なんで、私を気に入ってるんですか?」
絞り出した言葉は、人間と言うより犬や猫に向けるものだった。だってしっくりきたのがこれだったんだ。自分で言っていて虚しいが。
そんな絶妙なワードチョイスを、照星さんは目を瞬かせて怪訝そうな顔をする。社内で初めて会ったあの日と同じ顔だとちょっとテンションが上がったのは内緒だ。
「一応言っておくが、誰にでも口付けるほど節操なしではない」
「それはわかってます。そんなことしてたら女性社員の半分が照星さんのファンになっちゃいます」
「どんなイメージだ……まぁいい。気に入っている所だったな」
「あ、はい。教えてくれるんですね」
「その代わり後で君にも教えてもらう。
そうだな、あえて一つ上げるなら声だ」
「…………それは私のセリフでは?」
「前も言っただろう、君のことを知ったのは私の方が先だ」
確かに、鯖の味噌煮を待ちながらそんな話をした。私がコンビニで照星さんを知るより前に知っていたと聞いた時は驚いたが、それ以上に予想だにしない回答に困惑が勝った。
首を傾げる私を横目に、照星さんは続ける。
「社内で知らない声が聞こえてきたからと言って、気にするか?」
「たしかに、社内なら何時どこから誰の声が聞こえて来ても気にしない、かも?」
「つまりそういうことだ」
「タイム!タイムお願いします!つまりどういうことですか!?」
「食べ終えたならそろそろ行くぞ」
疑義を呈する声は受け流されてしまった。もはや見慣れた笑みをかみ殺すような顔、見えてます。面白がってるのバレてますよ照星さん。
立ち上がった照星さんを追い掛けようと立ち上がろうとして、「あっ」と情けない声が上がった。これは、やばい。
「どうし……あぁ、痺れたのか」
「あの、本当に、情けないのですがちょっと助けてください……」
慣れない正座なんてするんじゃなかった。いや、久しぶりだからこそ何かできる気がしちゃったのだ。痛くは無いが膝から下が痺れて立ち上がれない。辛うじて足を崩せはしたが、力を入れられずに前方に手を付いて痺れに耐える。
両手で身体を支える私の前に膝をつきながら、呆れたような顔で手を差し伸べる照星さんに鼻の奥がツンと痛む。
「立てるか?」
「んっ……まだっ、無理、かも……」
息も絶え絶えとはこのことである。差し出された手を取るが、足に力が入らなくて立てそうにない。情けない声で白旗を上げ、とりあえず息を整えようと深呼吸を繰り返す。足の痺れに効果があるかはわからないが。
そんな死に体もいい所な私を、照星さんは何を思っているのか真顔だった。無と言ってもいい。もしかして呆れを通り越して見放されるのではという心配を他所に、照星さんは私の肩に手を置くと腕を伸ばす。あと数十センチで正面から抱き締められるような体勢に、そんな場合じゃないのに心臓が跳ねた。が、
「ひっ!?何を……ひゃぁ!?」
崩して投げ出している足の裏を触られ、独特の痺れと痛みで涙が浮かぶ。ストッキングしか履いていない足は素足に近い。なぞるように足裏から足首、ふくらはぎを撫でる手にゾワゾワと身体が震えた。裏返った声が恥ずかしいやら、触れ方にあらぬ熱を感じるやら、完全にキャパオーバーだった。
流石に抗議しようと痛みと痺れを耐えるために俯いていた顔を上げ、早々に負けを悟る。見上げた先の捕食者のような顔に、食われる立場なのだと理解して息を飲んだ。普段なら胸をときめかせる上がった口角が、ほんの少し怖い。
「やはり良い声だ。もっと聞いていたいが、人が来てしまうといけない」
人差し指を唇に当てられ、コクコクと頷くことしか出来ない。「良い子だ」と至近距離の甘やかしを浴びながら、跳ね回る心臓のためにも早く足の痺れが治まって欲しいと願う他なかった。
***
現在時刻十六時二十三分。今、私はまあるい緑のなんとか線に揺られている。魂が抜けたような心地でぼんやりと流れる景色を見ながら、なんか思ってた景色と違うなと気が付く。バラエティ番組のような動画が流れる車内案内のモニターは、見たい時に限って行き先や次の停車駅を表示してくれない。ヤキモキしながら見守り、ようやく表示されたのは乗るはずだった方面とは逆の行き先だった。反射的に次の駅で降りなければと浮かした腰を、しかし下ろす。
