「……今日も朝から元気そうだな」
「ハッ……取り乱しましたおはようございます」
「あぁ、おはよう」
休み明けのいつものコンビニで会った照星さんのネクタイオフの姿に、挨拶よりも先に中途半端な感想が漏れ出てしまった。咄嗟に浮かんだ感想の中で、「クールビズ最高ですね、袖捲りもお願いします」の最初の五文字だけで留まったのは最後の理性だったと思う。言わなくて本当に良かった。
五月初照星さんは慣れた様子で私の奇行も受け流し、本日も良い声で穏やかな挨拶を返してくれる。本当に出来た人だ。あんな大人になりたい。
「スーツ人口が少ないから今まで意識したこと無かったんですけど、クールビズって五月からなんですね」
「最近は四月でも夏日があるからな」
「温暖化ですかねぇ」
温暖化もクールビズもこれまで差程意識してこなかったが、照星さんの色んな格好を見られるのであれば感謝した方が良いかもしれない。自動ドアを潜り、増えてきた冷感グッズコーナーを横目にそんなことを思った。
今年の連休の良いところ、それは仕事始めが水曜日なことだ。連休を得られるだけでも恵まれているとは思うが、休み明け初日はどうしても憂鬱な気分になりがちだ。だからいつもは社内のフリードリンクかコンビニコーヒーにするところを、連休明けは朝からスタバをキメる。平常時は二百五十円のコーヒーに倍の金額を払うことで、「この金額を払うために働くのだ」と言う自己暗示をかけるのである。
「ですがなんと!今日は特別に!」
「メガサイズか」
約百五十円の節約である。ペットボトル一本分の節約でも、普段のルーティンを崩せたことの方に価値がある。通販番組よろしくマシンの前で手をヒラヒラさせる私を、照星さんは呆れを滲ませた笑みで一瞥した。内心は計り知れないが、呆れはあれど否定せずに笑ってくれることが嬉しい。
店内に二台あるコーヒーマシンに並び、照星さんはいつものホットコーヒーのボタンを押す。そろそろ暑くなってきたが夏でもホット派なんだろうか。確かにストローでコーヒーをすする姿はあまり想像出来ないかもしれない。
「照星さんって汗かかなさそうですもんね」
「……君は私のことをなんだと思っているんだ?」
呆れを滲ませた笑み、から笑みがなくなり、ただただ呆れた顔をさせてしまった。連休明け初日からとんだ顔をさせて申し訳ない。でも怪訝そうな顔も格好良いです。流石に本人には言えないけれど。
照星さんのコーヒー二つ分の時間をかけて入れ終えたカフェオレ(メガ)を手に取り、まだ人も少ないオフィスへの道を歩く。気が付けばGWを境に夏になり出す昨今、今日も朝から日差しが強い。カップを持っていない手を額にかざし、夏を垣間見せる太陽に目を細めた。
「今日も暑くなりそうだな」
「年々春が短くなっていきますね」
「夏は嫌いか?」
「夏は夏で好きですよ。仕事終わりのビールが一番美味しいのは夏ですし、具が少ないのに妙に美味しい焼そばとか最近流行りのふわふわかき氷とか……」
「……夏バテとは縁がなさそうで何よりだ」
「あ、あと日中の空は夏が一番好きです!スッキリしない天気でも賑やかな紫陽花を見るとワクワクしますし、梅雨明けの青い空に映える朝顔とヒマワリを見ると夏だー!って元気になります」
きっとすぐに訪れるであろう夏を想像し、今年の夏は何をしようと思いを馳せる。友人と予定を合わせるなら数ヶ月前から計画を立てなければ、なんて早くも浮かれた気分になってしまった。
ふと返事のなくなった横に顔を向けると、予想外にこちらを見つめる瞳と視線が絡む。瞬間、「目は口ほどに物を言う」と言う諺が脳裏に浮かんで、言葉に詰まった。
「君らしいな」
穏やかな顔に浮かぶ優しげな笑みに、この人の瞳に映る人間は誰だと思った。だって、同じ会社の違う部署、最近ようやく挨拶をするようになっただけの人間に向けて良い表情じゃない。
固まる私に面白そうに笑う。弧を描いたままの口から、朝の楽しみでどうしようもなく心が乱される声で言葉が紡がれることが、やっぱり夢のようで現実味がない。
「夏を楽しむためにも、春を満喫しないとな」
「そ、そうですね!週末が近くて今週は楽勝です!」
そう、朝からテンションが高いには二つ理由がある。一つは三日間働けばすぐにまた週末なこと。そしてもう一つは、まさに今隣に立つ照星さんと週末お出掛けに行くこと。
三日前の連休中日、突然送られてきたポスターに目を瞬かせていると、『バラが見頃らしいので行きませんか?近くに美味しいコーヒー屋もあります』というメッセージが届いた。
