17
次に話を再開させたのはタカ丸だった。
「恵子さんは、やっぱりここに残るんですか?」
それは、この間終えたはずの話だった。
「……うん。前もそう言ったよね? 気持ちは変わってないよ」
前にその質問をしたのもタカ丸だった。時間があの日に巻き戻ったような気持ちになる。
恵子ちゃんも俺も、タカ丸が真に何を聞きたいのかわからず、じっとその綺麗な顔を見つめた。
タカ丸は、何も考えていないような顔をして、実は内心ではいろいろと考えている。だから、このあと続く言葉を固唾を飲んで待った。
「どうして残るんですか? 市蔵くんのことが好きだから? それとも、ここが恵子さんの言う『好きな物語』の中だから?」
「……どっちも合っているし、少し違うわ。私は、市蔵くんがいなくても、忍術学園以外でも、この世界が好きなの。こればっかりは私の世界を知らないタカ丸くんに説明できないけど、本当にこの世界は素敵なところよ。理想郷と言ってもいいくらい」
「本当に?」
「え……?」
「本当に、恵子さんにとってここは素敵な世界ですか? 僕にはそれがよくわからないんです。確かにぼくは恵子さんの世界を知りませんけど、恵子さんが市蔵くんに話した内容は少しだけ知っています。便利な世界だって思いました。それこそ神さまのいるような世界だと」
タカ丸は、淡々と、不思議そうな声音で言葉を紡ぐ。
「ぼくはこの世界が好きです。好きじゃないことだってたまにあるし、もっとぼく好みの、みんなが自分の好きな髪型を楽しめるような世界も見てみたい。……だけど生きたいのは、この、市蔵くんやみんながいる世界なんです。……別に恵子さんが自分の世界を嫌っていてもいいとは思うんですけど、でも、嫌いではないですよね?」
タカ丸が問いかけると、静寂に包まれた。
恵子ちゃんは何も言えずにタカ丸を見つめ続けている。俺はそんな恵子ちゃんを見守っていた。俺が口出しするようなことではないから。
タカ丸は、一貫して責めるような物言いはしていない。もししていたら俺はタカ丸を止めただろう。
この世界に残るか、元の世界に帰るか。その選択はとても重いもので、失敗すると恵子ちゃんは一生苦しむことになる。だからタカ丸は何度も問うのだろう。
ほどなくして、恵子ちゃんはくしゃりと顔を歪めて「嫌いじゃないよ」と小さな声で言った。
「いいことも悪いことも両方あった。ちょっとだけ嫌なことの方が多いけど。……でも、別の世界で生きたいと思うほどの不満もなかったかなあ。それでも、ここにいたいって思うのはダメなこと? 嫌いじゃないと、世界を捨てちゃダメ?」
大事なものも、好きなものも、便利さや、命の安全だって向こうにある。それでも、恵子ちゃんはこの世界を選びたいと言う。
タカ丸は、ふっと表情を和らげた。
「いえ、駄目じゃないです。恵子さんが後悔しないのなら」
それを聞いて恵子ちゃんは困ったように肩を竦めた。
「後悔はきっとすると思うわ。でも、帰ったって大なり小なり後悔はするよ。選択するっていうのはそういうものでしょ」
「どちらかを諦めるってことですからね」
「それなら……、どっちも後悔するのなら、私は今したいと思う方を選びたいの」
いまだに心の底にある迷いを断ち切るように、恵子ちゃんは酒を一気に煽った。
恵子ちゃんの決意を聞いたタカ丸も、満足そうにお猪口に口をつけた。
随分と長々話していたから、もう月は南の空に見える。そろそろお開きにしなくては、明日に響くだろう。
二人に声をかけて酒を飲み切ると、恵子ちゃんは欠伸をしながらぐっと伸びをした。酔いもあってか、表情がゆるんでいる。
「ここに来るの本当に急だったから、向こうがどうなってるのかちょっとだけ気になるね。なんか、こう、不思議な鏡みたいなので覗けたらいいのに」
「あ、それ俺も気になる。そんなのがあったら恵子ちゃんの住んでる世界が見れるのに」
「ね。私も市蔵くんたちに見てもらいたい! 絶対に面白いと思う」
俺とタカ丸が片付けをしている間、恵子ちゃんは食べ物が腐って周りに迷惑かけていたらどうしようと小さな心配をしていた。もう恵子ちゃんがこっちに来てひと月ほどになるから、きっと腐るならもう腐っているだろう。
平和な悩みを笑いながら聞いていると、恵子ちゃんは急に「あっ!」と大きな声を出した。
「どうしたの?」
「好きな本の続き、もう読めないなあって……」
恵子ちゃんは肩を落として悲しんでいるけど、これまた平和すぎる内容だったので俺は「なんだ、そんなことか」と笑ってしまった。
「そんなことじゃないよ。私が子供のころから読んでるやつで、もうそろそろ終わるんじゃないかってところだったのに……」
「それは結末が気になりますね」
「だよね、タカ丸くん! あー、もう、最終巻が出たらそれだけ読みに帰りたいくらいだよ!」
さっそく後悔してるね、と声をかけようとしたのに、その言葉は出なかった。
恵子ちゃんが、光に包まれたからだ。
例の、天女が世界に帰ったときと同じ光だ。
俺やタカ丸だけでなく、恵子ちゃん自身も驚いて目を見開いている。
「え、どうして!?」
「恵子ちゃん、なんで!」
「わ、わからないよ、私も!」
眩しい光に照らされながら、恵子ちゃんは「帰りたくない!」と自分の体を抱きしめたけれど、そのすぐあとに背景に溶けるように消え去ってしまった。それと同時に謎の光も消え、強烈な光に視界を焼かれた俺は、すぐには暗闇の中恵子ちゃんを探すことはできなかった。
目が慣れたころには、恵子ちゃんがいないこと以外はいつもどおりの夜の中庭が広がっていた。
俺とタカ丸は、ただ唖然として立ち尽くすことしかできなかった。