なんだか昨日から目まぐるしかった。もっと言えば連休明けからずっと落ち着かなかったから、オーバーヒートしてしまったのだと思う。ここのところ家に帰っても頭が休まる暇がなかったから、人の声がざわめく電車内がちょうどよかった。静か過ぎると、きっとあれこれ考えてショートしている。なかなか座れない角の席に座れたし、このまま揺られて適当な駅で降りよう。普段乗らない方面の電車がどこを通るのかあまり把握していないが、大概どこの駅からでもどこかしらに乗り換えができるし、ぼーっとしたいからダラダラ歩くのもいいかもしれない。
頭の中で行動計画を練っていると、改札で使って以来ポケットに突っ込んだままのスマホが震える。取り出して顔の前に画面を持ち上げると、顔認証でメッセージがそのまま開かれてちょっと焦った。楽だけど心の準備をさせて欲しい。仕方なく開かれたメッセージ画面を見ると、『お楽しみのところごめん!明日でも良いから十分会える?』と見慣れたアイコンから吹き出しが出ていた。雑渡さんだ。
『今帰りの電車なんですけど、どこに居ますか?近い場所で降ります』
『もう帰ってるの!?』
『さっき解散したので』
この際なんで誰かと会っていることを把握しているのかは聞かない。世の中知らない方が良いことも多いのだ。
遠い目をしている間にも画面には次々とスタンプが流れてきていた。多分「びっくり」とかで出てきたであろうスタンプを手当り次第送ってる。見たことあるキャラクターから、癖強めなクリエイターズスタンプまで幅広い。昔から変わらず流行りに詳しい人だと関心しながらスタンプ爆撃の鎮火を待つ。
『びっくりのバリエーションなくなっちゃったよ』
『むしろ良くこんなに持ってましたね』
『皆がくれるから』
愛されキャラ雑渡昆奈門。そういえば押都さんや山本さんと「最近の若者はどういうスタンプを使っているのか」「親しみやすさを出したい」という会話をしていたことがあった。管理職の涙ぐましい歩み寄りの姿勢に三人の直下が羨ましくなったことも記憶に新しい。
『まだビックリしてるんだけど、今どこ?』
『ここ?』
『なんでまたそんなとこに?まぁいいや、次の次で降りて』
『はーい』
位置情報を送信し、言われるがままに降りる駅を定める。案外近くにいたのだろうか。了解の意を示すスタンプを送り、スマホをポケットに戻す。身内と連絡して少し現実に戻ってきたような気がする。
隣駅との感覚が近い都会の電車はあっという間に駅と駅の間を流れていく。太陽の居座る時間が長くなったからまだ外は明るいが、黄昏時までもう少し。
***
「今どき中学生だって門限二十時じゃない?」
雑渡さんは心底信じられないと言った顔で紙袋を差し出した。保冷剤に包まれて中身は見えないが、紙袋に書かれた文字で大好きな大福だと察してテンションが上がる。なるほど、これは日持ちしないからすぐに渡したいわけだ。大概のことを把握されているが、流石に合鍵は渡していないから家に置いておいてくださいとは言えない。
「仙台に行ってたんですか?」
「いや、知り合いにもらったけど、ナマエちゃん好きだったなって思い出して」
「大好きです!わざわざありがとうございます」
「私も大好き。……照星いないよね?」
突然出てきた名前に肩が跳ねる。落ち着いてきた心臓がまた煩くなって、緩みそうになる口元をへの字にして平静を保とうと試みるが、ニヤニヤ見下ろしてくる雑渡さんを見るに全てお見通しのようだった。
「可愛い顔しちゃって……その反応、照星と上手くいったんでしょ?」
「ええと、まぁ、はい」
「照れちゃって可愛い〜」と頬に手を添える雑渡さんこそ可愛い。可愛いが、大人になって恋愛面でそんな反応をされると身の置き所が定まらなくてソワソワする。けれど、「でもさ、それなら尚更」とかけられた言葉に彷徨わせていた視線を上げた。
