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久保田正也が死んだという事実は、組織によって葬られている。
警察に死体を調べられたら、その異常性は瞬時に見抜かれる。久保田正也についた無数の切り傷は他殺であることを物語っているのに、犯人の証拠は何も残っていない。その目的が拷問だと見抜くかどうかはわからないけど、プロの犯行だというところまでは簡単に行き着くだろう。そうすると、久保田は「無惨に殺された可哀想な被害者」から「プロに殺された怪しい被害者」にかわり、警察は久保田正也について調べるだろう。そこから組織との繋がりが見つかってしまうかもしれない。
死んだことすら消されてしまうのは仕方のないこと。そんなの、こっちの世界じゃ当然のことだ。
だけど、キュラソーに頼まれて見張りを手伝っているときに、何も知らずに帰らない彼を心配し、再会を望んでいる人たちを見ているとせめて死んだことくらいは教えてあげたくなる。叶わない夢だけど。
「考えごとですか?」
沈む思考を断ち切ったのは透くんの声だった。
はっと意識が浮上した反動で、カツンッとスプーンがお皿を叩いた。
「ああ、うん。ちょっとぼうっとしてた」
「最近、頑張っているから疲れているんじゃないですか?」
「透くんほどじゃないけどね」
今度はしっかりスプーンを握り、散らばったケチャップライスをかき集めてから、ぷつりと破った薄い玉子の膜と一緒に口に放り込む。
「珍しいね。いつもの玉子はとろとろなのに」
夜ごはんは、薄焼き卵で包まれたベーシックなオムライスだった。
「ちょっと練習をしておきたくて」
「練習?」
首をかしげ、テーブルの上を見た。
パラッと甘いケチャップライスには細かく刻まれた野菜が入っているけど、透くん的にはそんな量で終わるのは許されないらしく、レタスのサラダとミネストローネがついていて、まるでレストランのセットみたい。
レストラン、その言葉に引っ掛かりを覚えて少し考える。
「レストランで働くんだっけ?」
それはシェリー捜索の一手らしいけど、いったいどうシェリーと関わるのかまったく想像もできない。
ともかくとしてその仕事は夜にあり、私が家で一人になるからと壁にかかっているカレンダーにはレストランの連絡先の他にも透くんがウエイターとして採用されていることまで記されている。
「ウエイターなのにキッチンもやるの?」
そういうところもあるだろうけど、新人に両方させるのは珍しい。
透くんは肩をすくめた。
「練習は別件なんです」
ふうん、と相槌を打ちながらオムライスを掬った。
水の跳ねる音と、お皿が擦れる音。それから遠くのテレビから流れる誰かの笑い声。音が溢れているのに静寂で、窓辺から冷気が漂ってくるのに暖かい夜だ。
「おっと、すみません、袖を巻くってもらってもいいですか?」
隣でお皿を洗う透くんを見れば、着ていたベージュのセーターの袖がずり下がって濡れそうになっていた。
私は拭いていたお皿を水切りラックに戻し、トンと踏み台から降りて一歩近づき請われるままに両手で服を摘まんでぐいぐいと肘の上まで持ち上げた。明るいベージュの下から現れる肌はつやっとした褐色。
「透くんって子供のころスポーツしていた?」
「え? どうしてですか?」
「透くんが焼けたらどうなるんだろうって思って」
「もう少し黒くなりますけど、そんなに変わらなかった気がしますね。もう昔の記憶なので曖昧ですが」
へにょっと眉を下げる透くんは大学生と言われても信じてしまうほど童顔で、私は一つ頷いた。
「たしかに、あんまり変わらなさそう」
「……今、何に納得しました?」
じとっと目を細めて見つめられ、そろりと顔を背ける。イタリアで初めて透くんに会ったときからも何も変わっていないし、仕方ないじゃない。とは思うものの、それを正直に言う勇気はなかった。
ちょうどそのとき、私を助けるようにパチンッとスイッチが弾かれる音がした。同じタイミングで透くんは最後の一枚を洗い終えると、手を拭いてから棚からピンクのマグカップを取り出した。
