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 片づけはすぐに終わった。ケーキの箱をつぶしてゴミ箱に入れるだけなんだから簡単なことだ。狭い部屋だから散らかっているように見えただけ。まあ、五歳児レベルでできる片づけを命令してきているんだから簡単で当たり前か。
 やることが終わったら暇になった。そもそも、ここに来てからずっと暇だ。私の任務は幹部になって潜伏することだけど、五歳の子供が短期間で幹部になれるはずがない。そんな組織潰れてしまう。つまり数年はこの暇な時間が続くのだと思ったら恐ろしい。
 あまりにも手持ち無沙汰でクローゼットの奥にしまってあった、前にこの部屋を使っていた研究者の私物であろう文献を開いてみたが、全ページイタリア語で読む気になれない。イタリアに移り住んで数年経つけど、イタリア語で書かれた文献なんて見ているだけで頭が痛くなる。日本語だって嫌だ。
 暇潰しにもならない文献をベッドに投げ捨てて、ベッドに大の字で寝転がった。小さくなって一番得したのは、シングルのベッドで広々と寝られるようになったこと。これはすごく嬉しいから、任務が終わっても寝るときは小さくなりたいと思ったほどだ。

「愛子?」
「はーい」

 扉の向こうからバーボンが私の名前を呼ぶ声がした。返事をしながらベッドから体を起こす。
 数秒待っても一向に入ってこないので、不思議に思いそろりと地面に足をおろした。そして裸足のままペタペタと扉の前まで近寄る。
 軽いドアノブをひねって目に飛び込んできたのは、ラップのかかったオムライスだった。

「オムライス?」
「ええ。キッチンを借りて作ってみました。……見た目は不恰好ですけど味は問題ない、はずです」

 バーボンの言うように、たしかに形は綺麗なラグビーボール型じゃないし、少し玉子が破れている。でも、バターの匂いが漂っていて食欲をそそる。実際にさっきまでなんともなかったのにオムライスを見た瞬間、おなかがグウっと鳴った。

「うん、うん! すっごく美味しそう! ありがとう、本当に嬉しい!」
「そんなに喜んでくれたら作った甲斐があります。でもお礼は食べてからの方が嬉しいですね。……さあ、早く中に入りましょう」

 オーバーなリアクションに気をよくしたのか、しおらしい表情が一転していつもの自信ありげな表情に変わった。
 中に招き入れると、昼間より片付いた部屋に気づいたバーボンに「ちゃんと片付けられてえらいですね」と褒められた。五歳になってよかった点はベッド以外にも、大人だったら当たり前のことでも褒められるという点もあるようだ。
 一緒にソファーに座ってから、お皿を受け取った。テーブルにそっとお皿を置いてから、ゆっくりとラップを外した。さっきまでかすかにしか匂わなかった芳醇なバターの香りが一気に襲ってくる。

「そんなにお腹すきました?」
「うん。オムライス見たらすっごくおなかすいた。早く食べたい!」

 バーボンからスプーンを受け取ると、両手を合わせ「いただきます」と力強く言ってから、勢いよくスプーンをオムライスに刺した。ぐっと掬って口に入れれば予想通りのバターの風味に舌が歓喜した。

「お、美味しい! ケチャップライスとたまごの比率が完璧だし、バターでコクが出てるし、それに――」
「はは、顔を見ていたら不味くないのはわかりますから、ゆっくり食べてください。焦らなくても大丈夫」
「うん!」

 大きく頷いてから、口いっぱいにオムライスを詰め込むとバーボンは堪えきれないように吹き出した。「なに?」と言うかわりに首を傾げてバーボンの顔を見たら、ますます笑いが大きくなった。バーボンが落ち着くのを咀嚼しながら待っていると、しばらくして笑いがおさまったのか大きく深呼吸した。

「よく噛まないと身体に悪いですよ?」
「ひさしぶりにちゃんとしたごはんを食べたから、ついやっちゃった」

 オムライスは逃げないと言うけど、冷める前に食べたい。
 だけど少し行儀が悪かったなと反省して、スプーンを持つ手のスピードをゆるめた。

「バーボンってなんでもできそうだね」
「なんでもじゃないですよ。僕にもできないことくらいあります。料理だってあんまり得意じゃないですし」
「え! これで得意じゃないの? すごく美味しいよ?」
「たまに作る程度ですよ」

 苦笑いを浮かべるバーボンを見ながら、それはバーボン自身のハードルが高すぎるんじゃないかと思った。きっと、バーボンの「得意じゃない」は文字通り受け取らない方がいい。
 バーボンは私とは違ってすごい人なんだろうな。こんな裏の組織にいていい人材じゃない気がする。もったいない。まあ、それは本人が決めることだけど。

「ところで、ベルモットはよくここに来るんですか?」
「うーん、何日かに一回は来るよ。持ってきた大量のスイーツがなくなるころに来るから尽きることがないの。すごいでしょ」
「ということは、あの人はずっとイタリアにいるんですね」
「まあ、そうじゃないかな。ケーキの消費期限内に来るんだし」

 昨日食べたモンブランはチョコレートが混ざっていて美味しかった。ベルモットが不味いものを持ってきたことはない。
 カチャカチャとスプーンでオムライスの山を崩しながら、口の中で昨日を思い出す。それから今までベルモットが持ってきてくれたスイーツを次々に挙げていった。

「そんなによく来るのに、ベルモットはあなたの食事には何も言わなかったんですか」
「だって部屋に入ってきて『はい、これ』って渡して終わりだもん。一緒にケーキ食べたりしないし、ごはんの時間にも来ないからね」
「どこに行くとか、行っていたとかそういう会話もまったく?」
「うん」

 次の予定までここで時間を潰すことはあっても、私に話しかけてきたりはしない。ヴェネツィアで「ママン」とふざけて言ったのが幻に思えるくらい愛想がない。
 バーボンは「ずいぶん寂しいですね」と肩をすくめた。

「もう慣れたよ」
「慣れるようなことじゃないですよ」

 バーボンは腕を伸ばして私の髪の流れに沿って頭を撫でた。

「さっきは叱りましたが、愛子は一人でよく頑張ってますよ」

 柔らかい髪の手触りを楽しむように遊ぶ指がくすぐったい。
 くすくすと笑っていると、バーボンも口元をゆるめた。
 穏やかな空気に包まれた部屋に、秋が近づくイタリアの乾いた風が吹き込んできた。

ヒトリヨガリ