「お疲れ〜」
「疲れた〜……」
五月九日金曜日、時刻は二十一時十六分。デスクに倒れ伏す私に、同僚がぱちぱちと拍手をくれた。ありがとうありがとうと顔をデスクに付け、手だけ振って応えながら、達成感に浸る。
今年の連休明けは三日しかないから楽勝と言っていたのは何処のどいつだ。私だ。休み明け浮かれぽんちでメガサイズカフェラテを買っていた自分に「ミルクで薄めている場合では無いから大人しくブラックを買え」と伝えてやりたい。
個室ブースで開いたヤバそうな件名のメールは案の定ヤバかった。後輩の担当する顧客からのお怒りを認めたそれは、後輩の手に負えずに私に回されてきた。回されてくるのはいつものことだが、タイミングが最悪である。クレーム対応を最優先、自分の業務を後回しにして対応した結果、対応報告書を書き上げたのが今だった。
「休み明け初っ端のクレーム、もはや大型連休後の恒例よね」
「人は何故学ばないのか……」
「もしかして:毎回やらかす人が変わるから」
「他者の失敗から学べ的な諺なかったっけ」
「あー……愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ?」
「それだ、全員の連休前のスケジュールに登録してやろう。強制的に学ばせることで全員賢者にしてやる」
チームメンバーの共有スケジュールを開く同僚に苦笑しながら、すっかり人が居なくなったオフィスを見渡す。自分たちがいるエリア以外は電気も消えて、絵に描いたような残業風景だった。残業は嫌いだが、人のいないオフィスは落ち着くから好きだったりする。
「達成感に浸ってるとこ悪いけど、私そろそろ帰るよ」
「うん、最後施錠してくから先帰ってて」
「お疲れ様〜」
リュックを背負って社員証を外す同僚に手を振りながら、自分も帰るための準備をする。こういう時、何となくで待たずに好きなタイミングで帰る同僚は気が楽だ。お互いに良い意味で気を使わないからノンストレスで働ける。職場において気兼ねなく信頼出来る人と言うのは貴重な存在だった。
月曜日に回すタスクを確認し、パソコンを閉じる。三日で一週間分の仕事をしたのだから、来週はもう少し余裕を持って仕事をしたい。そんなことを考えながらロッカーに端末類を放り込む。
施錠して鍵を一階の守衛さんに預け外に出る頃には、一次会終わりであろう飲兵衛達がチラホラ行き交う時間になっていた。オフィス街は人通りも少なく、同じように残業終わりであろう人影も疎らだった。
「明日のために早く帰ってしっかり寝たかったのになぁ……」
「そんなに楽しみにしてもらえているとは光栄だな」
誰に言うでもなくボヤいた言葉は、夜の喧騒に消える筈だった。後ろから聞こえて来た声に、疲労のあまり遂に幻聴まで聞こえたかと思う。時間も時間だし、いるわけない。冷静な自分はそう言っているのに、幻覚でも良いから姿を見たいなぁと振り返ってしまった。
昨日今日とトラブル対応で朝はコンビニに寄る余裕もなかったので、心の底で会いたいと思ってしまっていたのだろう。先日会った時に見たクールビズ照星さん(幻)が見えて自分の疲れ具合を実感してしまった。
「すごい、幻聴だけじゃなくて幻覚まで見える。リアルだぁ」
「随分お疲れのようだな」
「………………本物?」
「本物だ」
無意識に頬に手を伸ばし、その手が何かに捕らわれたことで我に返る。呆ける私を照星さん(本物)は可笑しそうに見下ろしていた。頬に伸ばした手は顔の横で固定され、固定する生身の体温と質感が幻覚ではなく現実であることを表している。瞬きも忘れて見つめているのに、焦点も合っているのに、状況理解が追いつかずにいつかの落としたパソコンのように頭も体も固まってしまった。
「そう何度も抓ると肌が傷付く」
「は、え、な……!?」
「遂に言葉も話せなくなったか……」
憐れみの視線を受けて、ジワジワと現実であることを理解する。陸に打ち上げられた魚のようにパクパクと口を動かすも、出てくるのは言葉にならない音で。呆れたような言葉も、声の色は優しくて何だか泣きそうになった。
「照星さん……照星さんだぁ……」
「どうした?」
「会いたいなぁって思ってたから、本当に会えてビックリしてます」
疲れていたからなのか、存外優しい声音と眼差しに安心したのか。きっと色んな要素が絡んで、「会いたい」という願望が叶ったことへの嬉しさで浮かれた弾みだったのだと思う。後から思えば臆面もなく子供じみた感想が恥でしかない。驚いたように目を見開く照星さんの顔が新鮮だなとぼんやりと考え、へらりと締まりのない笑いが零れた。
一瞬の出来事だった。握られていない方の手が頬に添えられたと思ったら、唇に何かが触れた。何かは、すぐに離れていく。至近距離で視線が絡んで、その熱っぽさに息が止まる。何が起こったのか思考が追い付かないのに、顔の熱さだけは「何か」を理解しているようだった。
「私も会いたいと思っていたよ」
「そ、れは光栄です……?」
「随分お疲れのようだから、明日の予定も変えるか?」
「っいえ!予定通りお願いします!」
食い気味に主張する私に、照星さんは「そうか」と満足気に笑う。楽しみにしてくれてるのかと思うと、思わぬギャップにときめきポイント三倍デーである。カードタイプだったらそろそろスタンプを押す場所がなくなっていそうだ。
……というアホなことを考えながら、脳内は絶賛大混乱中だった。先程の見たことの無い至近距離の照星さんは夢だろうか。至近距離と言うか、一部分だけ、ゼロ距離ではなかっただろうか。夢だとしたらちょっと自分でもドン引き過ぎるし、夢じゃなければ……事故か。そうか、事故なら仕方ないな。照星さんだって躓いて体勢を崩すことくらいあるだろう。
「君の考えていることを想像しているが、夢でも事故でもないぞ」
「で、ですよね〜!?」
夢でも事故でもなかった。咄嗟に「わかってますが?」という顔をするが、全くわかっていない。照星さんが読心術を使えるという衝撃の事実に驚くやら、自分の理解力のなさに笑うやら、――本当は理解出来ているのに現実を受け止めるだけの覚悟ができていないやら。言葉では踏み込んで来ない照星さんに、何を言えば良いのかわからなかった。
「今日は夜更かししないでゆっくり休みなさい」
「善処します……」
「寝るまで電話していてやろうか?」
「一生眠れない気がするので大丈夫です……」
「そうか。……では、おやすみナマエ、また明日」
かろうじて「おやすみなさい」と返し、道を引き返す照星さんの背を見送る。必死で脳をフル回転させている間にも、身体はしっかりと帰路に付いていたらしい。帰省本能ってすごい。
そして同時に、路線が違うのに改札まで送ってもらったことに気が付く。一つ気が付くと芋づる式に理解してしまって、沸騰したヤカンのように頭から煙が出るかと思った。唇柔らかかったとか、会いたいと思ってくれてたんだとか、頼んだら電話してくれるのとか、次から次へと頭に沸いては上げられない悲鳴を脳内で上げる。でも一つだけ、どうしても収まりきらない悲鳴が口から漏れた。
「急な呼び捨ては……反則です……」