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読んでいた本に影が落ちてきた。顔をあげれば若い女性が人好きする笑顔で立っていた。手には茶色い丸盆を持っている。その盆に置かれたジュースと、小さなバスケットに入ったクッキーをテーブルに置いたので慌てて本をバッグにしまった。
だけど、ふとおかしなことに気づいて店員さんの顔を見る。
「あれ? 大月さん、私みかんジュースしか頼んでないよ?」
「サービスよ。期間限定のさつまいものクッキー、美味しいから食べてみて」
小さな喫茶店には客は私しかいない。外は小雨が降っているし朝見た天気予報では今日一日、やむことはなかったはず。きっと余るだろうからサービスしてくれたんだろう。
ニコニコと笑う大月さんに、遠慮するのも野暮だと思いさっそくクッキーを一枚食べた。食べた瞬間、大月さんの顔が「どう?」と反応を伺うように首を傾げた。
「美味しいよ。さつまいもの甘さが優しいし」
「本当? よかった! そのクッキー、私が企画したのよ。誰かから感想がほしかったんだけど、なかなか聞く機会がなくて困ってたの。愛子ちゃんが来てくれてよかったわ」
すっきりした表情で大月さんが胸を撫で下ろした。さくさくとクッキーを食べ進めながら、チラリと横目で大月さんを見る。スタイルが良くて顔も可愛い、それに加えて料理もできるのか。喫茶店でパートの仕事をしているのだから多少料理はできるとは思っていたけれど、商品を企画するほどとは思わなかった。秀でた才能のない私には少し眩しすぎた。
自分との違いをひしひしと感じながら大月さんを見ていると、ふと違和感を覚えた。いつもと違う。
「今日いつもと違うね。……あ、髪の毛可愛くしてる」
任務でホテルに泊まってから、毎日この喫茶店に通っているけどいつもポニーテール姿だった。それが今日は両サイドの髪を緩く編み込んで後ろで結んでいる。化粧もどことなくいつもより濃い気がする。
そう指摘すれば、一気に大月さんの表情がとろけた。
「わかった? 実は今日、主人とデートなの」
デレッと目を細めて、左手を見せてきた。薬指には結婚指輪。
「わあ! じゃあ今から楽しみだね!」
「そうなの。あの人忙しくてあまり一緒に出かけることないから本当に楽しみで……。愛子ちゃんも今日はいつもよりウキウキしているけど、このあと何かあるの?」
「うん! 今朝、お兄ちゃんにギター弾いてもらう約束したの!」
「まあ、愛子ちゃんのお兄さんも忙しいんだよね? よかったわねえ」
「お互いに幸せな日だね」
微笑む大月さんはすごく綺麗で、こんな優しい人と結婚できた旦那さんは幸福者だなと思った。
私の身の上話は簡単にはできないから、バーボンを兄ということにして兄の仕事の都合で近くのホテルに泊まっているとだけ伝えてある。逆に大月さんは私にたくさん話してくれた。新婚であることや、旦那さんが仕事で忙しくて寂しいからこの喫茶店でパートの仕事をしていること。他にもたくさん話してくれる。きっと私が寂しがっていると思っているんだろう。
「愛子ちゃんのお兄さん、ギター上手なの?」
「うーん、わからない。昨日弾けるって知ったばかりだから。でもなんでもできる人だから、きっと上手だと思うよ」
「あら、お兄ちゃんのこと大好きなのね」
微笑ましそうに目を細めるので、違うとは言いづらい。それに人としては好きだし、間違ってはいないから素直に頷いておいた。でも兄としてはライの方が好きだなあ。ロリコンっぽいけど。
なんて思っていると、道路沿いの大きな窓ガラスの外に見慣れた人影が見えた。まだ遠くて小さいけれど、確かにバーボンだ。
植木で外が見えていない大月さんに、兄が来たことを伝えてからコップにわずかに残ったジュースを飲み干す。
バーボンが来る前に店から出ようと、慌ててレジでお会計をしているときに、大月さんがラッピングしたクッキーをウインクしながら渡してきた。思わず受け取ったけれど、さすがにさっきクッキーをもらったのに、またもらうなんてできないと返そうとしたけれど「どうせ余っちゃうから、お兄さんと食べて」と言われてしまって返しづらい。
今度お返ししなきゃと思いながら鞄に入れてから、元気よく喫茶店の扉を開いた。ベルはついていないから勢いよく開けたけれど静かだった。
「また来るね!」
手を振ると、大月さんも振り返してくれた。
バーボンはもう十数メートル先まで来ていて、私が店から出たのに気づいて表情を明るくさせながら足を速めた。
「やっぱりここか」
「うん! 今日はみかんのジュース飲んだんだー」
バーボンは店内を覗き見たが、大月さんはもう店の奥に行ってしまって見えなかった。
「あんまり甘いものばかり飲むと体に悪いぞ」
「大丈夫! ここのジュースはミキサーで潰したジュースだから」
「それならいいが……。ほら、早くホテルに戻るぞ。スコッチが待っている」
「スコッチ?」
「ああ。先にギターを持って帰ってもらったんだ」
それなら待たせたら悪い。バーボンについて急いでホテルに戻る。
道すがら、大月さんから帰り際にクッキーをもらったからスコッチと三人で食べようと提案した。最初は喜ぶ私を見て機嫌のよさそうだったバーボンだけど、私が口を滑らせて「美味しかった」と言った瞬間に、間食のし過ぎだと口うるさい母親モードに入ってしまった。
結局クッキーは明日の朝食デザートになるらしい。残念だ。