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「あの、お姉さん、ちょっといいですか」
突然幼い声に呼び止められた女性は、マンションのエントランスに入る一歩手前で立ち止まり、細いヒールを軸にくるりと振り返った。
夕方だというのに崩れていないショートボブがパサリと舞い、見知らぬ子供の姿に虚をつかれたような顔をしたあと、ふわっと笑って私の視線まで膝を曲げた。
「ええ。どうしたのかな?」
まるで迷子の子供を宥めるように優しい声で返事をしながら、きょろりと辺りを見回した。
「えっと、お店を知りたくて」
女性は、予想が的中したとばかりに満面の笑みを浮かべて「どこのお店かな?」と首を傾げた。
もじもじしながらリュックを下ろして中を漁る私を急かすことなく見守り、店名が書かれた紙を受け取った彼女は「うーん」と一瞬悩んだあとスマートフォンを取り出して店を調べた。
「この近くだけど、説明がややこしいところね。車通りも多いし一人じゃ危ないわ。お母さんかお父さんは一緒じゃないの?」
「あの、今日、お母さんの誕生日で、本当はお父さんが行くはずだったんだけど、お仕事が遅くなっちゃったから……」
しゅんと地面に視線を落とせば、女性は少しだけ躊躇ったあと「じゃあ、私が案内してあげる」と私の頭に手を置いた。
「いいの?」
「ええ。時間ならあるから」
女性が入ろうとしたマンションを一瞥したあと、眉を下げて微笑む彼女に「ありがとう!」と満面の笑みを送った。
「というわけで、誕生日おめでとう。お母さん」
「……あなたの母親役はベルモットでしょう」
待ち合わせ場所に到着してすぐに黄色いミモザの花束を差し出したけど、キュラソーは興味なさそうに押し返してきた。
「つれないなあ。せっかく久保田さんを足止めしたのに」
「そんなこと頼んでないでしょ。あなたが連絡さえしたらすぐに撤退したわよ」
「まだ何も見つかってなかったのに?」
図星だったのかキュラソーは黙って車に乗り込んだ。追うように助手席に乗り込み、シートベルトを締めてから小ぶりな花束に目を落とした。
キュラソーが今日忍び込んだのは、私が話しかけた女性、久保田さんの部屋だった。私はマンションの前で見張り、彼女が帰宅したらキュラソーに伝える役目を与えられていたけど、目的のものが見つかっていないようだったから急遽芝居を打ったのだった。
母親の誕生日と聞いた店員がメッセージカードまで準備してくれたのに、このままゴミになってしまうのはもったいない。
「無事に終わったご褒美ってことで受け取ってくれない?」
「……まだ終わっていないわ」
「え? 何も見つからなかったの?」
だからいつもに増してそっけないなのか。
「次もアマレットに手伝いを頼むことになると思うわ」
「それはいいんだけど、何を探しているの? 久保田さんを調べているわけじゃないよね?」
久保田さんの帰宅の合図しか指示をもらっていなかったけど、私がキュラソーの様子を窺ったとき、キュラソーは男性ものの服や鞄を漁ったり、その人のものと思われるパソコンを覗き見ていた。二人以上が生活している痕跡はなかったし、ターゲットはおそらく彼女の夫。そしてキュラソーが探していたのは彼が持っているデータ。
そこまでは推察したけど、それがどういうものかはわからない。
ただ、幹部が動くのだからそれなりに重要なものなのだろう。
そう思ったのに、キュラソーは「さあ」と気のない返事をした。
「さあって……。何を調べているのか知らないの?」
「ええ。彼女の夫は組織の末端構成員で、しばらく前から行方不明だったのだけれど、最近殺されて見つかったの。その理由を探れっていうのが上からの指示よ」
「コードネームもない下っ端が死んでも今まで放置だったのに?」
幹部なら組織の情報がどこかに漏れていないかを調べたりはするけど、それでも最小限。どうして今回は男の周りを探るのか。
「死体は拷問された痕があったからよ」
「……拷問?」
「珍しいことじゃないわ」
「いや、拷問されていたことに驚いたんじゃなくて、どうして拷問ってわかったのか不思議だったの」
「ああ、それは死体を見ればわかるわよ。死後につけられた痕はないし、死なないように調整された完璧な暴力で、時間をかけてゆっくりといたぶられていたようだから、何かを聞き出すためにしたのよ」
「ふうん。じゃあ組織のことを吐いた可能性があるから探るんだ」
「しかもおそらくプロの犯行」
「何も犯人の手がかりが残っていなかったんだ」
「ええ、そうよ。だから念には念を入れておいた方がいいだろうっていうのがボスの考えよ」
「それじゃあ久保田正也の周りをしらみ潰しに探すしかないね」
殺された久保田正也は売れないながらもミュージシャンをやっていたため人付き合いの幅は広いし、何が原因で殺されたか皆目見当がついていないらしい。真っ先に久保田正也がメンバーや関係者とデータをやり取りしているクラウドサービスにハッキングしたけど空振りで、今日探した中にもそれらしきものはなし。今度はメンバーに探りを入れていくそうだ。