お皿を拭きながら透くんの動きを眺め、ケトルが新しいものに変わっていることに気づく。注ぎ口が細長くて、どこがで見たことがある形状だ。それが何か思い出そうとしている間に透くんは、今度はコーヒー豆と、ガラス製の円錐型のドリッパー、ペーパーフィルターを出してきた。
「コーヒー?」
細い注ぎ口はコーヒーポットのものだと思い出したけど、今まで透くんはインスタントコーヒーを飲んでいたのにどうして急に道具を買ってきたのか疑問が生まれた。
その答えは、さっきも聞いた言葉だった。
「ちょっと練習をしておきたくて」
「……実は組織を抜けて料理人に転職したいとか?」
「まさか。……そういう冗談はジンの前ではやめてくださいね」
「もちろんだよ。さすがにそんな怖いことできないって」
「命知らずじゃあるまいし」と笑い飛ばす。
ジンの前で言ったら弁解する暇もなく眼前に銃口が現れる。そのシーンが簡単に思い浮かんでしまう。
「……そうですか?」
「ええ? そんなに危ないことしてたっけ?」
「危ないことは、やってませんけど」
「けど?」
「ハラハラすることはよくあります。ジンに真っ正面からぶつかる人なんて少ないから」
透くんは一度言葉を切り、フィルターをセットしたドリッパーをマグカップの上に設置し、コーヒーの粉を入れたあとお湯を少しだけ注ぐとケトルを置いた。
「ジンの怒りを買わないかと、いつも心配しています」
「でもジンってそんなに怒りっぽくないよ? 地雷さえ踏まなければ」
「その地雷がどこに埋まってるかわからないからみんな気を使うんですよ」
「透くんも?」
「ええ」
頷き、お湯がなくなったドリッパーにもう一度お湯を注いだ。
ふわりとコーヒーの香りがキッチンに広がる。
「透くんならジンのこともすぐに見透かして手玉に取りそうなんだけど」
「そもそも僕は、……いえ、僕たちはジンと会うことはほとんどありませんから、見透かすほどの距離に入れません」
「そうなの? ジンから連絡来ない?」
頻繁ではないものの、それなりの頻度でジンから電話が来る。内容は、嬉しくもない仕事のことか小言ばかりだけど。
「僕がジンと最後の会ったのは、愛子を引き取る交渉ですね。そのあとは電話で僕が得た情報を伝えることがあるくらいですよ。僕は単独で仕事をしているので、ジンから指示を受けることもありませんし」
ポタポタと黒い雫がドリッパーから滴り落ち、最後の一滴が途切れると、透くんはドリッパーを外してフィルターを捨てた。
透くんはマグカップをそっと持ち上げると、スンと香りを確かめた。透くんの薄い唇がカップのフチに触れ、ふにっと形を変える。小さく開いた口からコーヒーが流し込まれるやいなや、透くんは綺麗な眉を思いっきり歪めた。
カップを離すと、唇を引き結んで難しい顔をしながら手にあるコーヒーを睨みつける。
「……やっぱり初めてだとうまくいかないものですね」
「そんなに違うものなの?」
「酸味が強いんです」
見ているだけじゃわからないから、透くんからカップを受け取って一口含んだ。たしかに酸っぱい。
「でも、コーヒーって酸っぱいものじゃない?」
「本来のコーヒーの酸味はフルーティーなものなんです。そもそもコーヒー豆は植物の実ですから。……ただそれとは別に、豆が酸化していたり淹れ方が悪いと酸っぱいえぐ味が出てしまうんです」
コーヒー豆の袋を手に取って説明書きを読みながら、何が悪かったのかと考える透くんは真剣そのもの。
「……透くんってコーヒー好きなの?」
「いえ。ただそういうのが好きな知り合いがいたので」
それはまるで宝物を大事に抱き締めるような声音だった。そして目蓋を伏せ、酸っぱいコーヒーを味わうように啜った。
「……スコッチ?」
弾かれたように顔を上げた透くんの顔には「どうして?」と書かれている。
「なんとなく、スコッチのことを考えているときと同じ顔をしていたから」
透くんは一瞬表情をなくしたあと、ふっと力を抜いて軽く笑った。
「ええ。スコッチが一度、コーヒーに凝ったことがあったんです」
コップのフチを指先でなぞりながら、透くんは「ミルまで買ったんですけど、使ったのは最初の数週間で、あとはインテリアになっていました」と楽しそうに呟く。
それは私に教えるためというよりも、思い出が勢い余って飛び出したという感じがした。