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たまに思い出したように痛む心は、その度に私の焦燥感を掻き立てた。私が頼まれてもいないのに、松田の友人に会いたいと思うのも、きっとそのためだろう。
そのくせ、いざ松田の事件のことを聞こうと思えば竦んでしまう。
朝が来たというのに私の心は晴れず、伸びをするように少し開いたカーテンの向こうの空に手を伸ばした。
洗面所に向かうために廊下に出たら、透くんの部屋からボソボソと話し声が聞こえてきた。今日は休日なのに依頼の電話だろうか。探偵に平日も休日もないだろうけど、それにしたって透くんは真面目に働いている。まるで探偵が本業のように。
顔を洗ってダイニングに入ったら、電話を終えた透くんがキッチンでお湯を沸かしていた。
「今、河堀さんからその後はどうにかなっていると連絡が来ましたよ」
透くんは、ドリップバッグをマグカップに設置し、お湯を注ぎながら河堀さんの近況を教えてくれた。
投資詐欺の犯人は無事に起訴され、騙し取られたお金はすべてではないけどある程度は返ってきたらしい。ひとまず生活していける分くらいは。
「それで、今日食事を誘われたんですけど」
「……私、パス。透くん一人で行ってきて」
と言いながら、人妻と密会するのはせっかく問題を解決した家族にヒビを入れかねないなと思った。
透くんも同じ考えのようで、苦笑いしながら「愛子が行かないなら僕も断りますよ」と言う。そのあと何か言いたげに私を見たけど結局何も言わず、コーヒーを淹れ終えたら冷蔵庫からピンクの液体の入ったガラスのコップを取り出した。
「今日はイチゴとバナナのスムージーです」
マグカップとコップをダイニングテーブルに置くので、私も後ろをついて行って椅子に座った。
ちらりとカレンダーに視線をやった。
リビングの壁には大きめのカレンダーがかけられている。なんの変哲もない、庶民的な機能面重視のそれは、私と透くんの伝言板として使っている。お互いの仕事のスケジュールからご飯を家で食べるかどうかまで、家の細々としたやりとりはメッセージアプリを使うより一目でわかって便利だ。
今日の欄は真っ白のまま。私の視線に気づいた透くんが、今日は家で事務仕事をしていると教えてくれた。
私はどうしよう。思案していると、透くんもコーヒーを飲みながら考えごとを始めた。二人の間に沈黙が落ちたけど、それが気まずく感じることはない。逆に落ち着く。
静穏な朝だ。この家の中はどこか浮世離れしているような気がする。
洗面所では洗濯機が健気に一人で回っている。キッチンでは冷蔵庫の製氷室で氷が生まれ落ちた。
平和な生活音に包まれながら、――
「……最近、あまり出かけなくなりましたね」
「え?」
飲んでいたスムージーから口を離した。
出かけてないこともないはずだ。昨日はシェリーを探すために都内のホテルをいくつか回った。雲雀くんにも定期的に会っているし、キュラソーともお祝いと称してごはんに行った。竜太郎さんとは、追悼式以来会っていないけど。
そのことを告げて首を傾げると、透くんは奥歯に何か詰まったような表情を浮かべた。
「……組織と関係のない人と、どこかに行くことがなくなりましたよね。昔は僕について来て、誰彼仲良くなっていたのに」
誰彼ってなんだか棘のある言い方だ。だけどたしかに暇だからっていろんな人に話しかけていたのも事実だった。
今まで透くんと一緒にいるときに知り合った人たちの名前を挙げられ、懐かしい人たちだと天井を見上げた。
言いたいことはわかる。だけど、その人たちは結局透くんの仕事について行って知り合った人なんだから組織と関係がないとも言えない。最終的に組織に始末されたカフェ店員なんて、かなり組織に近かった。それに、挙がった名前の中に明美さんがいたのも気になった。明美さんなんて組織の人間だと思うんだけど、でも透くんからするとライの彼女という部外者なのかな。
ぐるぐる考えながら、とりあえず透くんは心配してるんだ! と、ざっくりと思考を打ち切った。
「あ、あー……。いや、最近友達ができたの。その子は学校があるからあんまり遊べないけど、今日もその子と遊ぶから河堀さんとはご飯に行けなくて」
損得勘定なしの年相応な友達を作れと言われてしまうと、面倒だと思う気持ちと忙しい透くんに心配をかけたくない気持ちが少し。咄嗟に私はコナンくんを口実に使った。
最後に会ったのは竜太郎さんと同じく追悼式だけど。
「友達?」
「うん。小学一年生の子。探検とか探偵ごっことかしてるの」
私はしてないけど。
「そっか、……そうですよね」
私の灰色の嘘に納得してくれた透くんは、ゆるやかに微笑んだ。
あまり突っ込まれて聞かれると困るから、スムージーを味わう暇なく、ごくごく一気に呷って立ち上がった。
「もう出ていくんですか?」
「うん」
「ちょっと待ってください」
私がシンクに持っていこうとしたコップを掴んで、透くんはキッチンに入った。そして私に背を向けて棚を漁る。
「はい、これ」と言いながら差し出されたシックな黒色の缶。
「ちょうど依頼人にもらったものなので、持っていってください」
「うん、ありがとう」
受け取ると軽いそれには、バター薫る美味しいクッキーが入っていることを知っている。小学校低学年の持ち寄るお菓子としては高価だけど、貰い物ならそういうこともあるだろう。
「今日は暖かいから帽子も被って」
「はーい」
言われるがままに部屋に戻ってキャップを被って、それからクッキー缶はリュックに入らないから紙袋に入れた。洗濯機が洗い終わりのメロディを奏でるのを聞きながら、私は家から出た。
言ったからにはコナンくんに会うべきだろう。
春の風にキャップが飛ばされないように片手で押さえながら、私はスマートフォンを取り出した。