君ノ雨跡ヲ見タ


は?

間抜けな声が聞こえた。それはよく知る自分の声で、何が起きたのかとフリーズしてる間にまた一拍遅れてバシャン、といった音が微かに下から聞こえてきた。その音で今しがた目にしたものが現実であったものなんだと認識する。

偶々だった。運悪く担任に捕まって、荷物を滅多に使わないような教室に持っていくように言われた。そして置いてきたその帰りに、普段は通らないその廊下で目にしたものは、透明な塊が窓の外を落下していく光景だった。そしてあの間抜けな声が出た。

それは水だった。バシャン、とした音からして間違いない。一体誰がと思うも好奇心に負け確認したのは下の方だった。窓を開け覗き込んで見たその光景に、今度こそ硬直してしまった。


その瞬間、息をのむ。


晴天だった。雲一つない、まさに快晴。そんな陽射しが照りつける太陽の下、異様な姿の女がそこに居た。いやに目を引き付けるその姿に足が止まる。開け放たれた窓枠に身を乗り出すまではしなくとも、吃驚しすぎて咄嗟に掴んだ手が凸凹とした鉄に押し潰されて痛かった。それよりも、そんな痛みよりも、その光景に目を見開く。

言葉を、忘れてしまった。

まるで土砂降りの雨の後の様にずぶ濡れて、そいつは一人そこに居た。青みがかった髪から滴る雫がポタポタと落ちている。バケツ一杯分。下手したらそれ以上の水分量を全身に被ったそいつは、眩い光の中にただ佇んでいて。そこだけが、その光景だけが切り取られ異質なような何かで構築されているかのような、そんな馬鹿げた錯覚を覚えさせる。

簡単に言ってしまえば、見惚れてしまったのだ。

止まってしまった足が、捉えて離せない視線が、その証拠で。息をのむ。その光景に、佇む彼女に。そこだけが、時間を忘れてしまった様に止まっていた。


「………ぁ、」


目が合った。
地べたへ注がれていたそいつの視線が、ふと上へと浮上していき。二階に居る俺と目が合った。綺麗な黒だった。あれを漆黒だとでも言うのだろうか。動けなかったし逸らせなかった。その光のない瞳の中に、目を見開く俺が写っていた。ような気がした。

どちらともとれない僅かな音が時間を再び動かした。それは俺だったのかもしれないし、下に居るそいつだったのかもしれない。いや、今はそんな事どっちだっていいんだ。それよりも、そいつは俺に見られていたと言うのに目を見開くでもなく、表情を歪めるでもなく、無表情のまま。そのまま何事もなかったかのように、立ち去っていった。残されたのは俺だけで、逆に俺の方が困惑していた。は?と。表情が歪む。何故そんな、あんなに普通なんだ。


(いやいや、普通に普通ではなかったか…、)


普通ならあんなとこ、誰かに見られていたと分かれば恥ずかしかったりするだろ。気まずさから走って逃げるだろ。なのに、普通に白けたように歩いていったぞあいつ。

数秒、彼女が立ち去っていった方角を見つめていた。校舎の外。そこにそいつの姿は既になくて、開け放たれた窓からそよ風が入り込む。思い出すのはそいつの瞳。何も写さない真っ黒な瞳。

キャハハと不愉快な甲高い高笑いと、水の塊が落下していく光景を塗り潰すように、その瞳を瞼の裏に焼き付けた。



☆ ☆ ☆



「そりゃ多分、椿姫だな」

ずずー、とパックのフルーツジュースを飲みながら、最近ボーダー関係で知り合った米屋が答えた。

「ツバキ?」
「そ、椿姫閑。結構有名人だぜ、悪い方のだけど」

ずっ…、お、なくなった。と中身を覗きこむ米屋は、次には微妙な音を弾ませて、ずずーー!と最後の一滴まで飲み干しパックを握り潰していた。そんな一連の動作を視界の端で認めつつ、考えるのはつい数時間前の出来事。

言っちゃなんだが、虐めの現場とは思えないほど、幻想的だった。何がとははっきりと言えない。敢えて言えるのは、あいつの立ち姿が、そうさせている様に見せていた。そんな感覚。

ぼぉーと思い出していると、がこんと何かが何かにぶつかる音が耳に届いた。米屋の手元にあったパックがなくっている。米屋の右手が上がっていて、投げのポーズを決めているところから察するに、パックをゴミ箱に見事投げ入れたようだ。満足げに背伸びをし、ふいに此方へと向けられる視線。

「現場見ちまったかぁ」
「犯人は見てないけどな。でも上の階から声してたからなぁ」

多分、というか確実にそいつ等だ。不愉快な笑い声。他者を陥れてなんとも思っていない奴の愉しげな、いや、なんともじゃない。あれはそれよりも質の悪い。ああー今思い出しただけでも胸の辺りがムカムカしてきた。

「何が愉しいんだか…」
「結構色々とやられてるらしいぜ。俺も噂程度にしか知らねぇからこれ以上は言えねぇけど」
「そういや悪い方って言ってたけど、あいつどっからどう見ても被害者だったぜ?」
「いや、それがそーでもねぇみたいなんだなこれが」

全身を水浸しにし、俯くあいつの姿が浮かぶ。
どこからどう見ても虐めを受けているのはあいつだ。なのになんで『悪い噂』とやらがあるんだ。噂の内容は知らない。知らないが、あんな光景を見た後じゃ納得できなかった。

米屋は困ったように頬を掻く。「目、怖ぇーよ」そう言われて初めて睨み付けていたことに気づいた。別に米屋が悪いわけじゃ無いのに何やってんだ。ばつが悪く、「ごめん」とポツリ溢し顔を反らした。米屋が溜め息を吐くのが分かった。

いっずみー。

名前を呼ばれ反らしていた目をたった数秒で元の位置に戻すと、呆れているのか困っているのか、ちゃかしたような呼び声に反して米屋の表情は微妙だ。数回、あーだとか、うーだとか、珍しく言い淀んだ後に苦笑混じりに吐き捨てられた忠告は、ものの数秒で頭の隅に追いやられていた。


「あんま関わんねぇ方がいいぜ」


なんて忠告。この時既に手遅れだったんだと。二人が気づくのに後、数日。

16.12.15
いずみんとツバキちゃん。