23
読んでいた本に影が落ちてきた。
顔を上げれば若い女性が人好きする笑顔で立っている。手には茶色い丸盆。その上のジュースと、小さなバスケットに入ったクッキーをテーブルに置いたので慌てて本をバッグにしまった。
だけど、ふとおかしなことに気づいて笑顔のままの顔を見上げる。
「あれ? 大月さん、私みかんジュースしか頼んでないよ?」
「サービスよ。期間限定のさつまいものクッキー、美味しいから食べてみて」
この小さな喫茶店には現在客は私しかいない。外は小雨が降っているし朝見た天気予報では終日雨マークがついていた。
そして任務でホテルに泊まってから、毎日この喫茶店に通っていて大月さんとは仲良しと言ってもいいくらい会話を交わしている。
ニコニコと笑う大月さんに、遠慮するのも野暮だと思いさっそくクッキーを一枚食べた。食べた瞬間、大月さんが「どう?」と反応を伺うように首を傾げた。
「美味しいよ。さつまいもの甘さが優しいし」
「本当? よかった! そのクッキー、私が企画したのよ。誰かから感想がほしかったんだけど、なかなか聞く機会がなくて困ってたの。愛子ちゃんが来てくれてよかったわ」
すっきりした表情で大月さんが胸を撫で下ろした。
ちらりと横目で大月さんを見る。すらりと背が高くてスタイルが良くて顔も可愛い、それに加えて料理もうまい。自分との違いをひしひしと感じながらクッキーを食べ進めていると、ふと違和感を覚えた。いつもと違う。
「……あ、髪の毛可愛くしてる」
いつもシンプルなポニーテール姿だった。それが今日は両サイドの髪を緩く編み込んだシニョン。化粧もどことなく濃い気がする。
そう指摘すれば、一気に大月さんの表情がとろけた。
「わかった? 実は今日、主人とデートなの」
でれっと目を細めて、左手の指輪を見せてきた。
「わあ! じゃあ今から楽しみだね!」
「そうなの。あの人忙しくてあまり一緒に出かけることないから本当に楽しみで……。愛子ちゃんも今日はいつもよりウキウキしているけど、このあと何かあるの?」
「うん! 今朝、お兄ちゃんがギター弾いてくれるって言ってくれたの!」
「まあ、愛子ちゃんのお兄さんも忙しいんだよね? よかったわねえ」
「お互いに幸せな日だね」
微笑む大月さんはすごく綺麗で、こんな優しい人と結婚できた旦那さんは幸福者だなと思った。
私の身の上話は簡単にはできないから、バーボンを兄ということにして兄の仕事の都合で近くのホテルに泊まっているとだけ伝えてある。
逆に大月さんは私にたくさん話してくれた。新婚であることや、旦那さんが仕事で忙しくて寂しいから結婚前から働いているここのパートを辞められないでいること。他にも本当にたくさん話してくれる。きっと私が寂しがっていると思っているんだろう。
「愛子ちゃんのお兄さん、ギター上手なの?」
「うーん、わからない。昨日弾けるって知ったばかりだから。でもなんでもできる人だから、きっと上手だと思うよ」
「あら、お兄ちゃんのこと大好きなのね」
微笑ましそうに目を細めるので、どうも居心地が悪い。だけどバーボンのことは人としては好きだし間違ってはいないから素直に頷いておいた。でも兄としてだったらライの方が好きだなあ。
なんて思っていると、道路沿いの大きな窓ガラスの外に見慣れた人影が見えた。まだ遠くて小さいけれど、確かにバーボンだ。
植木で外が見えていない大月さんに、兄が来たことを伝えてからコップにわずかに残ったジュースを飲み干した。
バーボンが来る前に店から出ようと慌ててレジでお会計をしているときに、大月さんがラッピングしたクッキーをウインクしながら渡してきた。思わず受け取ったけど、さすがにさっきクッキーを貰ったのにまた貰うなんてできないと返そうとしたけど「どうせ余っちゃうから、お兄さんと食べて」と言われてしまった。
今度お返ししなくちゃと思いながら鞄に入れてから、元気よく喫茶店の扉を開いた。
「また来るね!」
手を振ると、大月さんも振り返してくれた。
バーボンはもう十数メートル先まで来ていて、私が店から出たのに気づいて表情を明るくさせながら足を速めた。
「やっぱりここでしたか」
「うん! 今日はみかんのジュース飲んだんだー」
バーボンは店内を覗き見たが、大月さんはもう店の奥に行ってしまって見えなかった。
「あんまり甘いものばかり飲むと体に悪いですよ」
「大丈夫! ここのジュースはミキサーで潰したジュースだから」
「それならいいですが……。ほら、早くホテルに戻りますよ。スコッチが待っています」
「スコッチ?」
「ええ。先にギターを持って帰ってもらったんです」
それなら待たせたら悪い。
差し出された骨ばった手をしっかりと握った。
道すがら、大月さんから帰り際にクッキーをもらったからスコッチと三人で食べようと話ながら急いでホテルに戻った。