降谷零という男と初めて会ったのは十五歳の春のことだった。
第一志望の高校に進学できて浮き足立った私とは違い、彼は凜とした表情で教室の窓から桜を眺めていた。第一印象は氷のような人。幼さの残る顔はどこか冷たさを感じさせていた。けれどその印象はクラスメイトとして過ごしているうちに徐々に変わっていった。授業中の彼は初めて見たときと変わらない、冷淡な眼差しをしていたが、休み時間や行事のときは年相応の言動を見せた。
案外普通の十五歳だ、なんて思っていた。
そうして私は普通のクラスメイトとして一年を終えた。これでお別れかとほんの少し寂しい気持ちで迎えた二度目の春。また教室には降谷くんがいた。掲示物のない真っさらな教室で、今年もよろしくとかなんとか言ったような気がするが、もう何年も前のことだからはっきりとは覚えていない。それくらい、この頃の私にとって彼はただのクラスメイトのうちの一人だった。
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二年生になってすぐ、オリエンテーションをかねた遠足が行われた。行き先は水族館。何度も行ったことがある馴染みの場所で、最初は高校生にもなって地元に遠足か、なんて思っていた。
遠足なので一応班行動と言われていたが、いくら友達でも見たい場所も違えば歩く速度も違う。薄暗い館内で、何だったかもう忘れてしまったがとにかく何か目を引く生き物がいた。気づけば班の子たちと、はぐれてしまっていた。だからといって個人行動をするわけでもなく、そばに居た別の班の子とぶ厚いガラスの向こうの生き物を見ながら「可愛いね」とか「動いてるね」とか、どうでもいい当たり前のことを言い合って一緒に歩いた。しばらくすると、その班の子たちともまたはぐれ、人混みの中をぼんやりと歩いていた。
イワシの大群を見て、つい「美味しそう」とありきたりな独り言をこぼした。誰に宛てたわけでもない、空気にとけるはずのその言葉に横から返答があった。
「イワシの旬は秋から冬だから、今の時期はイワシよりカツオの方が美味しいよ」
普段遠くから聞く声。どきっと心臓がはねた。動揺を隠すように、わざと横を見ることなく眼前に広がる青と銀だけを見つめる。一匹たりとも和を乱すことなく円柱を作る銀の群れ。
そうっと深呼吸して気持ちが落ち着いてから、やっと私は降谷くんの顔を見上げた。彼も彼で水槽を見つめていて私のことなんて気にした様子はなかった。
何度か悩んだ末、「カツオいるかな」という、これまたどうでもいいことを口走った。降谷くんは虚を突かれたように、いつもに似合わない表情をしてやっと私を見た。視線がぶつかる。初めて彼の瞳を真正面から見た。群青色の大きな瞳はどこまでも続く深海のようだ。
「どうだろう」その声に笑いが含まれていた。
私は顔が赤くなるのを感じた。別にカツオなんて見たいと思ってない。華の女子高生が学年で噂のイケメンを前にして出た言葉がこんなものなんて。気の利いたことも言えないのが悲しくなる。降谷くんのファンの子だったら、きっと可愛いことが言えただろうな。頭の中がぐちゃぐちゃになるのを大きく深呼吸して落ち着かせる。
なんとか正気を取り戻した私は、降谷くんの周りに見知った顔がないことに気づいた。
「降谷くんも班の子とはぐれたの?」
「いや、僕は……」
降谷くんが途中で言葉を切ると、私と降谷くんの間を割るように、にゅっと人が現れた。驚いて「うわあっ」と変な声が出た。黒い影がクツクツと笑う。
「ヒロ、そんなに笑うな」
「ああ悪い悪い」
さっきと違う意味で心臓がどきどきする。胸の上に手を置いて呼吸を整える。
「そんな驚くと思わなくて」
なおも楽しげに言う男子生徒の顔を見た。見たことのない顔だった。クラスメイトではないその男子生徒と降谷くんは随分親しげな様子だ。見たことのない穏やかな表情の降谷くんに目が離せなくなった。
「ゼロが女子といるなんて珍しいな」
「ゼロ?」
「ああ降谷のことだよ。レイだからゼロって呼んでるんだ」男子生徒は指で丸を作って見せた。
降谷くんをあだ名で呼んでいる人に初めて会ったし、降谷くんが誰かをあだ名で呼ぶところも初めて見た。一年と少し降谷くんのことを見ていたけれど、今日は知らなかった一面をたくさん発見している。
降谷くんのことをゼロと呼ぶ男子生徒は、降谷くんと幼なじみで諸伏景光というらしい。諸伏くんと話す降谷くんは、授業中とも休み時間とも違う満ち足りた表情をしていた。情報量が多すぎて目が回る。そんな私に気づくことなく二人は話を進める。
「向こうで売ってるイルカソフトにするから」
「イルカソフト」という、諸伏くんから出た随分と可愛らしい単語に固まり、思わず諸伏くんを見た。そんな私に気づいて彼は軽快に笑った。
「昨日の体育のバスケ、勝負してたんだ。負けた方が買った方に今日何か奢ろうって」
