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その日、米花町に向かったのはただの思いつきだった。何かを予感させるきらめきも、夜明けを知らせる鐘の音なんてものもなく、日常の延長線として新出医院に向かったのだった。
それが私の運命を大きく変えることになるとは、まったく予想もしなかった。
新出先生との会話はいつも通り穏やかなもので、三十分ほど滞在して患者の数が増えたころ、病院をあとにした。
その後、毛利探偵事務所の方に足を向けたのも私にとっては自然なことだった。
病院の近くに毛利探偵事務所があるから帰りによく寄るのだ。目的はコナンくんというより、探偵事務所の下にある喫茶店。そこには警官がよく来るから情報の仕入れによく利用していた。警察が組織の存在に気づいていないかを探りつつ、たまに痛みを堪えて松田の事件も調べているけど今までずっと空振りで、松田がいかに横柄だったかの話はよく聞かされた。そのときのちょっと怒ったような言葉を吐きながらも、そこが可愛いやつだったと言いたげな懐かしむ表情を浮かべるおじさんたちを見るのは好きだった。
喫茶店の前に着いて探偵事務所にコナンくんを誘いに行くと、家にいたコナンくんは二つ返事で出てきてくれた。
「また病院に行ってたの?」
「そうだよ。先生優しいからね」
「病院を何だと思ってるんだよ」
なんて話ながらトントンとリズミカルにコンクリートの階段を降りていると、ガシャンッ! と金属がぶつかってへしゃげた音がした。
その瞬間、コナンくんが階段から飛び降りた。
私もそれに続き道路に出ると、数十メートル先の十字路で車が二台、衝突事故を起こして立ち往生していた。そして、そのそばには蘭さんと園子さんの姿が。
「大丈夫!?」
コナンくんは慌てた様子で二人に駆け寄る。
「うん。私たちは大丈夫なんだけど……」
蘭さんは心配そうに車に目をやった。二台ともエアバックが出ていて、中から人が出てくる様子はない。蘭さんが警察と病院に電話をして、その間に中の人を車から下ろした。
どちらも乗っていたのは運転手のみ。ぶつけられた方は若い男性で、ぶつかった方は中年のおじさんだった。命に別状はなさそうで、蘭さんと園子さんは「よかった〜」と安堵の息を吐いた。
そのうち二人も意識が回復してきた。そんな、みんなが気を抜いた隙を狙っていたかのように、地面に座り込んでた加害者男性がふと我に返ったかのように急に立ち上がると、私たちが声をかける暇もなく走って逃げだした。
「え、名前聞いたあとに逃げるの⁉」
ビックリして思わず叫ぶ。
事故を起こした直後ならまだしも、すでに被害者と加害者は連絡先を交換している。
どうせ逃げたところで、いろんな証拠を残したままだからすぐに警察が捕まえるだろう。そう思って走り去る加害者を見送る私と違い、隣にいたコナンくんは「待て‼」と、すごい瞬発力で加害者を追いかけた。
「コナンくん、危ないからやめときなよ! 追いつけないよ!」
咄嗟に私もコナンくんを追う。後ろを振り返ると、蘭さんと園子さんは呆れ顔で見ているだけで動かない。その理由はすぐにわかった。
コナンくんは走りながら道の端に投げ捨てられているペットボトルを拾うと、右足のスニーカーに手を当てたあと、その足でペットボトルを蹴った。空のペットボトルの威力なんてたかが知れている。そんな私の予想を嘲笑うようにペットボトルはまるでピッチングマシンから放たれたかのようなスピードで軸がブレることなく真っ直ぐ逃げる男の頭にヒットした。
あまりに見事な軌道に拍手をした。
倒れた男はそのまま動かない。追いついたコナンくんは、男を見張るように横に立ち、ものすごく怖い顔をしている。到底小学一年生が浮かべる表情じゃない。
