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部屋に戻ると待っていたのはバーボンだった。ベッドに腰掛け足を組み、ドアの前で立ちすくむ私を無言で見つめている。
怒っている。
子供のころの記憶が呼び起こされた。小学生のころ、ランドセルだけ家に置きに帰ってそのまま遊びに行って遅くなったときの記憶だ。あのときの静かな母親の顔と、目の前のバーボンの顔が重なって見えた。
だけど、あのときの母親と違ってバーボンは別に心配はしていないだろう。いや、少しはしているだろうけど何か問題が起きても逃げるだけの力が私にあることを彼は知っている。
「ただいま。遅くなってごめんね」
一応謝っておけばバーボンはふうと息を吐いて表情を変えた。
「僕も帰るのが遅くなったから偉そうなことは言えませんが」
そう前置きをしてから、一応任務の一環で泊まっているのだから無闇に出歩いて人の記憶に残らないようにと注意された。すでに服部くんと遠山さんに顔と名前を覚えられてしまっているけど、バーボンの言いたいことは、つまりは迂闊なことをするなということだから問題ない。私はちゃんと考えて二人に声をかけたのだから。
その他にも続いたバーボンの小言を聞き流しながらベッドに寝転がった。聞いているのかという顔で見られたけど「はいはい」と適当に返事をすれば、はあと諦めの溜息を一つもらった。
「ご飯は?」
「食べてないよ」
「何か食べますか? この時間だとレストランは閉まっていますが売店なら何かあるでしょう」
「うーん、いらない。バーボンは何か食べた?」
「……ええ」
随分と歯切れの悪い返事。残業終わりに一杯引っかけてきたことを妻に責められる夫のようだ。
実際のところ、バーボンは付き合いでしかたなく食べたのだろう。そうじゃなければ私を置いて一人で食べない。
バーボンはベッドから立ち上がると冷蔵庫を開けて中から炭酸水のペットボトルを取り出した。プシュウッと軽快な音を立ててキャップを開けて口に含む。ただ炭酸水を飲んだだけなのに嫌になるほど絵になる。
「それで、こんな時間まで何をしていたんです?」
ペットボトルをテーブルに残してバーボンが戻ってきた。
声音は世間話のそれで、さっきまでの小言モードは完全に終了したことを示していた。
「ホテル散歩してたら、面白いお兄ちゃんとお姉ちゃんがいたから一緒に遊んでたの」
「へえ」
自分で聞いておきながら、あまり興味のなさそうな反応だ。
「お兄ちゃん、探偵なんだって」
「探偵?」
バーボンの眉間にしわが寄った。青い眼が私をまっすぐ突き抜く。
「どんな人ですか?」
バーボンの無表情な眼に力がこもった。
警戒されている。
ぴくりと頬が震えた。
私が「探偵」の「男」に何か組織のことを漏らしていないか勘ぐっているのだろう。普通、探偵なんて聞くと大人を連想するし。そしてその探偵はたいてい胡散臭くて信用ならない。
となれば私が言うべきことは一つ。
「大阪のね、中学校のお兄ちゃんだよ! 修学旅行なんだって。面白い話し方してて楽しかったよ」
中学生ってことをアピールしておけばバーボンは安心するだろう。
私の予想は的中したようで、バーボンの眼差しは優しくなった。
「中学の修学旅行ですか……」
追憶するように呟かれた言葉は、バーボンには珍しい人間味のある声だった。
バーボンも十年ほど前、無邪気に修学旅行を楽しんでいたと思うと変な感じがする。
バーボンはどんな子供だったのなんて聞くような関係じゃないから開きかけた口を閉じた。
代わりにバーボンが口を開いた。
「それで、何か事件があったんですか?」
冷やかし半分で聞いてきた。
遊びの探偵ごっこだと思っているのだろう。私も最初はそうだと思っていたからわかる。残念なことにわりと大事件だった。どこまで誤魔化すか。何もなかったって言っても俳優が死んでいるんだし明日にはニュースになってバーボンの耳にも入るだろう。
変に誤魔化すと勘ぐるか――。
「映画のロケに来ていた俳優さんが殺されたんだ」
「……解決したんですか?」
「うん。映画のスタッフの人が犯人だったよ。楽しかったけど疲れちゃった、探偵って大変だね。私、全然犯人わからなかったよー」
手を振って降参したことを示すと、バーボンは鼻で笑った。
「愛子には向いていない職業でしょうね」
あ、すごくバカにされている。だけど否定できないのが悔しい。
「そういうバーボンは探偵得意そうだね」
何でもそつなくこなしちゃうから探偵業くらい簡単にできそう。
そんな何も考えずに言った言葉は、バーボンの心のどこかに刺さったらしい。毒気の抜かれた顔で私を見た。
「探偵、ですか」
「バーボンが探偵をしたら、すごく格好つけて、もったいぶって『……さて』とか言いそう」
さっきのお返しとばかりに小馬鹿にしたら頭をこつんと叩かれた。
「バカなこと言ってないで、もう遅い時間だからシャワーを浴びて寝なさい」
「はーい」
ベッドからぴょんと飛び降りてクローゼットからパジャマを引っ張り出す。
「明日は?」
「帰ります。任務も今のところないです」
「よかったー! やっと休みだ」
「任務続きで疲れました?」
「私じゃなくてバーボンがね。絶対に予定入れないでよ? 私も研究所で大人しくしておくから、絶対に休んでね」
何度も念を押すと、バーボンは眉尻を下げて頷いた。
それでも信用ができなくて、「バーボンは、死んじゃダメだよ」と言い残してバスルームに入った。
今のバーボンはどこか生き急いでいるように見えた。別に自暴自棄になっているわけではないし、仕事詰めとはいえ無茶をしているわけでもない。危険な任務を入れているわけでもない。それでも、放っておくと底なし沼に沈んで窒息死してそうだった。
別に私が気にすることじゃないけど、さすがにこれだけ普段お世話になっている人を見捨ててしまったら後味が悪い。
誰に宛てるでもでもない、そんな言い訳をしながら服を脱いだ。
そして服の下に隠していた小さなメモの切れ端を取り出す。そこに書かれているのは十一桁の数字。別れる間際に聞いた服部くんの携帯番号だ。今すぐには使えないその番号を頭に叩き込み、小さく破って水に溶かして流した。