08

 話し合いのときの恵子ちゃんの怯えた顔と泣き出しそうな顔がどうしても頭から離れず、翌朝、まだほとんど起きている人のいない時間にくのたま長屋に忍び込んだ。
 怯えは小田さんも見せていた。彼女はすぐに消えてしまったけれど、恵子ちゃんはまだここにいる。もしかしたら眠れぬ夜を過ごしたのではないかと思うといてもたってもいられなかったのだ。
 恵子ちゃんが寝泊まりしている部屋に着き、挨拶をすれば中から返事が返ってきた。少し困惑したような声。そして寝起きとは思えない疲労が滲んでいた。
 慌てて障子を開けようとする恵子ちゃんを、そのままでいいと制した。約束もせず早朝に勝手に来たのだから人前に出る用意もできていないだろう。障子越しに会話をすることにした。

「昨日は本当にすみませんでした」
「……え? 北野、くんに謝られるようなことされてないよ?」
「先輩、怖かったですよね。もう少し冷静になるように言えればよかったんですけど……」
「そんな、北野くんは悪くないよ」
「……いえ、謝らせてください。騙しててすみませんでした。言い訳になってしまいますが、前にいらっしゃった天女さまが二人とも俺関係でごたついたんです。それで今回、恵子ちゃんとは女装姿で会ったからそのまま女だと思わせておけって先輩に言われたんです。……恵子ちゃんは怖い思いをしたのでわからないかもしれないですけど、先輩方は後輩思いで優しい人たちなんです。ちょっと俺のことを心配しすぎただけなんですよ」

 見えないのはわかっているけれども、障子を挟んで恵子ちゃんに頭を下げた。少し間を置いてから恵子ちゃんの穏やかな声が聞こえた。

「大丈夫、立花くんや潮江くんが優しい人だって知ってるよ。……それこそ、ここえ来る前から知ってるわ」

 それは、どこか懐かしむような愛の満ちた声だった。

「前、から……」

 やっぱりか知っていたのか。一つ頷いて納得してから部屋の中の気配を探る。依然、恵子ちゃんは存在している。
 小田さんのときは知っていることを告げようとして消えてしまったから、天女が我々のことを知っていることがバレたら消えてしまうのかとおもったけれど、どうやらそういうわけではないらしい。
 天女が消える仕組みを黙って考え込んでいると、恵子ちゃんは俺がどうして知っているのか考えていると思ったようで「詳しくはまだ言えないけど」と申し訳なさそうに言ってきた。

「あ、言いたくないわけじゃないの! その、まだどうやって説明すればいいかわからないから。ちゃんと説明できるようになったら皆に言うつもりなの」
「そんなに慌てなくても大丈夫ですよ。恵子ちゃんが悪い人じゃないって皆わかってますから」

 宥めるように優しく言うと恵子ちゃんは安心したように息を吐いた。
 そう、恵子ちゃんは悪い人じゃない。天女調査委員会として恵子ちゃんをしばらく観察した人たちはみんなわかっている。
 今までの天女だってそうだ。俺たちは忍者のたまごだ。殺意や悪意に敏い。彼女たちの俺に対する反応はどちらかというと防衛反応のように思えた。それがどうしてかはわからない。きっと何か掛け違いが起きたのだということを後から気づくだけ。
 空がだんだんと明るくなり始め、遠くからざわめきが聞こえてきた。そろそろ朝の準備を始めないといけない時間だ。
 俺は懐に忍ばせていた包みを取り出し、障子の近くに置いた。

「俺のおすすめの茶屋のまんじゅうを置いておきます。疲れたときには甘いものがいいですから、食べてください」
「え、そんな……悪いよ」
「昨日の迷惑料だと思って受け取ってくださいよ」
「……それじゃあ、あ、ありがとうね」
「あ、それと俺のことは市蔵とでも呼んでください。今まではお市として接してましたが、これからは市蔵として恵子ちゃんと仲良くしたいんです」

 北野くんと呼ばれて感じた違和感に、俺はそう提案した。たぶん、恵子ちゃんとは良い友達になれると思ったのだ。騙していた俺が言っていいのかわからないけれども、もし水に流してくれるのならば前みたいにのんびりとお喋りをしたい。
 そんな思いが通じたのか、「これからもよろしくね、市蔵くん」と返した恵子ちゃんの声は前と変わらない明るいものだった。
 「また面白いものを見せますね」と言い残して、くのたまに気づかれる前に恵子ちゃんの部屋をあとにした。

ヒトリヨガリ