今までも不思議な観察眼であると思っていた。それに成熟した性格も、今見た異常な力も。すべてが七歳のものとは思えない。
ひくりと頬が引きつるのを感じながら、私はこっそりコナンくんに問いかける。
「……コナンくんって、実はヒットマンだったりしない?」
コナンくんの後ろに、リボーンの幻影が見えた。居候という点もリボーンと被るし。
「……え?」
コナンくんは何を言っているんだとばかりに、ぽかんと口を開いた。
「さっきのすごいキックで暗殺する、とか」
「いや、さすがにそんなことは……」
「だよね。ごめんね、ちょっとあまりにも混乱して……」
私たちの間に、なんとも言えない空気が漂う。ぽたりと走ったせいであふれる汗が地面に落ちた。
まさかコナンくんが物を蹴って人を殺すなんて思えないし私の飛躍しすぎた考えだった。
少しだけ反省して、それからパトカーが到着するまでは大人しくコナンくんと一緒に加害者男性が暴れないように見張る作業に集中した。
サイレンを鳴らしながらパトカーが到着したのは救急車が着くよりも前だった。
二台連なって路肩に停まり、前のパトカーから佐藤さんが降りてきたので私は思わず「え?」と声を出してしまった。
凛と仕事モードの表情は、オフのときより刑事らしくてかっこいい。だけど、佐藤さんは刑事部捜査第一課。担当業務は殺人や傷害だ。交通事故の現場に来るような人じゃない。
その小さな違和感に、私は何かが変わるような、動き出してしまうような予感がした。
「愛子ちゃんもいたのね、大丈夫?」
「うん。事故のとき、私は毛利探偵事務所にいたから」
「そうなの。よかったわ」
私の安否を確認した佐藤さんは、次いでコナンくんに事件の概要を聞いた。何かを探っているような雰囲気の佐藤さんは、逃げようとした加害者をコナンくんが捕まえたと知ると呆れたように「あんまり危ないことはしないように」と注意した、かなり諦めぎみの声音だったけど。
「愛子ちゃんも。関係ないって顔してるけど、あなたも危険なことはしちゃダメよ」
「……私はコナンくんを追いかけただけで……。コナンくんがいなかったら大人の男の人を追おうとなんて思わなかったよ」
軽く笑いながら否定すれば、佐藤さんはちょっとムッとした声で「観覧車に勝手に乗ってたのは誰だったかしら?」と痛いところをついてきた。
「お願いだから、愛子ちゃんは危ないことをしないでね」
なんと返そうか思案していると、被害者から話を聞いていたロングヘアの制服警官の女性が近づいてきた。
「だれ?」
ぶっきらぼうだけど、それは私じゃなくて佐藤さんに向けた質問だからだろう。佐藤さんが「安室愛子ちゃん。松田くんの友達だったの」と私を紹介してくれている。
その横で、ずっと佐藤さんとの関係を聞きたそうにタイミングを見計らっていたコナンくんにも「友達だったお兄さんが警察官だったの」と教えてあげた。
「え〜! あの人、こんな小さな女の子と友達やってたの!?」
「兄弟みたいで可愛かったのよ」
嬉しいような嬉しくないような。そもそも松田は可愛いのか? と振り返るけど、ふてぶてしかったり尊大な態度ばかり思い出す。かっこよかったことはあるけど。
「ふーん。じゃあ、美和子の妹みたいなものか」
「なんでそうなるのよ」
「あら、言われたい?」
「バカなこと言わないで! ほら、さっさと現場見分の続きしなさいよ」
赤面して彼女を追い払う佐藤さんを、私はまじまじと見上げた。
墓参りのときから心に引っかかっていたことがある。それが何かはわからなくて、ずっと魚の骨が喉に刺さったみたいに不和を感じていた。その正体がやっとわかった。
もしかして、佐藤さんって松田のことが好きだった?