その表情と、さっきの台詞で勝負の結果は明白だった。さすがの降谷くんもチーム戦だと百戦錬磨とはいかないらしい。
諸伏くんが降谷くんをイルカソフトの売っているカフェに連れていこうとすると、降谷くんがちらりと私を見た。
「セシリアさんも行く?」
「えっ」
「イルカソフト、食べに行く?」
まさか降谷くんに誘われるなんて思ってもみなかったから反応が遅れた。「え」とか「あ」とか、まとまらない言葉をいくつか出してから、やっと力を振り絞って「行く」と返事をした。その二文字に一生分の勇気を使った。
少し離れた二人に駆け足で近寄ると、降谷くんは「走らなくても待ってるのに」と苦笑した。わかっているけれど、それでも天下の降谷くんを待たせるわけにはいかないから焦ってしまった。
諸伏くんを先頭に、降谷くんと二人並んで歩く。相変わらず、館内は所々に青い照明があるだけで仄暗い。閉塞感を覚える。それに人気者の横を歩くのは気が張って息が詰まるから、まるで水中にいるよう。誰かに見られていないか気が気じゃなかったけれど、幸運なことに五分も歩かないうちにカフェに着いた。カフェはさっきまでと正反対の開放的な雰囲気だった。窓ガラスが大きくて青空が広がっている。人はたくさんいるけれど、同じ学校の子たちは見当たらない。ほっと息を吐いた。
「イルカソフト三つ」私が落ち着きなくきょろきょろと辺りを見ている間に、降谷くんがさっと注文した。
「あ、お金……」
「いいよ。僕が誘ったんだし、一人分くらい増えても」
「い、いやいやいや! 本当に払うから! 降谷くんみたいなイケメンの横にいるだけでお金払わなきゃいけないくらいなのにソフトクリーム買ってもらうなんてできないよ!」
勢いに任せて言い切って、降谷くんが目を白黒させている間に鞄から財布を出してキャッシュトレーに小銭を叩きつけるように置いた。勢いがよすぎてガチャンと音がしたけれど、降谷くんは気にする様子もなく「律儀だね」と言った。
「はい、どうぞ」
カウンターの向こうから差し出されたソフトクリームを私たちは受け取り、そして三人でしばし黙った。みんなの視線は片手に持つソフトクリームに視線に注がれている。
沈黙を破ったのは諸伏くんだった。
「イルカソフトっていうから、何かしらのトッピングでイルカに見立てているんだと思った」
こそっと呟かれた言葉に、私と降谷くんは大きく頷いた。
私たちの手にあるソフトクリームは、何の変哲もないソーダとバニラの二色のソフトクリーム。鮮やかなコントラストで渦を巻いているけれど、何回見ても、どこを見ても「イルカ」ではない。思わず笑いがこぼれる。私の笑いにつられるように、降谷くんと諸伏くんも破顔した。
ソフトクリームを角から一口頬張った。甘いバニラと、さっぱりとしたソーダが口の中で混ざり合う。そしてアイスが火照った顔を冷やしてくれる。
一緒にソフトクリームを堪能してから二人とは別れて私は班の子たちを探した。
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水族館の出口にあるショップでお土産を見ていると、柔らかな黒髪の頭を見つけた。諸伏くんだ。声をかけるとおもむろに振り返った。そして私の姿を認めると口角をわずかに上げた。
「セシリアさん、さっきぶり」
「さっきぶりだね。諸伏くんも何か買うの?」
「いや、まだ集合時間まで少しあるから暇つぶしだよ」
私が忙しなく諸伏くんの周りをきょろきょろ見ていると、彼は「ゼロならいないよ」と笑った。探してなんかない、と言ったら嘘になる。たしかに私は諸伏くんの後ろに降谷くんがいないか探していた。また降谷くんが年相応の表情で話すところを見たかったから。だけど残念なことに降谷くんはすでに諸伏くんと別れていて、それぞれ自分のクラスの子たちと合流しているらしい。
さっき知り合ったばかりの諸伏くんと一緒に見て回るのも変だと思って、自然な流れで離れようとしたけれど、諸伏は気にせず「セシリアさんは誰かにお土産渡すの」と棚のキーホルダーを手に取りながら聞いてきた。しかたがなく、「家族か中学のときの友達にでも買おうかなって考え中」と会話を続ける。
当たり障りのない会話をいくつか繰り返していると、気がつけば集合時間が差し迫っていた。私は買おうかどうしようか悩んでいたクッキーを台に戻した。誰かに買ってきてと頼まれたわけではない。特別にあげたいと思う商品もなかった。
諸伏くんと一緒にショップから出て集合場所のロビーに向かう。少しずつ同じ制服の子たちが多くなる。その中に降谷くんを見つけた。
私が降谷くんを見つめていることに、諸伏くんはすぐ気づいた。彼は見て見ぬふりをすればいいのに、わざわざ「そんなに気になる?」と聞いてきた。冷やかしたいわけではないことはわかったけれど、どうして聞いてくるのかはわからなかった。まだ会って数時間しか経っていないけれど、諸伏くんは異性のことをじっと見ているからといって短絡的に恋愛に結び付けるような人ではない。