ポスターには、ずっと気になりつつも行けていなかった季節の花と庭が有名な洋館を背景に色鮮やかなバラが写っていた。季節の花が好きだと言ったことを覚えてくれていたのだろうかとか、本当にコーヒーが好きなんだなとか、……何で一緒に行ってくれるんだろうとか、色々なことが脳内を混乱させる。
ポスターの写真とメッセージを何度も見返して、三十分程熟考の後にようやく『承知致しました。来週の土曜日はいかがでしょうか?ご都合が合わなければご遠慮なくお申し付けください。』と返したことは昨日のように覚えている。ちなみに返信は『仕事用のLINEを使っていたのか?こちらは土曜日で問題ない』だった。打ち慣れた文面、得てして脳内テンプレートになりがちなのである。
「でも意外でした、照星さんもお花好きなんですね」
「……まぁ、そうだな」
「一人で見ることが多いので一緒に行けて嬉しいです。誘ってくださってありがとうございます!」
あのメッセージのやり取りの後からずっと考えていた「何故」は、考えることをやめた。いくら考えても他人の心を読むことは出来ない。ならば、好意は素直に受け取っておこう。美味しいコーヒーを誰かと飲んで感想を言いたい時だってあるし、ただ何となく誰かといたい時はある。その誰かとして声をかけてもらえた、ということが嬉しかったから、今はそれだけで良い。
一人で納得して水滴が浮かぶカップを見つめる私は、本日何度目かの呆れたような笑顔を浮かべる照星さんに気が付いていなかった。
「デートのつもりで誘ったんだが、そのつもりで来てもらえると助かる」
耳元で伝えられた発言はフリーズさせるのに十分だった。エレベーターに吸い込まれていく姿をただ見つめることしか出来ない私を、照星さんはそれはそれは可笑しそうな顔で笑っていた。
***
『HeyOST、デートってなんですか?』
『好ましく思っている者同士が、日時を決めて逢瀬を楽しむことだな』
送信時間九時二分、返信も九時二分。毎朝の定例会議中のはずなのに、相変わらず返事が早い。そして正確だ。入力欄の下でペンのマークがもにょもにょ動いたかと思うと『お誘いか?何時でも良いぞ』というメッセージが追加され、とりあえずいいねのリアクションを付ける。
ぼんやりと「デート」の文字を眺め、口の中で転がすように呟く。途端に火が付いたように身体が熱くなって、通勤鞄からハンディファンを取り出して電源ボタンを押した。火照る顔に風が心地好い。
今日は在宅の人が多くて良かった。挙動不審な自覚はあったが、すぐにどうにか出来そうにない。人が少ないのを良いことに広々と使っていたデスクからノートパソコンだけ持ち、空いた個室ブースに駆け込む。リモート会議や集中したい時に使える個室ブースは四方がパネルに覆われており、周りからの視線を遮ることができるのだ。
ブース内でノートパソコンを開くと、押都さんとのチャットに新着マークが表示されている。押都さんのアイコンをクリックして開くと『ぴえん』の絵文字だけが送られており、思わず吹き出してしまった。
『押都さんがぴえんしてるの想像して和みました』
『椎良に教えてもらった。イマドキだろう』
『もう若干古いですよ』
『なんだと……もしかしてこれも古いのか?』
『うーん、息の長いミームだからギリギリセーフ』
『そうか、最近の流行りは早いんだな……』
ヨシッ!してるヘルメットを被った猫をイラストを送ってくる押都さんに笑ってしまう。法務部の日常においてどこで使うんだろう。
『そんなことより、週末も日差しが強いから日焼け止めを忘れるなよ』
『私週末出掛けるって言いましたっけ?』
『法務部の情報網を侮るなよ』
『弊社の法務部コワイヨー』
『混雑する場所だと屋外でも日傘禁止の場所も多いから荷物になるぞ』
『え、そうなんですか?持ってくのやめよ』
『段差も多いから歩きやすい靴がオススメだ』
『もしかして場所まで把握していらっしゃる?』
『さぁ、どうだろうな』
『着いてきたら一ヶ月チャット無視しますからね』
『ぴえん』
『絵文字だけ送ってきてもダメです』
『幸運を祈る。上手くいくといいな』
咄嗟に返答の言葉が浮かばなかった。
上手くいく、とは。考えて、いつものやり取りで落ち着いてきた心臓がまた煩くなる。
――やめたやめた、今は仕事をしよう。仕事が好きとか死んでも思わないけど、給料分は働かないと。幸い休み明けでやるべきことは山程ある。……うん、ちょっと想定以上に。しかもちょっとヤバそうな件名のメール見ちゃった。溜息ひとつ吐いて頭を切替える。今日も残業かもしれないが、沢山休んだ分働こう。そう思いながら、新着マークの付いたメールを開いた。
***
「や、照星」
「………」
