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閉ざされた部屋の中で初夏の陽気を感じるようになった。私にかけられた幻術は解け、最近ではバーボンに連れられて多少の散歩は許されるようになった。それでも相変わらずベッドの上での生活が続いている。
私の部屋はとても狭い。たぶん、誰かの個人的な研究室だったところを使っているんだと思う。六畳ほどの広さはあるけど、ベッドとサイドテーブル、テーブルとソファーとクローゼットで圧迫感がある。だけど、病院の個室みたいドアの前に洗面所があるので、研究室というよりワンルームの部屋みたいで居心地がいい。
朝、目が覚めて入院着のようなパジャマのまま微睡んでいると、ノックもなく部屋の扉が開いた。
挨拶も疎かに入ってきたのはプラチナブロンドの美女だった。スカートから伸びるすらりとした脚、きゅっとくびれた腰と豊満な胸。
どこかで見覚えがある。
エメラルドの瞳を見つめていると、ラズベリー色で縁取られた美しい唇がゆっくりと動いた。
「ベルモットよ」
よろしくとは言わなかったけど、ツンと澄ました顔が微笑に変わった。
ベルモットは片手に持っていた白い箱を私に押しつけてからベッドサイドの椅子に腰を下ろした。
箱を開けると、てらてらと輝く苺のタルトと大きなシュークリームが入っていた。ふわりと甘い香りが鼻孔をくすぐる。
どうして突然ケーキを渡されたのだろうと首を傾げてベルモットに視線を移すと、彼女は「私のこと、覚えていないかしら」と、さっきとは違う含みのある笑みを浮かべた。
その表情はやっぱり既視感があった。と、同時にブリガンテファミリーの地下の牢屋の景色が脳裏を掠める。
そうだ、あそこで意識が朦朧とした私を抱き起こした氷のような女性、それが彼女だった。
「思い出したかしら」
「うん」
「ケーキは快気祝いよ。もう外に出られるし、食事も好きなものが食べられるわ」
そういうことなら、とベッドから降りてベルモットの前の椅子に座ってから、そうっと苺のタルトを取り出してかぶりついた。
苺のみずみずしい酸っぱさと、カスタードクリームのもったりとした甘さが口の中で交じり合う。久々の甘味が脳に響き、自然と頬が上がった。
タルトのザクザクとした食感を楽しみながら食べ進めていると、おもむろにベルモットが椅子から立ち上がって備え付けのクローゼットの中を漁り始めた。私が一度も開いていないものだ。何をしているのだろうと横目で見ていると、中から黒のロングワンピースを取り出し、ベッドの上にふわりと投げてきた。最後のひとかけらを口に詰め込み、ワンピースを広げてみた。ノースリーブの袖に大ぶりのレースがぐるりとついているものの、全体的にはシンプルなデザイン。
「それに着替えて」そう言いながら、ベルモットはさっさと机の上を片付けていく。
まだシュークリームが残っているのに……と、ケーキの箱を見ていると、ベルモットは「あとでね」と笑って箱を閉めた。
ベルモットは部屋から出る気配はないし、私もこんな子供の体を見られても羞恥心は沸かないのでバサリとパジャマを脱ぎ捨てて頭からワンピースを被った。靴下と靴も渡されたものを大人しく履くと、ベルモットは左手にシュークリームが入った箱、右手に私の手を握ってそのまま研究所から私を連れ出した。
気づけば列車に乗り、ボックスシートにベルモットと向かい合わせで座っていた。
「ねえ、今からどこにいくの?」
「ヴェネツィア、ですよ」
ベルモットに尋ねたが、返ってきたのは軽やかな低い声だった。
声がした通路の方に顔を向けると、口元に微笑を携えたバーボンが立っていた。思わず「バーボン!」と名前を呼ぶと、バーボンは私を見てにっこりと笑ったあと、ベルモットに温度のない目を向けた。
「初めましてバーボンです。あなたは……ベルモットでしょうか?」
「ええ。よくわかったわね」
「ベルモットという女性も愛子の世話をするということは聞いていましたから。……ですが、ヴェネツィアに行くのは僕と愛子の二人のはずでは?」
「予定ではね。でもこの子、初めての長期外泊でしょう? 男のあなただけじゃ不安かと思って」