「降谷くんが諸伏くんの隣だといつもと雰囲気が違っていたから気になったの」
隠すほどのことでもない。正直に理由を言えば諸伏くんは不思議そうに「そう?」と一緒に降谷くんを見た。降谷くんは、クラスメイトがふざけたのに合わせて笑っている。私たちが見ていることに気づいていない。
「うん。いつもはもっと静かな感じだけど、今日はすごく……なんというか」
「明るい?」
「そうだけど……。でも、いつも降谷くんって友達に囲まれていて明るいよね。今日が特別ってわけじゃないし……」
自分でもどう説明していいのかわからない。ぐるぐる考えながら言葉を考える。
クラスメイトと喋る降谷くんはいつも通り、にっこりと綺麗な笑顔を浮かべている。さっき諸伏くんの隣にいたときの崩れた笑顔が幻のようだ。
そんな降谷くんを見ながら「悪い意味じゃないんだけどね」と前置きをしてから「いつもは近くにいても遠いのに、今日はちゃんと近くにいる感じがしたの」と説明した。
「諸伏くんがいたからかな」
「そんなことないよ」笑いながら否定した。
しばらく沈黙が続いた。ざわめきが一層大きく聞こえる。みんな友達たちと思い思いの話をして、たくさん笑ってたくさん動いている。ロビーには、生徒だけではなく一般のお客さんも大勢いる。二人でそんな様子を見ていると、諸伏くんがぽつりと「よく見ているな」と呟いた。
「え?」
「ゼロのこと」
ああ、と頷く。
さっきから諸伏くんはまるで私が降谷くんのことを好きみたいに言う。自分のことだから、私のことは私が一番よくわかる。私は降谷くんに恋をしていない。
「あんなにかっこよくて頭が良くて優しいんだもん。みんな降谷くんのこと見てるよ」
「だけど、おそらく他の人たちはセシリアさんと同じようにはゼロのこと見てない」
「どういうこと?」
「そのうちわかるよ」諸伏くんは目を細めて私を見た。
諸伏くんの言うことはわかりにくい。
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遠足の帰り、仲良しグループで固まって電車に揺られていた。友達といると話題がつきない。あっちの話になったかと思うと、こっちの話に話題が移る。あーだこーだ実のない話を楽しみ、つまらない話に大笑いし、なんでもないことを一生懸命悩んでいた。
ふと遠くの方に目をやると、隣の車両に降谷くんがいた。夕日を正面に浴びて、眩しそうな表情をしている。
ちょうど話題が俳優から学校のイケメンの話に変わった。もちろん降谷くんの名前も上がる。ぼんやりと聞きながら、さっきの諸伏くんの言葉を思い出す。私と他の子で降谷くんに対するイメージは違うのだろうか。
気になって諸伏くんに言ったのと同じことを友達にも言ってみた。
「えー、降谷くんが遠いって、どういうこと? 降谷くんなんて会いに行けるイケメンじゃん」
「っていうか会いに来てくれるイケメン?」
「わかる。至近距離でお喋りできるイケメン」
矢継ぎ早に畳みかけられた。彼女たちは「普通、降谷くんくらいのイケメンとあんな距離で話せないよ。クラスメイトの特権なんだからね」「お金を払わなくてもお喋りできるんだよ?」「顔も名前も覚えてくれてるんだよ?」と説教するように言う。この子たちの言うこともわかる。降谷くんは誰にでも親切だし、気配りだって完璧だ。困っていたらすぐに声をかけてくれる。
やっぱり遠いって思うのは気のせいなのかな。
うんうんと唸っていると、一人が感慨深そうに「ついにシシーも降谷ファンか」と言った。
「ファンじゃないよ」
いつも降谷くんの近くでキャッキャと黄色い悲鳴を上げている女の子たちが脳裏に浮かぶ。熱中するものがあるのは楽しそうだけれど、私はあの輪の中には入れない。
それにファンという言葉は適当ではないように感じた。追いかけたい、応援したい、そういう気持ちを降谷くんに抱いているわけではないのだ。
「じゃあ、どうしてそんなに降谷くんのこと気になるのよ」
その友達の言葉は、私の考えを代弁しているようだった。
電車の窓から赤く染まるビルが見える。電車がカーブに差し掛かり、水族館が現れた。赤と青で派手にライトアップされているが、まだ日没まで時間があるからあまり綺麗ではない。しばらくして、水族館はまたビルに隠れてしまった。
「なんでって……、なんでだろう?」
「私らに聞かれてもわからないよ」
それもそうだ。
ビルの切れ間から真っ赤な夕日が見えた。それを綺麗だなあと眺める。たとえば、降谷くんならこの夕日を見てどう感じるのだろう、と気になる気持ちなんだ。だけどそれを説明することもできず、言い表す言葉を見つけることもできなかった。ただ言えるのは、この時の私の降谷くんへの思いはたしかに恋ではなかったということだ。