「待って待って待って、同じ職場なんだからせめて挨拶くらいしよう?」
「こんにちは雑渡昆奈門、さようなら」
「待って?」
面倒な奴に会ってしまった。軽薄そうな笑みを浮かべる眼帯の大男は退出しようとする自分の道を塞ぐように扉の前に立つ。無駄にでかい図体だとは思っていたが、忌々しい。溜息一つと踏み出した足を戻すと、わかりやすく笑みが深まるのだから厄介だ。
「久しぶりだし私に話すことあるんじゃない?」
「生憎、お前に話すことなど何もない」
「え〜、なまえちゃんから私の事聞いてない?」
「彼女との会話を何故お前に言う必要が?」
「相変わらずつれないねぇ」
何を言ってもニヤニヤと面白い玩具を見つけたように笑う雑渡に舌打ちする。こうなった奴の話は長い。「たい焼きオレ」と書かれた紙パックをストローで啜りながら隣に立つので一歩身体を避ける。「え、傷付く」とか何とか言っているが無視だ。
「なまえちゃん、可愛いでしょ」
「……まぁ、見ていて飽きないな」
「否定しないってことは満更でもないな」
やはりと言うか、予想通りの話題に頭を抱える。牽制か冷やかしか、はたまたそのどちらもか。
「なまえはさ、昔っからしっかりしてて一人で何でも出来ちゃうタイプだったんだ。社会人になっても大抵の仕事はこなすし、評価も高い。ちょっと挙動がおかしい時もあるけど」
「ちょっとか……?」
初手「良い声の人だ!」に始まり、会う度に挙動がおかしい女を思い浮かべ、訝しんだ。雑渡は身内に甘い。とりわけ可愛がっているという妹分のことはさらに盲目になっている可能性が高い。
しかし、「評価が高い」という点においては一定納得感があった。おかしな挙動を除けば、なまえという女は理解力もあるし感情よりも理性で動いていた。初めて存在を認知した時の印象が強いのだろうが、以降の会話でもその印象は揺らがなかった。
「男を見る目がないと言うか、大概のことが自分でできるから男を頼らないんだよね。可愛げがないとか好き勝手言われて振るような男ばっかり引き寄せて、最近は懲りたのか恋愛そのものがさっぱり」
「……想像できるな。なまじ人当たりが良いから勘違いする輩も多いだろう」
「そうそう。いい大人だしなまえが幸せならって見守ってたけど流石に見る目が無さすぎる。だからさ、照星なら丁度いいなって」
「は?」
「お前も他人を頼らない。甘えもしない。だからといって他人を拒絶するわけでもない、人間同士の関わり合いを尊んでいる。……一人でも生きられる者同士、お似合いだよ」
率直に言うと、驚いた。およそ大人に対して違和感すらある過保護さに、「なまえに手を出すなら先に面談をさせろ」くらい言い出すものかと思ったのに、あっさりと認められてしまった。最初の揶揄い口調から一転、慈しみすら感じさせる穏やかな口調に毒気が抜かれる。
「他人に期待をしない、と言うのはある意味で正しい。過度な期待は大概その後のトラブルの元だ。でも、プライベートでも誰にも期待しないなんて、あの子には寂し過ぎるだろ?」
「身内に対してもそうなのか?」
「ある程度の甘えはあるだろうけど、なまえから『してほしい』って言われることはまずない。誕生日だから贈り物を贈りたいという気持ちを尊重して受け取る、とか、こちらがやりたいからやってることを受け入れてくれるだけだよ」
「あの子が人に何かを望むこと自体レア」と言葉を続ける雑渡は、眩しそうに目を細めて宙を見ていた。それなりに長い付き合いになっていたが、初めて見る表情だった。
いけ好かない男ではあるが、人を見る目は確かな雑渡の言うことには信憑性がある。ましてや幼い頃からの付き合いだという女に関しては、自分より余程詳しいだろう。……遺憾だが。
「ま、最終的に決めるのはお前たちだけどね。二人のことをよく知る私からの激励だよ」
「知ったような口を……」
「腐れ縁とはいえ長い付き合いだろう?お前も案外表情に出るから」
それがわかるのはお前くらいだと言おうとして、調子に乗るのが目に見えて口を閉ざす。調子に乗った時の面倒さは過去何度も味わったし、できればもう味わいたくない。
「でも泣かせるようなことがあれば、内容はどうあれなまえの味方するからよろしく」
「肝に銘じておく」
満足気に笑うと手を振って喫煙所を出ていく。「美味しくないからあげる」と差し出された紙パックは拒否した。寧ろ美味しいと思って買ったのか。
途端に静かになった場所で、息を吐き出す。元より他人にどうこう言われて意思を変えることはない。ただ、随分愛されている様子に僅かに嫉心が疼いたのも事実で。無性に会いたいと思ったことに自分でも驚き、苦笑が漏れた。