「それは、ありがとうございます」
一見、気を使いあった優しい会話なのに二人の表情は冷めきっている。まるで子供の前でする顔じゃない。私じゃなくても、きっと凍った心に気づくはず。
バーボンは私の横に腰を下ろすと、キャリーケースからカラフルな冊子を取り出し私に渡してきた。表紙には明朝体でヴェネツィアの文字。パラパラとめくると、ヴェネツィアで有名なゴンドラや運河の写真がたくさん載っていた。
「水の都かあ……。どうして急に行くことになったの? 旅行?」
「ええ。僕は少し用事がありますけど」
ああ、仕事だなと気づいてパンフレットに視線を落とした。これは向こうで下手な行動はできないな。
「ずっと用事があるわけじゃありませんから、時間があるときは一緒に観光に行きましょう。……とは言っても、有名どころは一日あれば回れるそうですけど」
「じゃあ、ゆっくり回らないとね! ベルモットも一緒に行くの?」
「ええ……まあ、そうね。一緒に行こうかしら」
絶対に一人で行動しようとしていたな。でも無邪気な子供の笑顔を使ってベルモットを観光に巻き込むことに成功した。
ベルモットからケーキの箱を受け取り、残していたシュークリームを頬張った。ふんふんと上機嫌で鼻唄を歌いながら薄いパンフレットを眺めていると、後ろから「あらあら」という老婆の声が聞こえた。振り返ると、後ろの座席のおばあちゃんがニコニコと笑ってこちらを見ていた。
「お嬢ちゃん、お母さんと一緒に行けてよかったね」
少し訛っているが、確かに日本語でそう言った。
髪は白く判断できないが、目は透き通るような青のため日本人ではないことがわかる。驚いて、ベルモットがお母さんと言われたことなんて気づかずに「日本語わかるの?」と不躾に聞いてしまった。
おばあちゃんは気にしていない様子で「わかるよ。知り合いに日本人がいるんだ」と懐かしむような顔で言った。
「それに日本にも行ったことがあるんだよ。お嬢ちゃんが生まれる、ずいぶん前だけどね」
「どこに行ったの? 楽しかった?」
「東京だけだったけど楽しかったよ。……道に迷った時に可愛い女の子が助けてくれたことがあって、その女の子の見た目も年頃もお嬢ちゃんそっくりで懐かしくてつい話しかけちゃった」
その女の子を思い出してか、優しく笑いながらおばあちゃんはベルモットとバーボンの方を見て「お邪魔しちゃってごめんなさいね」と軽く謝った。
「いえいえ、これも何かの縁ですから。……その女の子とは連絡を取っているんですか?」
「その場限りだったよ。今頃どうしているのかしらねえ」
「女の子の名前ってわかりますか?」
やけにつっこんで聞いていくなと思いながら、私の頭上で会話する二人の話の行方を見守る。ベルモットは興味をなくしたようで、流れる景色を眺めていた。
おばあちゃんはバーボンの質問に斜め上に視線をやり、消えかかった記憶を探るように眉をひそめながらゆっくりと話した。
「一緒にいた中学生の男の子たちが名前を呼んでたんだけど、なんせ七年近く前のことだから忘れちゃったわ」
「そうですか……」
話は終わったようで、おばあちゃんは可愛らしく「チャオ」と言って席に座った。
バーボンは顎に手を当てて何やら考え事を始めた。きっとおばあちゃんの言っていた人物についてだろう。
私と似ていると言っても、年齢が七年前で五歳ならきっと私とは無関係。それより年齢で考えるなら、中学生の男の子の七年後はバーボンくらいの年齢のはず。
考え事をするバーボンの横、私も同じように考えていると、ベルモットが溜息をついて小声で「そんなんだから、家族と間違えられるのよ」と言ってバーボンを見た。
「え? ……ああ、さっき言われたことですか」
「ええ。あなたたち今、同じ表情で考え事をしていたわよ。まあ、家族に見られた方が都合はいいんでしょうけど」
「そうですね。僕たちの関係を聞かれても困りますし」
「じゃあ、バーボンがパパンでベルモットがママンね!」
「バーボンと夫婦っていうのはなんだか嫌ね。仮面夫婦ってところかしら」
意地悪くベルモットが笑いながら言ったのがおかしくて笑ってしまった。