いや、でも、あのときはそんな気配なかったのに。
私は初めて佐藤さんと出会ったときのことを思い返す。住宅街で聞き込み中の松田と遭遇したときだ。あのとき、佐藤さんは仕事に不誠実な松田に不快感を抱いていた。復職した日から考えて異動三日目のできごと。それから四日後のあの日までに好きになったのかもしれない。人を好きになるのに日数なんて関係ないのだから。
でも、観覧車に乗った松田を引き止めようとしたときの佐藤さんからも色恋の気配はしていなかった気がする。ただ純粋に、たった一人で爆弾に向き合う勇敢で無謀な松田を心配して、そして起こり得る不幸に心を痛めていた。
ということは、佐藤さんのその感情は松田が亡くなったあとに生まれたのか。
なんて徒労な恋だろう。
どれだけ想っても、思い出の中にしかいない人を好きになるなんて。
私が勝手に同情している横で、コナンくんが難しい顔をしながら佐藤さんに問いかけた。
「それより、どうして佐藤刑事も一緒にいるの? 僕に話を聞いたのも何か理由があるんでしょ」
佐藤さんは表情を仕事モードに戻して、ちらっと加害男性を見やった。
そこでは佐藤さんと一緒に来た私服警官が加害男性を拘束している。明らかに交通事故を起こした人への対応としては過剰だ。
「彼が私たちが追っていた容疑者だからよ」
「なんの容疑?」
間を置かず食いぎみに尋ねるコナンくんに、佐藤さんは声をひそめていろいろと教えてくれた。
それは爆弾を作成所持している疑惑だった。隣人の通報で家に向かったけど容疑者の姿はなく、管理人立ち会いのもと家宅捜索を行い火薬などの痕跡があったのでパトロールしていたのだと言う。
爆弾自体は単純な、市販の花火を解体して火薬を集めたもの。
二人が顔を突き合わせてあれこれ事件の話をするのを聞き流しながら、私は爆弾か、とさっきまで考えてた松田のことが頭を過る。
偶然かも知れないけど、去年の命日に佐藤さんに含みのあることを言われてから、爆弾事件が増えたような気がする。まるで、世界が十一月七日に向けて動き出しているよう。
逃げられない。どれだけ松田を殺した犯人のことを頭の中から追いやっても、不意に今、自分が冷たく暗い海の底に沈んでいるのだということを思い出してしまう。
ぼうっと宙を見つめる私に気づいた佐藤さんが気遣わしげにこちらを見た。
「ごめんなさい。愛子ちゃんの前で話すことじゃなかったわね。配慮に欠けていたわ」
「ううん。ちょっとぼんやりしてただけだから」
コナンくんが不思議そうに私を見てるけど、説明がめんどうだなと黙っているうちに、また爆弾の件に話が戻った。コナンくんは佐藤さんの話を聞いただけで、容疑者の家にあるだろう爆弾事件を起こそうとする証拠のありかを推理してみせた。
目撃者として現場検分に付き合っていた蘭さんと園子さんがもどってくると、それとバトンタッチするように佐藤さんが容疑者の方へ向かった。
一件落着でやっと解放されたけど、もうそろそろ帰った方がいい時間で、喫茶店はお預けになった。
「そういえば、この子も帝丹小学校なの? 何年生?」
解散間際に園子さんはコナンくんに聞いたけど、コナンくんも知らないことなので私に視線を移してきた。
「えっと、私、元々外国に住んでてホームスクーリングしてるから学校には通ってないの」
家で勉強していると言えば、財閥令嬢はさすがに理解が早く「へえ」と納得してくれた。
「コナンくんは帝丹小学校ってところなんだね」
「うん。元太とか、前に会った灰原も同じだよ」
相槌を打ちながら、帝丹ってどこかで聞いたことがあるなと考えていると、園子さんが仁王立ちをして胸を張った。
「私と蘭は帝丹高校よ。今度、学際で劇をするから学校に興味があったら見に来なさいよ。あっでも、私たちのクラスは劇をするんだけど、王子様もイケメンだし、学校に興味なくても目の保養に来ることをおすすめするわっ!」
「園子、それ小学生に言うこと?」
「なによ蘭。優勝するためには身内票を一票でも多く準備しなくちゃダメでしょ!」
「そうだけど、その誘い文句は……」
わいわい騒ぐ二人が高校生らしくて微笑ましい。
「そんなにイケメンなの?」
「そうそう。ものすっごく人気でね」
「もう園子! たしかに新出先生は人気だけど、愛子ちゃんと何歳離れてると思ってるの」
その瞬間、笑顔が固まった。
――そうだ帝丹高校って、新出先生が校医を務めてるところだ!
はっと気づいて蘭さんの顔と、その次にコナンくんの顔を見た。
私、新出先生、蘭さん、コナンくんが線で繋がってしまった。
いやだ。コナンくんのそばで組織の仕事をしたくない。
何か疑問を持って、それこそさっき佐藤さんにあれこれ聞いたように私にも詰め寄られたら全部白状してしまいそうだ。
背中に流れた汗はきっと暑さのせいだけではない。