遡ること三ヶ月前。社内のカフェスペースで見たのが初めてだった。フリードリンクのコーヒーを入れに来ていた照星は、隅の席で顔を覆い泣く後輩に寄り添う女が発した声に視線を上げた。
「なんで先輩はクレーム対応しても心折れないんですか?」
「うーん?……あんまり話聞いてないからかも」
「え!? そうなんですか?」
「うん、わざわざクレーム入れてくる人って大体感情的になってるから怒鳴ってる間は聞かない」
「それでどうやって宥めてるんですか……?」
「怒鳴ってる間は『仰る通りです』『お怒りはご尤もです』みたいな相槌打ちながら、一次対応した人の報告書読んでる。で、一頻り発散して落ち着いて来たら対応方法を伝えてるだけ。勿論、こっちが100%悪い時はその限りじゃないけどね」
「でも、自分が悪くなくても怒られるって心削られません?」
「初めの頃はしんどかったな〜。今は直接対面ってこともほとんどないし、今日のお昼何食べようかなぁとか、クレーム対応したから課長に奢ってもらおうかなとか考えてる」
「ふ、ふふ……あはは!先輩、本当に食べることしか考えてませんね」
「食べることは、生きることだから……」
「出た、先輩の名言集。私はやらない後悔よりやる後悔が好きです」
「あ、嬉しい。何事もやったもん勝ちだからね」
思わず聞き入ってしまったやりとりに、照星は感心した。数分前までの湿っぽさから一転、世間話に花を咲かせ始めた二人は、照星には気が付いていない。
よく通る落ち着いた声だと思った。相手に寄り添い、けれど芯はぶらさず冷静なトーンは、なるほどクレーム対応に最適だ。感情的にならず、淡々としているが笑いも混じえる温厚な話し方から人の良さが窺える。
女の声を聞いたのはその時だけだったが、話している相手に心地良さを与える声が、ずっとどこか頭に残っていた。
二ヶ月ほど経ったある朝から、コンビニで見掛けるようになった。商品棚越しに視線を感じるようになって、自分と言う存在を認識していることに驚いたが、話しかける話題もなく、ただ日常の風景に溶け込む存在となっていった。
仕事中に会った時は驚いた。自分に対して「声の良い人だ」とよくわからない認識を持っていることには拍子抜けしたが、挙動不審な様子は初めて見た時の印象よりも人間らしく興味をそそられた。
存外豊かな表情に、反射的に声を掛けていた。鳩が豆鉄砲を食った、という言葉の手本のような顔でどんなことを話すのか。片隅に残った心地好い声に表情が付いて、脳内で「同じ会社の女」から「なまえ」と言うカフェスペースで聞いた名前で呼ぶようになった。初めて本人の前で名前を呼んだ時の顔は、暫く癖になりそうだった。
誘われて食事に行ったのは、トラブル対応で突然の出張から帰って癒しを求めていたのかもしれない。心地良いと思った声で理路整然としているようで突拍子もないことを口走る様子を眺めていたいと思った。
実際、連れて行かれた店はここ最近で一番満足のいく食事だった。隣に座る女の反応も良かった。緊張でギクシャクしていたのに、ご飯を頬張る幸せそうな顔と向けられる純粋な好意は悪い気がしない。本人が自覚しているのか否かは定かではないが、これ以上仲を深めたいとか奢られたいとか、そう言った欲のなさも好ましいと思った。
帰宅後に届いた礼のメッセージは簡素なもので、往復のやり取りだけで途絶えた。スタンプもない必要最低限のメッセージだったが、春を切り取ったような薄い青に咲く菜の花のアイコンが一覧画面の上にいることに柄にもなく心が乱される。「美味しいコーヒー」は体の良い口実で、アイコンが示す春の陽だまりのような女に会いたいと思ってしまった。
誘いに乗った女は相変わらず様子が可笑しかったが、彼女の人となりを知るにはぴったりの日だった。普段よりも明るくカジュアルな服装に、アップにしていることが多い髪は胸元で緩く巻かれており、めかし込んでくれたのだろうことが伺え、口元が緩んだ。
想像以上に満足度の高い時間を過ごせた反動もあったのだろう。なまえの口から出た他の男の名を聞いた瞬間、らしからぬ事を口走ったことに、照星は己が失態に苦い気持ちを抱いた。そして、やってしまったと口を閉ざす照星に「それなら」と代替案を提示し、一方的な気まずさを感じている要素を汲み取りつつも「これから」に向けた楽しみを提供しようとする姿が、初めて見掛けた時に重なる。穏やかで落ち着く声に、素直に「楽しみだ」と口から零れた。
――なるほど、「春の陽だまり」に会いたいと思った時点で結論は出ていたのかもしれない。季節は移ろいゆくと言うのに、目の前の春をずっと眺めていたい。そう思ってしまった時点で、こちらの負けだったのだろう。
街中で見掛けた満開を知らせるポスターを撮影し、菜の花のアイコンに送る。夏が始まる前に、春からの好意が自分と同じものか確かめに行こう。無論、狙った的を外す気は無いが。すぐに付いた既読の文字に、照星は満足気に笑った。