「いい歳した男女が!! 付き合いましょうってなったのに!! 夕方解散なんてありえる!?」
「あ、ありえてるじゃないですか……」
「ディナーは!?お泊まりは!?」
「いきなり過ぎません!?プレイボーイな雑渡さんと一緒にしないでください!!」
「えっナマエちゃん私の事そういう風に見てたの!?」
ショックを受ける雑渡さんを尻目に、言わんとしてることを理解して顔が熱くなるのを感じた。お泊まりって色々と準備や心の助走が必要では。もにょもにょ言い訳染みた言葉を口の中で転がしながら、「付き合う」という事に含まれる一般的なあれそれに頭が沸きそうだった。初めてのお付き合いなわけでもないのに、我ながら恋愛偏差値が低過ぎる。四十七ですら盛ったかもしれない。羞恥と情けなさで視線を下げる私に、雑渡さんが気遣うように肩に触れた。
「大丈夫、ナマエが魅力的なのは私が保証する」
「喜んでいいのかなぁ……」
「素直に喜んで?」
「雑渡さんの可愛いってわりと万物全てに適応されるじゃないですか」
「流石の私も抱く相手は選ぶよ!?」
もはや何の話だこれは。早々に出来上がっている人も多い繁華街、私達二人の話し声は雑踏に紛れているが、往来で話すことでは無い。
「ちゃんと照星には1on1で言っておくね」
「辞退したって言ってましたけど」
「甘いな、定例と見せかけて一件一件スケジュール登録してる。半年先まで」
「一括削除できなくて地味にイラつくやつだ……」
「今のうちに聞いておきたいことある?身長体重はすぐわかるよ」
「プライバシーって言葉知ってます!?自分で色々聞くから大丈夫です!何もしないでください!」
「ごめんごめん、つい歴代彼氏が頭をチラついて。まぁでもそうだね、照星なら大丈夫だ」
そう言って目を細める姿に、胸がいっぱいになって言葉に詰まる。やっぱり照星さんからのときめきとは違う。けれど、確かな情。それは家族に向ける無償の愛に近くて、きっと雑渡さんのそれは範囲が広い。その範囲に入れてもらえている、という事実にじんわりと胸が温かくなる。
「なんで私と照星さんがお似合いだと思ったんですか?」
「あ、聞いた?照星のやつ、澄ました顔して嬉しかったんだな」
「……癪だけど理解はできるって言ってました」
「今までどうしてこの組み合わせ思いつかなかったんだってくらいには、パズルのピースがぴったり嵌るようにお似合いだよ」
「ありがとう、ございます?」
「万が一泣かされたら言ってね」
「あはは、振られたら泣くと思うので慰めてくださいね」
突然降って湧いたような幸運の連続は、ある日突然呆気なく終わってしまうのではないか。良い事と悪い事はバランスよくやってくると思うことで予防線を張るのが無意識の習慣になっている私にとって、「振られるかも」と言うのは、きっと常に頭の片隅に残り続けるのだと思う。
零した弱音を、雑渡さんは目を丸くした後に笑みを浮かべ、安心させるように私の頭に手を置いた。
「大丈夫じゃない?らしくもなく慎重になってるみたいだし」
「慎重、ですか?」
「こんな時間に帰してもらえるなんて、大事にしようとしてる証拠だよ」
「そう、だといいんですけど……」
「お持ち帰りされたかった?」
「ノーコメントで」
黙秘権を主張する。顔は真っ赤だろうし、言葉だけの主張だが。
「ナマエの良い所は自分の気持ちを言葉にできることだからさ、素直に言ってあげてよ」
「善処します……でも照星さんってそういう欲なさそう」
「っふ、ははは!それ、照星に言ってみな……」
「はーおもしろ」と笑い転げながら言われると何だか釈然としないものがある。
元より言葉で伝えることに抵抗はない。けれど、今日ばかりは現状と自分の気持ちを整理する時間が欲しい。幸いもらった大福もあるし、糖分補給しながら考えよう。尊奈門くんにツボに入ったらしい大男の救援要請を出しながら、そんなことを思った。